い「し」→「し」ねま(シネマ)
記念すべき? 301回目のしりとりは、狙ったかのように「シネマ」。
姉に連れて行ってもらった成龍ジャッキーのアクションから映画の世界に魅了され、
淀川長治の解説で成龍の原形がチャップリンにあることを知り、
多感な少年期というタイミングも絶妙だったのか、チャップリンが後期に展開した社会性の強い作品で視野が広がり、
ちょうどそのころ、ハリウッドでは第二次ベトナム戦争映画ブームが到来、『プラトーン』(86)が日本に上陸する。
反戦映画にはちがいないが、戦争によって得られる真理もある―と説いたこの映画に、表現の面白さを教えられた。
やがて「社会性のある映画」ばかりを求めるようになり、そうしてスコセッシに辿り着いた。
と同時に、俳優やジャンルではなく、映画監督で映画を観る、つまり監督至上主義に傾倒していくようになる。
さらにいえば。
「質より量」だった学生時代に浴びるように映画を観た結果、どんなジャンル映画にだって「なんらかの社会性が含まれている」ことに気づく。
こうして、映画小僧が出来上がったと。
(オスカー予想が「だいぶ」外れたため、今年いっぱいはそう自称することを控えている!笑)
現在、映画に「何度目かの変革期」が訪れている。
最初は、「モンタージュの発見」。
つぎに、音声の獲得。
カラー化、テレビとの戦争、CGそしてデジタル革命を経て、ネット配信という新たな鑑賞スタイルが出来つつある。
光と影の世界が映画ではないのか。
大スクリーン・大音響で体感することが映画鑑賞ではないのか。
ちょっと既視感を覚えるのは、20年ほど前に勃発した「フィルムVSデジタル」戦争を目の当たりにしているからだろう。
あのころの自分は、「焼きつけるフィルムと記録するデジタルでは根本がちがう。前者こそ映画なんだ!」と熱く語ったが、現在の映画のほとんどがデジタル仕様なのだった。
だからおそらくネット配信による映画鑑賞も、10年も経たないうちに「当たり前のこと」とされるのでしょう。
自分だってそれで映画を観ることはあるよ、
ただ、それが主流になってしまうのは困る、、、というだけで。
基本は、映画は映画館で。
選択肢のひとつとしてなら、ネット配信があったって構わないです、はい。
話は、だいぶ逸れるけれども。。。
夏休み後半に突入したあたりから、学校でいじめられている子に著名人ら―しょこたんや、仮面女子・猪狩ともか―がメッセージを発信している。
二学期問題ね、9月の頭に自殺者が増えるっていう。
「逃げてもいい」「誰かに吐き出して」などなど、様々なメッセージがあるなかで自分が最もハッとしたのは・・・
「大丈夫じゃない子だけが、大丈夫と答えるから気をつけて」というもの。
大丈夫な子は大丈夫? と聞くと、大丈夫ゆえに「なにが?」と返すはずだ、、、ってね。
自分からは特別ななにかをいえることはないけれども、
映画や小説、漫画や音楽が救ってくれることって、ほんとうにあるからね!
ということだけは、教えてあげたい。
自分は高校生のころにいじめに遭ったが、毎日のように『タクシードライバー』や『キャリー』―ともに76年生まれの大傑作―を観て、クライマックスの大殺戮で「ほぼ絶頂」に達していた。
その映像を頭に焼きつけ、学校で脳内再生して時間が過ぎるのを待った。
想像のなかでなら、「憎いアイツ」を何度でも殺せるからね。
そうやって耐えろ、といってるんじゃない。
これも一種の逃避なんだよ、器用ではなかったけれど。
ただ思うのは、死のうと思ったあの時期、死ななくてよかったなぁって。
そんなにも早く、自分の人生にピリオドつける必要もないよ。
しかも、「憎いアイツ」のためにね。
しね「ま」→「ま」んと。
…………………………………………
明日のコラムは・・・
『シネマしりとり「薀蓄篇」(302)』
記念すべき? 301回目のしりとりは、狙ったかのように「シネマ」。
姉に連れて行ってもらった成龍ジャッキーのアクションから映画の世界に魅了され、
淀川長治の解説で成龍の原形がチャップリンにあることを知り、
多感な少年期というタイミングも絶妙だったのか、チャップリンが後期に展開した社会性の強い作品で視野が広がり、
ちょうどそのころ、ハリウッドでは第二次ベトナム戦争映画ブームが到来、『プラトーン』(86)が日本に上陸する。
反戦映画にはちがいないが、戦争によって得られる真理もある―と説いたこの映画に、表現の面白さを教えられた。
やがて「社会性のある映画」ばかりを求めるようになり、そうしてスコセッシに辿り着いた。
と同時に、俳優やジャンルではなく、映画監督で映画を観る、つまり監督至上主義に傾倒していくようになる。
さらにいえば。
「質より量」だった学生時代に浴びるように映画を観た結果、どんなジャンル映画にだって「なんらかの社会性が含まれている」ことに気づく。
こうして、映画小僧が出来上がったと。
(オスカー予想が「だいぶ」外れたため、今年いっぱいはそう自称することを控えている!笑)
現在、映画に「何度目かの変革期」が訪れている。
最初は、「モンタージュの発見」。
つぎに、音声の獲得。
カラー化、テレビとの戦争、CGそしてデジタル革命を経て、ネット配信という新たな鑑賞スタイルが出来つつある。
光と影の世界が映画ではないのか。
大スクリーン・大音響で体感することが映画鑑賞ではないのか。
ちょっと既視感を覚えるのは、20年ほど前に勃発した「フィルムVSデジタル」戦争を目の当たりにしているからだろう。
あのころの自分は、「焼きつけるフィルムと記録するデジタルでは根本がちがう。前者こそ映画なんだ!」と熱く語ったが、現在の映画のほとんどがデジタル仕様なのだった。
だからおそらくネット配信による映画鑑賞も、10年も経たないうちに「当たり前のこと」とされるのでしょう。
自分だってそれで映画を観ることはあるよ、
ただ、それが主流になってしまうのは困る、、、というだけで。
基本は、映画は映画館で。
選択肢のひとつとしてなら、ネット配信があったって構わないです、はい。
話は、だいぶ逸れるけれども。。。
夏休み後半に突入したあたりから、学校でいじめられている子に著名人ら―しょこたんや、仮面女子・猪狩ともか―がメッセージを発信している。
二学期問題ね、9月の頭に自殺者が増えるっていう。
「逃げてもいい」「誰かに吐き出して」などなど、様々なメッセージがあるなかで自分が最もハッとしたのは・・・
「大丈夫じゃない子だけが、大丈夫と答えるから気をつけて」というもの。
大丈夫な子は大丈夫? と聞くと、大丈夫ゆえに「なにが?」と返すはずだ、、、ってね。
自分からは特別ななにかをいえることはないけれども、
映画や小説、漫画や音楽が救ってくれることって、ほんとうにあるからね!
ということだけは、教えてあげたい。
自分は高校生のころにいじめに遭ったが、毎日のように『タクシードライバー』や『キャリー』―ともに76年生まれの大傑作―を観て、クライマックスの大殺戮で「ほぼ絶頂」に達していた。
その映像を頭に焼きつけ、学校で脳内再生して時間が過ぎるのを待った。
想像のなかでなら、「憎いアイツ」を何度でも殺せるからね。
そうやって耐えろ、といってるんじゃない。
これも一種の逃避なんだよ、器用ではなかったけれど。
ただ思うのは、死のうと思ったあの時期、死ななくてよかったなぁって。
そんなにも早く、自分の人生にピリオドつける必要もないよ。
しかも、「憎いアイツ」のためにね。
しね「ま」→「ま」んと。
…………………………………………
明日のコラムは・・・
『シネマしりとり「薀蓄篇」(302)』