拝啓「でにろう」様―。
30年ほど、あなたのファンでありつづけている日本の映画小僧です。
どのくらいあなたのことが好きかというと、たとえばケータイのアドレスは「@前」が「de-niro」だったりします。
機種変更の度にdocomoショップのおねいさんに「ロバート・デ・ニーロが好きなんですか」と問われ、
あぁこのひとは映画を知っているんだなと解釈、あなたの代表作をいくつか挙げてそれらが好きと答えると、おねいさんはきまって「ぽかん…」とします。
なんだよ、知らねーのかよ、、、なんつって。
若いころはモヒカンヘアにもしました。
M-65を羽織って歌舞伎町を歩き、トラビスを気取ったものです。
日本で観ることの出来る、あなたの出演作すべてを観ています。
そのほとんどを無条件に愛していますが、ただひとつだけ乗れなかった映画があります。
乗れなかった。
というより、
ピンとこなかった。
ピンとこなかった。
というより、
感心しなかった。
・・・というべき、でしょうか。
それが、オスカー演技賞にもノミネートされた『レナードの朝』(90)なのです。
嗜眠性脳炎の患者にパーキンソン病向けの新薬を投与、その効果により30年ぶりに覚醒した男の物語。
患者をあなたが、医師をロビン・ウィリアムズが演じました。
いや、映画そのものは嫌いではないのです。
正直、あなたが関わっている映画のなかにも失敗作はありますが、『レナードの朝』はそうじゃない。
ただ、いつもは感嘆するあなたの演技に、ついていけなかった。
徹底したリサーチのもと、あなたが「ホンモノであるかのように」演じているのは、よーーく分かるのですが。
これって「巧い」のだろうか―と、疑問を抱いてしまったのです。
いわゆる「難病モノ」、そのすべてに当てはまることのような気はします。
たとえば足で絵を描くクリスティ・ブラウンを演じた、『マイ・レフトフット』(89)のダニエル・デイ=ルイス。
ルイス様はこの演技でオスカー主演賞を受賞、
ダブリンからやってきた名優に「すごい!」と賛辞を贈るのはやぶさかではないのですが、果たして「巧い」のかなぁ、、、と。
いや実際、巧いのでしょう。
おそらく自分のなかで納得がいかないのは、ことばは適切とは思えませんが・・・
目立つ演技をしたあなたばかりが評価され、抑えた演技を披露したロビン・ウィリアムズが正当に評価されていない―そう感じたからなのです。
そんなことをあなたにいっても、じゃあどうすればよかったのかって話なのですけれどね。
「難病モノ」と向き合うときの、自分自身の問題であるわけで。
あなたが「ただただ地味」なキャラクターを演じたとしたら「物足りない」とかいう、
だから、気の触れたキャラクターを演じるあなたに拍手喝采する、
そのクセして、
なんというのでしょう、そこには健常者ゆえの後ろめたさもあるような気がしますが、
「難病モノ」で迫真の演技を見せられると、
ちがうちがうそうじゃない、あなたに求めているのはそういうものではない―極端にいうとですが、そんな風に拒否反応を起こす。
どう観たらいいのか分からない。
あなたの演技を、こころから楽しめない。
つまりファンというものは、いつだって自分勝手なのです。
自分勝手「ついで」に。
熱心なファンだけが、あなたのことを「でにろう」と呼ぶことが出来る・表記出来ると思っています。
宮崎駿やスコセッシのことを宮崎爺ぃ、スコ爺ぃと呼ぶ・表記することもある自分ですが、それは信者だけが許されていることであると。
たいして知らないひとは、そう呼ぶな書くなと。
勝手でしょう、呆れるでしょう、厄介でしょう。
でもね。
これまた自分勝手にいい切ってしまいますが、そうさせてしまうのは、結局のところ、あなたが原因なのです。
自分は、自虐と責任転嫁の意味をこめて、映画に人生を狂わされた―と表現しています。
もう少しはっきりいってしまうと、スコ爺ぃとでにろうの映画に出会ったから、自分はこうなったのだと。
それで救われた面はおおいにありますが、出会ってさえいなければ、またちがった人生があったのかもしれません。
すごいでしょう、この勝手な言い分。
ファンとは、そういう恐ろしい存在なのです。
だから。
でにろうさん、これからも、ファンが勝手に抱く期待や幻想に応えるべく、デ・ニーロ・アプローチをつづけてください。
それが、映画小僧に対する責任の取りかた(笑) なのだと思います。
敬具。
…………………………………………
明日のコラムは・・・
『浮気できません』
30年ほど、あなたのファンでありつづけている日本の映画小僧です。
どのくらいあなたのことが好きかというと、たとえばケータイのアドレスは「@前」が「de-niro」だったりします。
機種変更の度にdocomoショップのおねいさんに「ロバート・デ・ニーロが好きなんですか」と問われ、
あぁこのひとは映画を知っているんだなと解釈、あなたの代表作をいくつか挙げてそれらが好きと答えると、おねいさんはきまって「ぽかん…」とします。
なんだよ、知らねーのかよ、、、なんつって。
若いころはモヒカンヘアにもしました。
M-65を羽織って歌舞伎町を歩き、トラビスを気取ったものです。
日本で観ることの出来る、あなたの出演作すべてを観ています。
そのほとんどを無条件に愛していますが、ただひとつだけ乗れなかった映画があります。
乗れなかった。
というより、
ピンとこなかった。
ピンとこなかった。
というより、
感心しなかった。
・・・というべき、でしょうか。
それが、オスカー演技賞にもノミネートされた『レナードの朝』(90)なのです。
嗜眠性脳炎の患者にパーキンソン病向けの新薬を投与、その効果により30年ぶりに覚醒した男の物語。
患者をあなたが、医師をロビン・ウィリアムズが演じました。
いや、映画そのものは嫌いではないのです。
正直、あなたが関わっている映画のなかにも失敗作はありますが、『レナードの朝』はそうじゃない。
ただ、いつもは感嘆するあなたの演技に、ついていけなかった。
徹底したリサーチのもと、あなたが「ホンモノであるかのように」演じているのは、よーーく分かるのですが。
これって「巧い」のだろうか―と、疑問を抱いてしまったのです。
いわゆる「難病モノ」、そのすべてに当てはまることのような気はします。
たとえば足で絵を描くクリスティ・ブラウンを演じた、『マイ・レフトフット』(89)のダニエル・デイ=ルイス。
ルイス様はこの演技でオスカー主演賞を受賞、
ダブリンからやってきた名優に「すごい!」と賛辞を贈るのはやぶさかではないのですが、果たして「巧い」のかなぁ、、、と。
いや実際、巧いのでしょう。
おそらく自分のなかで納得がいかないのは、ことばは適切とは思えませんが・・・
目立つ演技をしたあなたばかりが評価され、抑えた演技を披露したロビン・ウィリアムズが正当に評価されていない―そう感じたからなのです。
そんなことをあなたにいっても、じゃあどうすればよかったのかって話なのですけれどね。
「難病モノ」と向き合うときの、自分自身の問題であるわけで。
あなたが「ただただ地味」なキャラクターを演じたとしたら「物足りない」とかいう、
だから、気の触れたキャラクターを演じるあなたに拍手喝采する、
そのクセして、
なんというのでしょう、そこには健常者ゆえの後ろめたさもあるような気がしますが、
「難病モノ」で迫真の演技を見せられると、
ちがうちがうそうじゃない、あなたに求めているのはそういうものではない―極端にいうとですが、そんな風に拒否反応を起こす。
どう観たらいいのか分からない。
あなたの演技を、こころから楽しめない。
つまりファンというものは、いつだって自分勝手なのです。
自分勝手「ついで」に。
熱心なファンだけが、あなたのことを「でにろう」と呼ぶことが出来る・表記出来ると思っています。
宮崎駿やスコセッシのことを宮崎爺ぃ、スコ爺ぃと呼ぶ・表記することもある自分ですが、それは信者だけが許されていることであると。
たいして知らないひとは、そう呼ぶな書くなと。
勝手でしょう、呆れるでしょう、厄介でしょう。
でもね。
これまた自分勝手にいい切ってしまいますが、そうさせてしまうのは、結局のところ、あなたが原因なのです。
自分は、自虐と責任転嫁の意味をこめて、映画に人生を狂わされた―と表現しています。
もう少しはっきりいってしまうと、スコ爺ぃとでにろうの映画に出会ったから、自分はこうなったのだと。
それで救われた面はおおいにありますが、出会ってさえいなければ、またちがった人生があったのかもしれません。
すごいでしょう、この勝手な言い分。
ファンとは、そういう恐ろしい存在なのです。
だから。
でにろうさん、これからも、ファンが勝手に抱く期待や幻想に応えるべく、デ・ニーロ・アプローチをつづけてください。
それが、映画小僧に対する責任の取りかた(笑) なのだと思います。
敬具。
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明日のコラムは・・・
『浮気できません』