Cape Fear、in JAPAN

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『Cape Fear』…恐怖の岬、の意。

怒れる牡牛の物語:最終回

2014-12-06 00:30:00 | コラム
第19部「コーエン兄弟の物語」~第5章~

マーティン・スコセッシ、
デヴィッド・リンチ、
ブライアン・デ・パルマ、
スタンリー・キューブリック、
黒澤明、

ディレクターズ・カンパニー、

スティーブン・スピルバーグ、
大島渚、
チャールズ・チャップリン、
塚本晋也、
オリバー・ストーン、
クエンティン・タランティーノ、
北野武、
今村昌平、
原一男、
デヴィッド・ クローネンバーグ、
デニス・ホッパー、

そして、コーエン兄弟。


評伝と呼ぶには私的感情が入り過ぎだが、18人の映画監督と、ひとつの団体による「怒れる映画たち」を8年にわたって紹介してきた本コラムも、きょうで終章を迎える。

結論が強引であった章があったのは否めない、だが筆者の偏愛くらいは伝わったのではないだろうか。
それで充分・・・いや、それはないな、
「この監督の映画、観てみたい!」と思ってもらえたのであれば、こんなに幸福なことはない。


8年も前のことだと、スコセッシの章でなにを書いていたのか自分でも思い出せない。

調べてみると、こんな感じだった―。

…………………………………………

「罪は教会ではなく、街の中で贖うものだ」(マーティン・スコセッシ)

42年11月17日―。
マーティン・スコセッシはチャールズとキャサリンの次男として、ニューヨークはロングアイランドに生まれた。
両親とも、シシリー移民の子供である。
スコセッシ少年はリトル・イタリーと名付けられた地域で青春を過ごし、結果的にこの地を表現活動の場としている。

ニューヨーク市民であることのほかに、スコセッシを語るうえで「絶対に」外せないこと。

小児喘息。
チンピラ。
そして、教会。

背も低く、軟弱だったスコセッシ少年は、幼少の頃から喘息に襲われた。
ゆえに運動を禁じられ、不憫に思ったキャサリンは息子の手を引き、映画館と教会に連れて行ってくれた。

多くの移民は敬虔なカソリック信者であったが、近所にはチンピラも住んでいた。
祈りの声と賛美歌と、喧嘩と流血と。

スコセッシの映画が常に「聖/俗」「闇/光」「宗教/暴力」「硬骨/変態性」と相反する二要素が混在しているのは、この環境による。

そんな環境にあっては、さぞ荒んだ少年時代だったのでは・・・と思うかもしれないが、それでも一家は幸福だった。
中産階級より、やや劣るのかもしれないスコセッシ家の食卓を彩ったのは、キャサリンの手によるバラエティに富んだイタリア料理だった。

何よりも親・兄弟姉妹を尊重する。尊敬する。暴力者も孤独な男も、親への愛情だけは忘れない。例え、妻を殴っていたとしても。

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なるほど、最初はきちんとした評伝を目指していたことが分かる。

私的感情が色濃くなっていくのは、たぶん10部を過ぎたあたりからだろう。

さて思い出話? はこれくらいにして、駆け足でコーエン兄弟の「その後」について語ろうか。

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コーエン兄弟の現時点における最新作は、『インサイド・ルーウィン・デイヴィス 名もなき男の歌』(2013)。

才能は確かなのに「不器用がゆえに」なかなか評価されないフォーク・シンガー、デイヴィスの日常をペーソスたっぷりに描く。

実在したデイヴ・ヴァン・ロンクをモデルとしているが、フォークの世界をあまり知らなくとも、ボブ・ディランが分かれば「哀しき男の性」にグッとくることだろう。


※完璧な「猫の演技」にも注目!





スリラーからコメディ、不条理劇を経由してギャング物を撮り、現代社会の病理をえぐったかと思えば、西部劇までソツなくこなす。

哀感漂う音楽家の物語に触れて、ますますこの兄弟監督のことを好きになり、と同時に、あらためて謎多き存在だなぁと苦笑した。

観れば観るほど分からない。
でも確実に、面白い。

ただひとつはっきりしているのは―これは筆者のことばではなく、筆者が尊敬する「あるブログ主」がいったことだが、この兄弟監督は、ほんとうに映画のことを知り抜いている、、、ということだけである。


怒れる牡牛の物語、おわり。

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本館『「はったり」で、いこうぜ!!』

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明日のコラムは・・・

『柄じゃあない』

コメント (2)
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