Cape Fear、in JAPAN

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『Cape Fear』…恐怖の岬、の意。

シネマしりとり「薀蓄篇」(301)

2019-08-28 01:52:15 | コラム
い「し」→「し」ねま(シネマ)

記念すべき? 301回目のしりとりは、狙ったかのように「シネマ」。


姉に連れて行ってもらった成龍ジャッキーのアクションから映画の世界に魅了され、
淀川長治の解説で成龍の原形がチャップリンにあることを知り、
多感な少年期というタイミングも絶妙だったのか、チャップリンが後期に展開した社会性の強い作品で視野が広がり、
ちょうどそのころ、ハリウッドでは第二次ベトナム戦争映画ブームが到来、『プラトーン』(86)が日本に上陸する。
反戦映画にはちがいないが、戦争によって得られる真理もある―と説いたこの映画に、表現の面白さを教えられた。




やがて「社会性のある映画」ばかりを求めるようになり、そうしてスコセッシに辿り着いた。

と同時に、俳優やジャンルではなく、映画監督で映画を観る、つまり監督至上主義に傾倒していくようになる。

さらにいえば。
「質より量」だった学生時代に浴びるように映画を観た結果、どんなジャンル映画にだって「なんらかの社会性が含まれている」ことに気づく。

こうして、映画小僧が出来上がったと。
(オスカー予想が「だいぶ」外れたため、今年いっぱいはそう自称することを控えている!笑)


現在、映画に「何度目かの変革期」が訪れている。

最初は、「モンタージュの発見」。
つぎに、音声の獲得。
カラー化、テレビとの戦争、CGそしてデジタル革命を経て、ネット配信という新たな鑑賞スタイルが出来つつある。

光と影の世界が映画ではないのか。
大スクリーン・大音響で体感することが映画鑑賞ではないのか。

ちょっと既視感を覚えるのは、20年ほど前に勃発した「フィルムVSデジタル」戦争を目の当たりにしているからだろう。

あのころの自分は、「焼きつけるフィルムと記録するデジタルでは根本がちがう。前者こそ映画なんだ!」と熱く語ったが、現在の映画のほとんどがデジタル仕様なのだった。

だからおそらくネット配信による映画鑑賞も、10年も経たないうちに「当たり前のこと」とされるのでしょう。

自分だってそれで映画を観ることはあるよ、
ただ、それが主流になってしまうのは困る、、、というだけで。

基本は、映画は映画館で。
選択肢のひとつとしてなら、ネット配信があったって構わないです、はい。


話は、だいぶ逸れるけれども。。。

夏休み後半に突入したあたりから、学校でいじめられている子に著名人ら―しょこたんや、仮面女子・猪狩ともか―がメッセージを発信している。

二学期問題ね、9月の頭に自殺者が増えるっていう。

「逃げてもいい」「誰かに吐き出して」などなど、様々なメッセージがあるなかで自分が最もハッとしたのは・・・

「大丈夫じゃない子だけが、大丈夫と答えるから気をつけて」というもの。

大丈夫な子は大丈夫? と聞くと、大丈夫ゆえに「なにが?」と返すはずだ、、、ってね。


自分からは特別ななにかをいえることはないけれども、
映画や小説、漫画や音楽が救ってくれることって、ほんとうにあるからね! 

ということだけは、教えてあげたい。


自分は高校生のころにいじめに遭ったが、毎日のように『タクシードライバー』や『キャリー』―ともに76年生まれの大傑作―を観て、クライマックスの大殺戮で「ほぼ絶頂」に達していた。



その映像を頭に焼きつけ、学校で脳内再生して時間が過ぎるのを待った。

想像のなかでなら、「憎いアイツ」を何度でも殺せるからね。


そうやって耐えろ、といってるんじゃない。

これも一種の逃避なんだよ、器用ではなかったけれど。


ただ思うのは、死のうと思ったあの時期、死ななくてよかったなぁって。


そんなにも早く、自分の人生にピリオドつける必要もないよ。

しかも、「憎いアイツ」のためにね。





しね「ま」→「ま」んと。

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明日のコラムは・・・

『シネマしりとり「薀蓄篇」(302)』
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