がーたーべる「と」→「と」らうま(トラウマ)
心的外傷(トラウマ)とは簡単にいえば、過去に受けた「肉体的」「精神的」な衝撃体験を引きずってしまう状態のことをいう。
トラウマと映画の第一人者といえば、やはりヒッチコックだろう。
『サイコ』(60)のノーマン・ベイツ(アンソニー・パーキンス)が「ああなって」しまったのも、家庭環境によるものだった。
エンディングの種明かしは(現代的な視点でいうと)ちょっとしつこ過ぎるようにも感じるけれど、
時代的に新しい解釈であったろうし、
彼の病が先天性なものでなかったことを強調することによって、トラウマの深刻さが浮かび上がる仕組みになっている。
イングリッド・バーグマンの美しさが際立つ『白い恐怖』(45)は、過去のトラウマを探る映画。
主人公は「白地に縞のある模様」を見ると発作を起こす。
様々な仕掛けが用意されていて、さすがヒッチコックだなぁと感心するが、なかでも「牛乳」を登場させるシーンが有名。
モノクロームの映像に「白の恐怖」を浮かび上がらせるため、グラスに「ワット数の弱い電球」を仕込むというアイデアが素晴らしい。
(茶碗にもられた米を掲げ、勘兵衛が「この米、おろそかには食わぬぞ」という『七人の侍』(54)の有名なシーン。あそこにも「見えない小道具」として電球が用いられている。どっちが先か後かという話ではなく、巨匠はやっぱりちがうねぇ!!)
ベトナム帰還兵が地獄の戦場の記憶に悩まされるというトラウマ映画は多い。
『タクシードライバー』(76)だけでなく、『ディア・ハンター』(78)も『ランボー』(82)も、『リーサル・ウェポン』(87)も『ジェイコブズ・ラダー』(90)も、みんなトラウマで「死にたい願望」を抱く主人公たちである。
いわゆる「フェチ」もそうだが、トラウマも多用され過ぎていて、「その程度で!」と思うことが多くなった。
そのことばが知られるようになったのはいいことだろうが、深刻とはいえない体験で「トラウマが…」といわれてもねぇ。
だから自分は20年前は脚フェチを自称していたが、脚だけで射精までいけるヤツ以外までフェチを名乗り始めて以降、脚キチガイと訂正するようになった。
そうなんだ、「より深刻なほう」が、べつのことばを探さなければいけない状況になってしまっている。
まぁ文句をいっていても始まらないか、ことばを専門とするひとによれば「ことばの意味の変遷とは、そういうものである」らしいので。
それらのことを含め、自分にとってのトラウマ的映画を3つ挙げてみたい。
『フライトナイト』(85)
ホラーコメディだが、公開時は小学生だったものでね、同時上映の『グーニーズ』(85)を観るために「頑張って」座席に座っていた。
しかしクライマックスの「こけおどし」演出に耐えられなくなって、とうとう座席を立った。
ロビーでコーヒー牛乳を飲み、上映終了を待つ映画少年。
売店のおばさんが「大丈夫?」と声をかけてくれたっけ。
後にも先にも、上映中に席を立ったのは本作のみである。
『7月4日に生まれて』(89)
負傷中のトム・クルーズがリハビリをしていると転倒、その衝撃で皮膚から骨が突き出すシーンが登場する。
成人以後にいろんな骨を折っているが、まだ骨折未経験であったし、その描写があまりにも衝撃的で、それから1週間くらいは「ゆっくり歩行すること」を心がけるほど影響を受けた。
『稲村ジェーン』(90)
映画そのものを嫌いになるほどの拷問体験だったから。
・・・分かってくれるひと、けっこう居るのではないかな。
あすのしりとりは・・・
とらう「ま」→「ま」ーだーけーすぶっく。
…………………………………………
本館『「はったり」で、いこうぜ!!』
…………………………………………
明日のコラムは・・・
『シネマしりとり「薀蓄篇」(102)』
心的外傷(トラウマ)とは簡単にいえば、過去に受けた「肉体的」「精神的」な衝撃体験を引きずってしまう状態のことをいう。
トラウマと映画の第一人者といえば、やはりヒッチコックだろう。
『サイコ』(60)のノーマン・ベイツ(アンソニー・パーキンス)が「ああなって」しまったのも、家庭環境によるものだった。
エンディングの種明かしは(現代的な視点でいうと)ちょっとしつこ過ぎるようにも感じるけれど、
時代的に新しい解釈であったろうし、
彼の病が先天性なものでなかったことを強調することによって、トラウマの深刻さが浮かび上がる仕組みになっている。
イングリッド・バーグマンの美しさが際立つ『白い恐怖』(45)は、過去のトラウマを探る映画。
主人公は「白地に縞のある模様」を見ると発作を起こす。
様々な仕掛けが用意されていて、さすがヒッチコックだなぁと感心するが、なかでも「牛乳」を登場させるシーンが有名。
モノクロームの映像に「白の恐怖」を浮かび上がらせるため、グラスに「ワット数の弱い電球」を仕込むというアイデアが素晴らしい。
(茶碗にもられた米を掲げ、勘兵衛が「この米、おろそかには食わぬぞ」という『七人の侍』(54)の有名なシーン。あそこにも「見えない小道具」として電球が用いられている。どっちが先か後かという話ではなく、巨匠はやっぱりちがうねぇ!!)
ベトナム帰還兵が地獄の戦場の記憶に悩まされるというトラウマ映画は多い。
『タクシードライバー』(76)だけでなく、『ディア・ハンター』(78)も『ランボー』(82)も、『リーサル・ウェポン』(87)も『ジェイコブズ・ラダー』(90)も、みんなトラウマで「死にたい願望」を抱く主人公たちである。
いわゆる「フェチ」もそうだが、トラウマも多用され過ぎていて、「その程度で!」と思うことが多くなった。
そのことばが知られるようになったのはいいことだろうが、深刻とはいえない体験で「トラウマが…」といわれてもねぇ。
だから自分は20年前は脚フェチを自称していたが、脚だけで射精までいけるヤツ以外までフェチを名乗り始めて以降、脚キチガイと訂正するようになった。
そうなんだ、「より深刻なほう」が、べつのことばを探さなければいけない状況になってしまっている。
まぁ文句をいっていても始まらないか、ことばを専門とするひとによれば「ことばの意味の変遷とは、そういうものである」らしいので。
それらのことを含め、自分にとってのトラウマ的映画を3つ挙げてみたい。
『フライトナイト』(85)
ホラーコメディだが、公開時は小学生だったものでね、同時上映の『グーニーズ』(85)を観るために「頑張って」座席に座っていた。
しかしクライマックスの「こけおどし」演出に耐えられなくなって、とうとう座席を立った。
ロビーでコーヒー牛乳を飲み、上映終了を待つ映画少年。
売店のおばさんが「大丈夫?」と声をかけてくれたっけ。
後にも先にも、上映中に席を立ったのは本作のみである。
『7月4日に生まれて』(89)
負傷中のトム・クルーズがリハビリをしていると転倒、その衝撃で皮膚から骨が突き出すシーンが登場する。
成人以後にいろんな骨を折っているが、まだ骨折未経験であったし、その描写があまりにも衝撃的で、それから1週間くらいは「ゆっくり歩行すること」を心がけるほど影響を受けた。
『稲村ジェーン』(90)
映画そのものを嫌いになるほどの拷問体験だったから。
・・・分かってくれるひと、けっこう居るのではないかな。
あすのしりとりは・・・
とらう「ま」→「ま」ーだーけーすぶっく。
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本館『「はったり」で、いこうぜ!!』
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明日のコラムは・・・
『シネマしりとり「薀蓄篇」(102)』