きのうのつづきで、「おはつ」アルバイトの話。
映画館『清流』で、自分の手により映写した作品をいくつか挙げてみる。
(順不同)
『バック・トゥ・ザ・フューチャー PART3』(90)…「PART2」を鑑賞した帰りに「バイト募集」の貼り紙に気づき、そのまま面接をした。
『トータル・リコール』(90…トップ画像)
『フィールド・オブ・ドリームス』(89)
『稲村ジェーン』(90)
『息子』(91)
『タスマニア物語』(90)
『ダイ・ハード2』(90)
自分が執拗なまでに『稲村ジェーン』を嫌悪・罵倒しているのは、これほどつまらない作品を、少なくとも50回は観なければいけなかったから、、、なのかもしれない。
ほかの映画小僧に聞いても、「『稲村ジェーン』? あぁ、そんなのあったね。桑田さんもキャリアから消したいんじゃないの」という程度の認識なのに、
自分はいつまで経っても「最悪の出来だった。映画史上で揺るぎないワーストに輝く、唾棄すべき作品だよ」と、いい続けているのだから。
逆に『フィールド・オブ・ドリームス』は何度観ても飽きることがなく、楽日を迎えることが悲しかった。
『清流』には、ふたつの「箱」があった。
ともに座席数は400~500、スクリーンも大きく、ただ座席そのものの座り心地は「う~~ん、、、」という感じ。
ハリウッド産のビッグバジェットがかかれば、初日から数日間は7割程度の入りを確保出来る。
しかし基本的には5割以下の入りで、ぎりぎりの経営が続いていた。
好きでなければやっていられない―そういう仕事なのだろう。
支配人は脚の悪かった新名という中年男性で、実際に「超」のつく映画小僧だった。
ただ商売というのも自覚していて、自分が「『稲村ジェーン』なんかより、武の『3-4X10月』をかけてくださいよ」というと、
「いい映画かもしれんが、あれはダメだ。客が入らないもの」と切り捨てたのである。
新名さんの若かりしころは、知らない。
いまの自分には他者の過去に「ずけずけと」入り込んでいく無神経さがあるが、
当時はまだ童貞野郎だったのである、基本的には聞き役で「はぁ」とか「はい」とか相槌を打ち続けるようなガキだった。
ただ分かっていたのは、新名さんも映画監督あるいは脚本家に憧れていた―ということ。
事務所には、万年筆と原稿用紙が置かれていた。暇を見つけては、シナリオを書いていたのだ。
自分が休憩中に専門誌『月刊シナリオ』を読んでいると・・・
「なんだ、牧野もホンを書きたいのか」
「えぇ、ちょっとやってみようかな、、、と」
「これ、読んでみるか」
表紙に『ちょうちん』と書かれた、新名さんのオリジナルシナリオだった。
「書き上げるのに、3年も要したよ」
「・・・3年、、、も」
「時間がないんじゃない、ふだん映画についていろいろいっているけれど、いざ自分がやってみようとすると、その無力さを痛感する、、、というかね」
「・・・・・」
その『ちょうちん』、どんな物語だったか、はっきりいって覚えていない。
感心はしなかったが、映画への表現への深い愛情だけは感じられた。(なんかエラソーだな、自分)
「牧野はこれからの人間だし、東京に行ったほうがいいんだろうな」
「自分も、東京に憧れています」
「うん、なにより情報量がちがう。映画館だって、同じ街に沢山ある」
まるで『ニュー・シネマ・パラダイス』(89)の世界だが、ほんとうにそんな日常だった。
ほとんど同じ時期に「新名さんと同じような状況下で」シナリオを書いていた若者が米国に居た。
QTこと、クエンティン・タランティーノである。
映画学校には通わず、また、8mmで自主制作を展開したわけでもなく、映画監督への道を切り開いた先駆者。(QTに対する思い入れの強さは、その独特なキャリアによる・・・と自負するのは、自分以外にも沢山居ると思う)
QTが出現したとき、まず想起したのが新名さんだった。
すでに上京していた自分はQTについて新名さんの感想が聞きたくて、久し振りに『清流』へ電話をしたのだった。
つづく。
※こちら、ジェニファー・コネリー主演の『恋の時給は4ドル44セント』(90)。
バイト青年の前に現れた美女、、、という米産のコメディ。
憧れるシチュエーションだが、場末の劇場にそんな美女は現れなかったよ当然だが。。。
…………………………………………
明日のコラムは・・・
『『<最終回>『初体験 リッジモント・ハイ「再録」(3)』』
映画館『清流』で、自分の手により映写した作品をいくつか挙げてみる。
(順不同)
『バック・トゥ・ザ・フューチャー PART3』(90)…「PART2」を鑑賞した帰りに「バイト募集」の貼り紙に気づき、そのまま面接をした。
『トータル・リコール』(90…トップ画像)
『フィールド・オブ・ドリームス』(89)
『稲村ジェーン』(90)
『息子』(91)
『タスマニア物語』(90)
『ダイ・ハード2』(90)
自分が執拗なまでに『稲村ジェーン』を嫌悪・罵倒しているのは、これほどつまらない作品を、少なくとも50回は観なければいけなかったから、、、なのかもしれない。
ほかの映画小僧に聞いても、「『稲村ジェーン』? あぁ、そんなのあったね。桑田さんもキャリアから消したいんじゃないの」という程度の認識なのに、
自分はいつまで経っても「最悪の出来だった。映画史上で揺るぎないワーストに輝く、唾棄すべき作品だよ」と、いい続けているのだから。
逆に『フィールド・オブ・ドリームス』は何度観ても飽きることがなく、楽日を迎えることが悲しかった。
『清流』には、ふたつの「箱」があった。
ともに座席数は400~500、スクリーンも大きく、ただ座席そのものの座り心地は「う~~ん、、、」という感じ。
ハリウッド産のビッグバジェットがかかれば、初日から数日間は7割程度の入りを確保出来る。
しかし基本的には5割以下の入りで、ぎりぎりの経営が続いていた。
好きでなければやっていられない―そういう仕事なのだろう。
支配人は脚の悪かった新名という中年男性で、実際に「超」のつく映画小僧だった。
ただ商売というのも自覚していて、自分が「『稲村ジェーン』なんかより、武の『3-4X10月』をかけてくださいよ」というと、
「いい映画かもしれんが、あれはダメだ。客が入らないもの」と切り捨てたのである。
新名さんの若かりしころは、知らない。
いまの自分には他者の過去に「ずけずけと」入り込んでいく無神経さがあるが、
当時はまだ童貞野郎だったのである、基本的には聞き役で「はぁ」とか「はい」とか相槌を打ち続けるようなガキだった。
ただ分かっていたのは、新名さんも映画監督あるいは脚本家に憧れていた―ということ。
事務所には、万年筆と原稿用紙が置かれていた。暇を見つけては、シナリオを書いていたのだ。
自分が休憩中に専門誌『月刊シナリオ』を読んでいると・・・
「なんだ、牧野もホンを書きたいのか」
「えぇ、ちょっとやってみようかな、、、と」
「これ、読んでみるか」
表紙に『ちょうちん』と書かれた、新名さんのオリジナルシナリオだった。
「書き上げるのに、3年も要したよ」
「・・・3年、、、も」
「時間がないんじゃない、ふだん映画についていろいろいっているけれど、いざ自分がやってみようとすると、その無力さを痛感する、、、というかね」
「・・・・・」
その『ちょうちん』、どんな物語だったか、はっきりいって覚えていない。
感心はしなかったが、映画への表現への深い愛情だけは感じられた。(なんかエラソーだな、自分)
「牧野はこれからの人間だし、東京に行ったほうがいいんだろうな」
「自分も、東京に憧れています」
「うん、なにより情報量がちがう。映画館だって、同じ街に沢山ある」
まるで『ニュー・シネマ・パラダイス』(89)の世界だが、ほんとうにそんな日常だった。
ほとんど同じ時期に「新名さんと同じような状況下で」シナリオを書いていた若者が米国に居た。
QTこと、クエンティン・タランティーノである。
映画学校には通わず、また、8mmで自主制作を展開したわけでもなく、映画監督への道を切り開いた先駆者。(QTに対する思い入れの強さは、その独特なキャリアによる・・・と自負するのは、自分以外にも沢山居ると思う)
QTが出現したとき、まず想起したのが新名さんだった。
すでに上京していた自分はQTについて新名さんの感想が聞きたくて、久し振りに『清流』へ電話をしたのだった。
つづく。
※こちら、ジェニファー・コネリー主演の『恋の時給は4ドル44セント』(90)。
バイト青年の前に現れた美女、、、という米産のコメディ。
憧れるシチュエーションだが、場末の劇場にそんな美女は現れなかったよ当然だが。。。
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明日のコラムは・・・
『『<最終回>『初体験 リッジモント・ハイ「再録」(3)』』