Cape Fear、in JAPAN

ひとの襟首つかんで「読め!」という、映画偏愛家のサイト。

『Cape Fear』…恐怖の岬、の意。

観たくないものだって、ある。

2016-06-15 00:10:00 | コラム
「―公開前に映画を評論するってことは、試写会とかで映画を観るってことでしょう。ということは、その試写会に呼ばれなきゃいけないわけで、その時点で負けてる気がするな。なにかもっと、別の方法で新作を観ることの出来る状況を作らないと、悪口もいえないっていうね」

ビートたけし、『TVタックル 映画監督の逆襲』(テレビ朝日)にて。

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しょっちゅう「役得だよね!」と、映画ファンの友人から羨ましがられている。

たしかにそうで、この職業に就いていなければ、こんなにも沢山の劇場公開作に触れることが出来ないであろうし、皆より先に新作を観る機会というのもないし、「並ばずに」舞台挨拶つきの初日上映に入れることもない。

ただ、役得であるということを重々承知したうえでいうが、観たくないものだってあるわけで。

というか、真に観たいものは金を出して観るっていうね。
去年の例でいえば『野火』や『フォースの覚醒』がそう、今年か来年でいえばスコセッシの『沈黙』は、まちがいなく金を払って観る。
窓口に、入場料の3倍くらい置いてやろうかと「思っているくらい」期待している映画だから。

でも、好きなタイプの映画ばかり(タダで)観て、それについての原稿で金をもらうというサイクルでは、仕事とはいえない―であろうことは、よーーく分かっている。

観る前から、自分が嫌いであろうと予想出来るタイプの映画も、だから観る。

そりゃ仕事だもん。


※小藪ちゃんも、「やりたくないことをやるのが社会!」といっているしね笑





でも拷問に等しい。

こっちの予想を気持ちよく裏切り、「なめてました、ごめんなさい!」といいたくなる映画になんか、そうそう出会わないので。

去年の代表的な「それ=拷問」を挙げれば『ギャラクシー街道』で、最近の「それ=拷問」を挙げれば『高台家の人々』である。

両作に綾瀬はるかが出演しているが、単なる偶然だろう。
ただ女子としては好きだが、彼女は長澤まさみ以上に作品に恵まれないよなと。


で、友人に「金を出すのではなく、もらうようになって、映画の観かたは変わったか」と問われた。

「変わっていない」と即答。

変わったのは映画術を学び始めた18歳のころで、それ以降は変わっていないと思われる。

18歳以前と以後との境界線は、
映画をジャンル的視点で捉えなくなったことと、
映画を「ものがたり」ではなく「ひとがたり」と捉えるようになったこと。

「ものがたり」が破綻していても、「ひと」が描けていれば評価する―というスタンスは、高校生のころでは考えもしなかったことだものなぁ。。。


そうしてここに、矛盾がひとつあることに自分で気づく。

映画をジャンル的視点で捉えなくなったのであれば、ロマンチック・コメディやスウィートな恋愛映画を「苦手!」としているのは妙じゃないかと。

まぁそうなんだけど、そんな風に理詰めで攻撃しないでくださいよ。

「傷ひとつない、完璧な映画」より、傷がひとつやふたつあったほうが、生身の人間が創っている感じがして好感が持てる・・・のと同様に、ヒトだってキズモノのほうが愛らしいっていうじゃないか笑

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明日のコラムは・・・

『シネマしりとり「薀蓄篇」(169)』
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お硬いのがお好き

2016-06-14 16:29:49 | コラム
「ゆっるゆる」の生涯だった。

42年間の人生で、硬いウンチを放出したことは数える程度しかない。

いつしか・・・というか、それこそ物心つくガキのころから、
水気を多分に含んでいるものこそが正常であり、少しでも硬いと異常だと認識するようになった。

で、なぜ硬かったんだろうと食べたものを思い出してみる。

すると決まって、外食あるいは出前であったことに気づく。

こう書くと「愛するかーちゃん」に恥をかかせてしまうことになるかもしれないが・・・
「お里が知れる」とは、よくいったもので、つまり、上等な食生活には適していない体質であると。

「ゆっるゆる」は、たしかに「トイレがちかい」、、、訂正、「トイレがちか過ぎる」という難点はあるが、身体に不調があるわけでもない、
むしろ好調、逆に「よいものを食べて硬いものが出る」ほうが精神的にも弱ってしまい、「あす死ぬかもしれない…」などと不安に駆られる下等人種なのだった。


前にも書いたことがあるが、そんな体質ゆえに便秘の悩みとは無縁である。
その代わり、よく漏らす。

40代だけでも、まだ2年しか経っていないにも関わらず、すでに5回ほど「主に路上で」漏らしている。
(だから白っぽいハーフパンツやスパッツは身に着けないのだ。そんな理由かよバカ!!)

残り8年で、あと20回ほどは漏らすことだろう。

そう、すでに諦めている感さえある。

ウンコ漏らすなんてね、恥ずべきことなのに。
それをやった小学生は、まちがいなくいじめの対象となるのに。

しかし歳を取り、そういうことに対する焦りもなくなってきた。

いや、それじゃあいかんとは思うのだが、べつにいじめられないし、(表現に配慮が必要ではあるものの)女子も笑ってくれるし、

「あぁ、このひとはそういうひとなんだ」

と解釈されれば、格好つける必要がなくなるので、開き直るのも悪くないなと思う、きょうこのごろなのであった。


※トップ画像は、「なんらかの」イメージです。

※※完成度という点では『お熱いのがお好き』のほうが優れているが、モンローの魅力という点においては、こっちのほうがいいかな。
ニコール・キッドマンも『ムーラン・ルージュ』で歌っていたが、ゴージャスな女優さんに似合う歌だと思う。




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明日のコラムは・・・

『観たくないものだって、ある。』
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初体験 リッジモント・ハイ(177)

2016-06-13 00:10:00 | コラム
有名人と一般人との関わり合いを考察する際に、とっても参考になる映画がひとつ。

スコセッシ×デ・ニーロによる、『キング・オブ・コメディ』(82)。

デ・ニーロ扮するルバートはコメディアン志望の男で、自分には才能はある、ないのは「きっかけ」だけだと考えている。
彼は、そのきっかけを「強引に作ろう」とし、人気コメディアンのジェリー・ラングフォードに「つきまとい」始める。



典型的なストーカーだが、彼が厄介なのは、自分にはコメディアンとしての才能があると信じ込んでいるところだろう。

自作でふたりの女優がストーカー被害に遭い、さらに自身も「あの映画の主人公は僕そのものだ。なぜ、僕のことが分かった?」と、つきまとわれた経験を持つスコセッシらしい、ひじょうに歪んだブラック・コメディだった。


さて。
有名人と一般人の交流イベントの話。

自分が大好きな有吉弘行も、猿岩石時代にファンとのバスツアーを経験しているらしい。

大ブレイク直後こそ応募者殺到だったが、ブームが去ると、参加者は10人前後に激減したという。

自由時間には「有吉と会話が出来る」という特典があったが、少数の参加者は前年と同じメンバーであり、正直いって「会話は飽きている」、だから「あのー、自由時間は、ふつうにショッピングとかしたいので、その特典は遠慮します」と申し出されることもあったという笑、
ではなぜ参加したのか? と問いたくもなるが、有吉はそういう経験を繰り返すことによって、自身の人気急落を実感したそうである。

で、自分の話。

高校生のころ、母国・香港では無名であったのに、日本でのみ人気に火がついた女優さんが居た。

グロリア・イップ(トップ画像)は日本の若い映画ファンに愛され、CDデビューを果たした。
その現象に驚いた成龍ジャッキーが、自作のヒロインに起用(=89年の『奇蹟』)したほどである。

彼女とのファン交流が企画されたのは、ちょうどそのころだったと記憶する。

「クリスマス、グロリア・イップとファンとの集いin原宿」

『ロードショー』を発行する集英社の企画で、愛読者だった自分は「なんとなく」応募した。

群馬のイナカッペである、いちどだけハルク・ホーガンの「一番Tシャツ」を購入するために父親に連れて行ってもらったことはあるが、原宿なんて、ひとりで行けっこ(?)ない。

だから当選したときは、やったぁ!! ではなく、どうしよう・・・と思ったものである。

まず、着ていく服がない。

それに、彼女と話すことが出来たとして、広東語を覚えればいいのか英語なのか、あるいは日本語のままで大丈夫なのか・・・などと、要らん心配までする始末。

そーとー焦った。
こんなに焦ったのは、30分後に童貞を卒業出来ると知った、あのとき以来である。
(ここいらへんは、べつの機会に語りましょう笑)

イベントまで、あと3週間。
少しだけダイエットし、バイト代を注ぎ込んで服を買い、グロリアへのプレゼントを選んだ。
たぶんカチューシャだったような気がする・・・おぉ、ここいらへんの感覚は、あの子を刺してしまった気狂いと似ているが、彼とのちがいは、分不相応であることを「きっちり」理解していたことだろう、
自慰のおかずとしてグロリアを拝借? していた事実はあるが、グロリアと自分が話すことが出来ると想像しただけで、禁固何カ月か喰らうのではないか、、、そんな風に思っていたのである。

少し大袈裟か。

ともあれ。

準備にパワーを使い過ぎ、さらに緊張もあって、当日のことはよく覚えていない。

とりあえずいえることは、スクリーン上で拝んだグロリアより数倍も可憐であったこと、そうして、よい匂いがしたこと、くらいである。

よい経験ではあったが、心臓に悪い。

有名人と一般人の関わり合いなんて、この程度でいい。
手をつないだり服を脱がせたりするのは、夢のなかだけでいい。

そんな風に思ったのであった―。


おわり。





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『お硬いのがお好き』
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初体験 リッジモント・ハイ(176)

2016-06-12 00:10:00 | コラム
分相応ということばを知らなかったと思われる、真正の気狂いに刺された冨田真由ちゃんが危篤状態を脱し、意識を回復したようで、ほんとうにえがった。

男が「彼女と結婚したかった」と告白したようなので、敢えて「真正の気狂い」と表現しておく。

やっぱりね、10代のうちにとことん傷ついて恥かいて「自分は、こんな感じ」であると叩き込んでおいたほうが本人のためなんだよ。
彼女に固執するよりも幸福であると感じる「なにか」が、彼にもあったはずなのになぁ、、、と本気で思う。


この件に関し、いろんな意見が聞かれる。

AKB握手会での惨劇を持ち出して、イベントのありかたを見直すべきだという提言。
SNS時代における、一般人との交流に関する苦言。

それらの意見は正論なのかもしれないが、自分がいちばんしっくりきたのは、松本人志の「甘い香りで誘っていると、カブトムシもクワガタもくるけど、蛾もくる」ということば。

蛾。
たしかに、そうで。

SNSにかぎった話ではないでしょう。

美空ひばりの一件を例に挙げるひとも居たが、
そのほかにも、たとえば岡田奈々はアイドル時代に自宅を突き止められて監禁され、
田村英里子は何度かファンに襲われ、
そういえば山口智子と唐沢寿明の熱愛が発覚したのは、山口宅に暴漢が侵入し唐沢がそれを助けたから、、、だった。

いつの時代にも蛾は存在するわけで、海の向こうでは、ジョディ・フォスターのストーカーがレーガンを撃った。

犯人のジョン・ヒンクリーは『タクシードライバー』(76)を観てジョディに惚れたらしいが、
スコセッシ映画の受難はそれだけでなく、『レイジング・ブル』(80…トップ画像)でジョー・ペシの妻を演じたテレサ・サルダナもストーカーの被害に遭っている。

10箇所以上をナイフで刺され、生死を彷徨ったのである。
(先日、訃報を聞いた。合掌)

テレサは復帰後、本人役を演じて事件を再現化したドラマにも出演、強いな! って思う。

※そうしてレノンも、そうだった





少し脱線するが。
きのうのYahoo!ニュースに対するコメントが「ちがうよな…」と感じたので、少し紹介したい。

夏フェスの時期が近づいてきたが、痴漢や盗難が続出していることに関する記事において「個人の意見ですが、行かないのが一番」というコメントがあった。

それは、ちがうだろう。

フェスでもなんでもいいが、「行かなきゃいい」とかいうのは、交通事故に遭わないためには「外に出なけりゃいい」というのと同じで、あまりにも乱暴。

海外ジャーナリストが向こうの武装組織に捕まっても「自己責任」みたいな意見をいうひとが居るが、自分は行くことがないからと安全地帯からヤンヤヤンヤいうだけの行為ほど、無駄なことはないと思う。

雑音でしかないので、その程度のことしかいえないのであれば黙っとれと。


なにがいいたいのかっていうと、だから、真正の気狂いに刺された彼女は、そりゃあ無防備であったかもしれないし、警察の失態はあったとは思うが、それを理由に「イベントを見直すべき」というのは、こういう意見が出てくるだろうなとは思ったが、問題の解決にはなりそうにない、、、と。

だって、蛾はいつの時代だって居るのだから。


深刻な話から始めたが、そんなわけで今回の初体験テーマは「生まれて初めての、有名人との交流イベント」でいってみたい。
(コンサート類は除く)

どんな感じなのかは知りたいが、AKBの握手会に行ったことはない。
まぁそこまで好きというわけでもないしね、今後も行くことはないだろう。

また、真正の気狂いが出演していたことで(一部男子が)ざわついている、AV女優とのバスツアーに参加したこともない。
というか、そんな勇気ないよ、カメラの前でイチモツ晒すなんて。


自分が生まれて初めて参加した「有名人との交流イベント」は、高校2年生のころ。

相手は香港の女優、グロリア・イップ。

集英社が主催する「グロリア・イップとの集い」、場所は原宿だった。


つづく。

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ふきかえる

2016-06-11 04:23:59 | コラム
自分の世代までの映画ファン、、、ではないな、おそらく30代以上の映画ファンにとっては、外国映画を字幕スーパーで鑑賞することが正道であり、日本語吹き替えは邪道でしかなかった。

日本語吹き替えで映画に触れるのは「ある程度の覚悟」が必要であり、
たとえばその作品が2度目の鑑賞であるとか、テレビ放映のために「仕方がないこと」であるとか、なんらかのイイワケを用意したりするものであった。

だからこそ、かつて「Wユージ=織田裕二×三宅裕司」で吹き替えた『バック・トゥ・ザ・フューチャー』(85)のフジテレビ放映に批判が殺到し、
ジェニファー・コネリーを喜多嶋舞が吹き替えた『ラビリンス/魔王の迷宮』(86)を観て、自分みたいな映画少年がズッコケたわけだ。

しかし。
シネコンの影響だろうか、吹き替えこそ正道で字幕が邪道、、、という世の中になりつつある―ことを知って、最初は慄いたが、まぁこれも時代の流れか、しょうがないかもな・・・と思うきょうこのごろである。

ためしに知り合いの10~20代の映画ファンに聞いてみたが、みんな映画は吹き替えで観るのが「ふつう」であるという。

字幕と吹き替え、シネコンで両方がかかっていたとすれば、迷うことなく後者を選択するそうだ。


「それが当たり前だと思っているからです」
「字を読むの、嫌いなんですよ」
「漢字が分からなかったりするし」
「映像に集中出来ないことがありますし」


分かるっちゃあ、分かる。

きのう放映された『ゼロ・グラビティ』(2013)なんかは、じつは吹き替えのほうが「体感的には」適しているといわれている。

平衡感覚が狂うような映像設計を意図しているため、字幕スーパーが出てくると演出効果が著しく低下してしまうためだ。


それでも、やっぱり映画ファンなら・・・と若い子を説教したくなるひとも居るらしいが、

成龍=石丸博也とか、クリント・イーストウッド=山田康雄とか、
ほとんど記号化された声優さんが吹き替えを担当するケースのみにおいて「あり。」とするひとは多く、自分もそんなひとりであり、それを若い子に「矛盾しているじゃないですか!」と突っ込まれたら、うまく反論出来ないところはあったりしてね。


各々が好きなように鑑賞すればいい・・・というのは大前提としてあるけれども、

歌うシーンや嗚咽するシーンだけ吹き替えずに「オリジナル音声のまま」流すケースも多々あり、創り手側は大変だとは思うけれども、
そういう細部まできっちり吹き替えてくれるのであれば、作品によっては、初見だとしても吹き替えでもいいかな・・・と考える、古いタイプの映画小僧なのでありました。


※ふきかえるから、連想して




※その替え歌




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