たそがれオヤジのクタクタ山ある記

主に北関東の山を方向音痴で歩いています。山行計画の参考にされても責任は負いかねます。深慮せず軽く読み流してください。

南牧村の大屋山。

2023年04月15日 | 西上州の山
◎2023年4月12日(水)

 西上州でもかなりマイナーな山の大屋山。ここに行こうとしたのは、一年前、アカヤシオの名所である「ひとぼし山」に行った際、そのまま大屋山に向かおうとしたら、どこか、おそらくはヤブに覆われて気づかなかっただけのことかとは思うが、つなぐ尾根に下りようにも、切り立ったところしか目に入らず、結局は大屋山には行けなかった。今度は、逆に、大屋山からひとぼし山に行ってみようかと思った。アカヤシオ山のひとぼし山は、すでに花が落ちているようで(昨年4月17日に行った時も、すでに大半は落ちていた)、さりとて、標高が280m高い大屋山はツツジの名所でもないようだ。わざわざこの時期に行くまでもないのだが、さっさとつなぎ歩きをしておきたかったし、大屋山には行ったこともなかった。
 結果からいえば、今回もまた大屋山とひとぼし山をつなげられなかった。何やかやと理由づけはできる。今にも雨が降ってきそうな天気。駐車地に行くまでの上りは車でも長く急な道に感じたし、これを歩いて戻るのはしんどそうだった。そんなことよりも、直接的な原因は、なんで? と思うほどのとんでもない地図読みをしていたことにある。

(地理院地図ではここが道路の終点になっている。カーナビ地図には、ここまで道は通っていなかった。周回を考えて、下の駐車地に車を置きたかったが、そこに駐車スペースはなく、ここまでやって来た。案内板にしたがって右に上がる)


(集落最後の民家らしい。人が住んでいる様子はなかった)


(のんびりした光景だが小道は斜めで歩きづらい)


(道標はしっかりと整ってはいるが、この先、肝心なあやふやなところには置かれていない。そもそも、歩き方がおかしくて気づかなかっただけのことかも)


(左にひとぼし山。今日は大屋山からあそこまで行くつもりでいた。写真をアップで見ると、アカヤシオらしきものはまだ残っていた)


 駐車地から大屋山までの単純標高差は350mでしかないことを考えれば、いつもなら楽勝だろうが、出発早々からきつかった。身体の疲れがたまっているようだ。月曜日に孫の入学式があり、宮城まで車で往復し、そのまま短時間ながらも夜勤をしたりしている。さして急でもない植林帯に入ると、早々に立ち休みが続いた。果たして大屋山まで行けるのだろうか。この時点で、ひとぼし山まで行く自信はなくなっていた。大方の人は両方の山を歩くのに車で移動している。そんな、ただのピークハントではまったくつまらないと、内心は批判的に思っていたのにこのザマだ。

(植林帯の歩き。最初のうちは間伐の横倒しがいくつかあった)


(清水とはいっても、ただの水たまりだった。とても飲める水ではない)


(こんな標識を見かけたが、左右に踏み跡らしきものは見かけなかった。本来のコースは、一旦、左経由すべきだろうが、頭はまったく働いていない)


(上には作業道が通っている。前の標識の意味するところはこれだったのだろうか。このまま帰ってもよかった)


(先が明るくなって、植林も終わりだろう)


 とにかく植林の中の歩きが長く感じられた。途中、小型のトラック一台なら通れそうな未舗装の作業道が横切っていた。地図にそんな実線も破線路はないが、植林帯なら運搬道があっても不思議ではない。この道を下って駐車地に戻れるものなら、今日の山歩きは打ち切りにしてもよかった。歩き出しから45分は経っているし、ここで頓挫しても一時間半くらいは歩いたことになる。速い人なら、大屋山にすでに着いているかもしれない。

(植林から先は幾分緩くなったが、体調は相変わらずによろしくない)


(さっそく見かけた。この時はアカヤシオかと思ったが、ミツバツツジかなと半信半疑だ。急斜面で近づけなかった)


 ようやく植林帯から解放され、明るい雑木の尾根になった。とはいっても、出だしこそ青空が覗いていたのに、曇り空になっていた。相変わらず休んではトボトボと登って行くと、目の前をリスが走って樹に登って行った。こちらからは裏側だから、回り込んでリスを見ようとしたら、急斜面になっていて、リスこそ見られなかったが、斜面にはツツジが点々と咲いている。あれはアカヤシオかと思ったが、曇った空の下で、さらに遠目ではアカヤシオだかミツバツツジなのかよくわからない。色からして中間だ。

(大屋山かと思ったが、さらに先があった)


(つい、ロープに手を出してしまった。いつもなら無視するが)


(復活。明らかにミツバツツジ)


(ヤセ尾根になっている)


(これで明瞭。アカヤシオは右。左はミツバ)


 ツツジは消えてヤセ尾根になった。目の前のピークが大屋山かと思ったが、これにはだまされた。間に二つほどの小ピークがあった。岩がちになり、ロープも垂れていたりする。登ると、ツツジが復活。これは明らかにミツバツツジ。もうミツバツツジだけかと思ったら、二株が並んで咲いているのがいて、一方はアカヤシオ。大屋山のツツジはたいしたこともないようだという思いは、あくまでもネット記事の情報によるものだが、西上州の山は大方がひとつばな(アカヤシオ)の名所だから、大屋山はただ目立たないだけのことだろうと思うが、実際にはたかが知れているだろう。ミツバツツジはあっても、アカヤシオはこの先にはないのかも知れない。不思議なことに、ミツバにしろアカにせよ、地面に落ちた花を見ることはなかった。こじんまりと今盛りなりということだろうか。

(自分には何だか知らないが、こんな小花が結構目についた)


(斜面のミツバツツジは続く)


 ミツバツツジを見ながらの登りになるものの、尾根上にツツジは咲いていない。あくまでもサイドの急斜面で、間近で見ようと接近しようとすれば命がけになる。

(いい加減に登り飽きたところで)


(大屋山山頂)


(山頂から)


 三角点のある大屋山に到着。山頂は狭い。出発からここまで丸一時間も要している。南牧村が発行する『なんもくトレッキングガイド』には70分とあるが、これはかかり過ぎで、せいぜい45分程度のものだろう。風が出てきた。見上げると、黒ずんだ雲も見える。ここからの展望は一角だけだが、ヤセ尾根の延長であり、山頂も狭いからか、高度感だけはあって、ここで休憩するには落ち着かない。セルフだけ撮って先に行く。展望地があるらしい。

(展望地に向かう)


(ミツバツツジでも結構だが、間近に見えるのはこんな状態だ)


(かろうじて。自分と同じで元気がない)


(アカヤシオか?)


 ここからが今回のハイライトだった。ミツバツツジが続き、もしかしてアカヤシオと思われるものもあった。惜しいのは、たまにヤセ尾根上を歩く目の前でツツジを見かけ、そのほとんどがまだツボミだったりしていること。

(展望地到着。この下は切れている)


(展望地から)


(同じく)


(同じく)


 山頂から10分ほどで展望地に到着。その先は切れ落ちているが、展望地からの景色は東、北、西とさえぎるものはない。ただ、西上州の険しそうな岩峰群を深い谷間越しに眺めていると圧迫感がある。山頂に比べたら、細長いながらも幾分広くて適当なところに座って休める。食欲はまったくなく、水を一口飲んで、タバコを一本吸って、地図を広げる。ここもまた寒い。
 体力的にひとぼし山に行けないなら、そちらに下る尾根だけでも確認しておこう。いずれまたその気になるかもしれない。山頂から南東方面に下る尾根のはず。実はこの発想そのものがおかしなものなのである。ついでに記すなら、この時点では、件の尾根が山頂から右下に見えるだろうとも思っている。何とも支離滅裂な話で、身体どころか頭もおかしくなっている。このお目出度さに気づいたのは、家に帰って、自分の軌跡図を見てからというのだから、お話にもならない。地図を見ているのに、頭の中は散漫で、手前勝手な地図になっている。

(山頂に戻りながら)


(こじんまりと賑やか)


(あれを下ればひとぼし山。これは確かなのだが、この時点では、山頂からの直通尾根と思い込んでいる。実は、この先の帰路で、自分の下った尾根の延長先と気づいたのは後のことで、地図にはない送電線が気になっていた。実際のところ、手前の尾根とひとぼし山への尾根は別尾根だった。まったく気づていてない)


 山頂に戻る。10分間はまたツツジを見ながらの歩き。見落としがあるかもと少しの期待があったのか、ミツバツツジの中にも、あれはアカヤシオかなぁなんて思いながらの歩きだ。先の山頂から進行方向右手の下に尾根型は見えたが、直下に下れそうなところはない。その先にひとぼし山らしき山がある。ただ、送電線の位置関係がどうも違う。そのひとぼし山の左に送電線がある。地図にはひとぼし山付近に送電線やら鉄塔はない。後で、一年前の写真を確認すると、その送電線は写っていて、地図には記されていなかっただけのことだった。相変わらず頭はぼんやりだ。山頂までの間でツツジばかりを追っていた。

(のんびりと。頭はノーテンキ)


(みー猫さんがお好きならしいミツバツツジを見ながら)


(大屋山に戻った)


 山頂に戻った。目的の分岐尾根を探したが、急斜面だらけで、やはり尾根型は見えない。それもそのはず。そんな尾根はない。どうせ、今日はひとぼし山には行かないからと、それ以上は関心も持たなかった。雨が降り出したら嫌だなといった気持ちの方が強かった。

(これがアカヤシオだったらなぁと思う)


(ツツジは消えたが)


(登りで見たっけかなぁのアカヤシオがあった)


 山頂はさっと通り過ぎ、元来た尾根を下る。そういえばと、また地図を見る。往路で952m標高点は確認していなかった。『トレッキングガイド』には、そこに鳥居マークがあって、「蓼沼」と記されている。上りでは目の前の踏み跡だけを追っていたから気づくこともなかった。寄り道をしよう。

(左に植林帯が出てくる。往路ではこの辺で植林帯から出た。直進してみた)


(こんな風景の鞍部に出た。ひとぼし山に行くには、ここをそのまま下ればよかっただけのことだ。地図を難しく読んだというか、まったく意識も外れていた)


(ここですでに勘違いをしている。さっきまでは正確に覚えていたのに、真ん中のこんもりした山がひとぼし山とばかりに思い込んでいた)


(あのこんもり山に行くには、大屋山の山頂から岩壁を下らないといけない。心身ともに元気な状態でも、とてもじゃないが無理)


(このまま行けば、ひとぼし山には支障なく行けたろう。あとの祭りだ)


 植林帯を左に見ながら尾根通しに下ると、何かの幼木にカバーをかぶせたのが連なったカヤトの尾根になり、左に石祠が見えた。尾根通しの道筋はしっかりしていた。石祠はさておき、この尾根に興味があって、少し先まで行ってみた。踏み跡はずっと続いている。だが、尾根斜面は伐採地の後に植林をしているようで山肌はむき出しになっている。尾根そのものはたやすく先まで行けそうだ。右手を見ると、大屋山からひとぼし山に続く尾根(とばかりに思っていた)が見え、とてもじゃないが、10mは超えるであろうほぼ垂直な岩壁があり、あそこをひとぼし山まで行くのは現実的ではないなと、感心しながら眺めただけで終わりにし、戻って石祠に向かったが、何となく違和感はあった。それもそのはず。後で確認すると、ひとぼし山に続く尾根は、自分が往復した尾根の延長で、ここの植林尾根を下って登るだけのことだった。岩尾根はまるきしの見当違いだった。冷静な状態なら、山頂から下れたとしたらあくまでも北西で、ひとぼし山はまるきし反対の南東方向だった。体調が悪くなかったとしても、向かい側の尾根を強引に下れば岩場で行き詰り、避けて下ったとしてもひとぼし山に行くには方向違いだった。

(明神宮)


 石祠には「明神宮」と標識があった。古くはない。大正12年建立だった。大正12年は関東大震災の年。100年前ということになる。いつもの余計な話になる。チェホフの戯曲『ワーニャ伯父さん』を、なんで『ワーニャ叔父さん』としないのか不思議に思っていた。恥ずかしながら、これまで「叔父」と「伯父」の漢字表記の違いを知らなかった。いい年をして知ったのは最近のことで、「伯父」は親の兄で、「叔父」は弟であること。「伯母」と「叔母」もしかり。何を言いたいのかというと、この石祠の建立された大正12年に、叔父ならぬ伯父が、当時の東京市深川区で生まれ、震災で命からがらに、母、つまりは自分の祖母に抱かれて、実家のある秋田に逃れ、その後、復旧なった東京にまた戻ったということ。伯父の弟になる自分の父は東京生まれ育ちで、奉天で終戦を迎えたままにシベリアに抑留された伯父はともかくとして、藤沢航空隊の通信兵から復員した父に空襲で消えた家はすでになく、母の疎開先の秋田に行って、結局は住み着いた。父の父(自分の祖父)は、当時としては日常的な出来事のように、父が四歳の折にすでに結核で亡くなっている。震災と戦争で、家族の人生は変わった。父は秋田弁を死ぬまで使いこなせなかった。地元の坑夫を使う立場から馴染もうともしたらしいが、生まれ育ちの自分から聞いていても不自然な発音だった。親子の会話。秋田弁のオレと東京ことばの父の会話は自然だった。ともかく、災害というか厄難を際にした人生はいろいろだ。

(植林歩きに戻った)


(ようやく抜けた。帰路は短かった)


(駐車地が見えた)


(一軒家の花は盛りだった)


(ここを通ってもいいものかと思ったが、他に道はない)


(山桜ももう終わり)


 往路に戻った。幾分、元気が戻ったのか、下りは速かった。植林帯を抜けると、ポツンと一軒家。だれかが住んでいる気配はない。庭先を通って車道に出て駐車地に到着。黒い雲こそなくなったが、青空も陽も隠れている。下に来ても風は感じる。そのうちに雨が降るかもしれない。
 往復にかかった時間は2時間15分。正直のところ疲れた。頭の地図が混乱せずにひとぼし山に行けたとしても、果たして、傾斜のある車道を歩いて戻れたろうか。しかし、だれにも会うことはなかった。アカヤシオも終わりかけの、ここから南側にある三ッ岩なら平日でも混んでいたろう。あの狭い山頂に多くのハイカーが所狭しと突っ立って休んでいる風景は想像できる。
9時20分歩き出しの11時35分帰着。
 まだ12時前。腹は相変わらず空いてもいなかったが、せっかく持参した菓子パンを無理やり腹に詰め込んで帰途に就いた。やはり、途中で雨がパラりと落ちたが、高速に乗ると、晴れて一気に暑くなり、車載の気温計は26℃まで上がった。時間も早かったので、そのまま足利の友人の整骨院に直行し、モミモミマッサージベッドで、つい昼寝をしてしまった。短時間ながらも熟睡していた。歴史オタクの友人は、オレを相手に新田氏の話をしていたが、よい子守唄にもなったようだ。
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