
◎2012年1月14日(土)
<戸屋沢橋(8:00)……五覧田城址・要害山(8:27~8:38)……中山峠(8:47)……田嶋峠(9:38)……736mピーク(9:53)……中野山784.5m(10:35~10:50)……849mピーク(11:18)……追付山969.8m(11:54~12:06)……中野山分岐(13:11)……田嶋峠(13:48)……尾根分岐(14:12)……林道(14:33)……駐車地(14:38)>
先日の神戸山・小中山の歩きで、中野山の存在を思い出した。登ったことはない。この際、続けて行ってみようか。せっかくだから、五覧田城址経由で歩いてみてもいい。五覧田城址は以前、雨の中、傘をさして高橋口から入り、関守口に下ったことはあるが、霧に包まれ、まったく何も見えなかったから、行き直しになる。その先はずっと北東に破線ルート(旧黒保根村と旧東村の村界)を辿る。駐車の関係で、元に戻らなくてはいけないのが難だが、下りは、早々に適当なところから林道に下る予定にする。また、体力次第ではあるが、中野山の北にある969.8m三角点の山にも興味がある。ついでに行ってみたいところだ。
(駐車場の先に要害山)

(出だし、こんなところがきつく感じてしまった)

上の駐車場まで乗り入れると、帰路、林道に下った際にしんどいだろうということで、戸屋沢橋を渡ってすぐの空き地に車を置き、橋に戻り、上に向かって林道を歩く。歩いてすぐに、今日の歩きが重いことが気になった。普段、ヒートテックを穿けば薄いズボンにするが、今日は用心して厚手のズボンにしてしまったのがいけなかった。慣れるまでがつらい。林道には雪がついている。上の駐車場に到着し、ハイキングコースに入る。陽あたりの中で気持ちはいいが、今日は風が冷たい。桐生の山並がきれいに見える。歩いていても、山の名前はほとんど知らない。ハイトス氏ならたちどころに分かるだろう。こんなところで疲れてしまってはどうしようもないといったところで休憩。下半身がだるい。上は、ヒートテックに厚手のシャツと薄手のフリースだけなのだが。
(五覧田城址)

(要害山山頂)

(堀切跡)

五覧田城は、元々は、地侍というか土豪連合が建てた八城の一つだったようだ。それが、長いものには巻かれろといった形なのか知らないが、桐生氏やら由良氏、真田氏等の配下につく。ところが、その親分達が上杉に与したり、北条側に付いたりとコロコロ変わる。孫請けにとってはたまったものではない。上野と下野を結ぶラインにある要所だ。争奪戦にもなる。最終的に北条側だったために廃城となった城のようだ。それ以上、詳しくは知らない。案内板を読んだが、ネットで事前に調べた内容とは少し違い、えらくあっさりと記されている。城好きな方なら、この城址を歩きながら、いろいろとその構図を想像もするだろうが、こちらは基礎知識がないから、さっぱりと分からない。ただ、なるほどと思いながら城址を歩くだけ。東屋があった。ここは覚えている。雨の日に来た時、東屋の中で読書をしている青年がいた。不思議な光景だった。富士山が見えるらしいが、今日は見えない。北側には、これから歩く尾根がずっと続いている。山頂は、城址を含めて要害山と呼ぶらしいが、MK氏の「592.9M」板があるだけ。要害山の標示板は見なかった。先が長いので、城跡の見物を切り上げて先を急ぐ。手書きの「中山峠→」板に合わせて北に向かう。すぐに、素人でも堀切と分かるところをまたぐ。
(中山峠の石祠)

明瞭な尾根をずっと歩くだけ。雑木が続く。ここは明るくて気持ちがいい。アップダウンが結構続く。しばらく行くと、「←田沢 ふかぐな林道→」の手書き標識と共に、「中山峠」の標識と石祠があった。石祠の年代は不明。ふかぐな林道とは、車を置いた林道だろう。帰りはここから下ればいいわけだ。明瞭な道も通っている。左下には黒保根の集落が続いている。その先に「吉野沢→」の標識が落ちていた。地形図を見ても、吉野沢は分からない。
(栗生山。しばらく分からなかった)

やがて、左手にコブを2つ持った山が見えてきた。特徴のある山だ。この山、ずっと気になっていたが、後になってから、栗生山であることを思い出した。帰宅後に調べてみると、22年前の同じ日に神社経由で登っている。あの時は雪をこいで行った。登っている時は山の姿も見えないが、向かいで見ていると、ああいう形をした山だったのかと感心するものである。やけに存在感のある山だ。その先に赤城山が見える。雪で煙っている。やがて、右手が植林帯になる。同時に赤城山から来る風が強く、冷たくなる。帽子が飛ばされそうで、頭を押さえてしまう。
(こんな尾根歩き)

(田嶋峠の石祠)

次のスポットは田嶋峠。方面標識が出てくる。すべて手書きだ。そして、「ふかぐな林道」の標識。ここから下りられるのだろうか。踏み跡も何もないヤブ尾根が先に下っているだけだ。標識は落ちているから、どこからか飛ばされてきたのだろうか。そのまま田嶋峠に進む。この尾根は、ヤブの部分が多少ある踏み跡がしっかりしている。赤い塩ビの杭もずっと続いている。林業関係の人達がよく歩いているのだろう。至って歩きやすい。作業道が交叉したり、尾根が上がって来るところもあるが、まぎらわしいところもなく歩いて行ける。植林帯が消え、また雑木の中を歩き、田嶋峠に到着。安永10年の石祠があった。田嶋峠の標識の裏には「田嶋ノ十二様」と記されている。江戸時代の頃から、中山峠と同様に、黒保根と東村を結ぶ峠道だったのだろう。
(赤城山と栗生山)

(中野山は向こうのヤブっぽい山)

岩が出て来た。大きな岩がゴロゴロしている。嫌な予感はしたが、それだけだった。絶壁状のものはない。展望地があちこちにある。見えるのは限られている。ここから日光の山は見えない。ようやく、袈裟丸山が見えてきた。先日の歩きに比べて、格段に気持ちのいい歩きが続いている。それは明るさから来るものだろう。雪もまばらで、アイゼンを心配することはないし、凍結もない。植林帯は東村側の一部だけで、ほとんどが自然林のままだ。下半身のだるさもようやく慣れた。風の冷たさだけが閉口だ。736mピークを通過。ここからが長い。限られた展望にも次第に飽きてくる。ようやく高みに到着。中野山山頂かと思った。伐採されて平地になっている。北に向かう尾根がはっきりと見える。取りあえず中野山。山頂は、破線から少し外れ、南側の東村寄りにある。
(中野山山頂)

小ピークを2つほど越えて中野山に到着。山頂は広くはない。展望もさほど良くはない。先日、ノラさんのコメントで知ったG氏の山名板と三角点があるだけ。あと、「山野研」と書かれたビニールテープが巻かれている。しばらく休んだ。この先、どうしようか。時間はまだ早い。ただ、帰りがそれだけ長くはなる。同じところを延々と戻るのはつらい。迷ったが、ここから破線路をさらに北上してみよう。田沢奥山に行った際、尾根を南下し、1215.6m三角点までは行ったことがある。同じ尾根伝いに歩けば、1215.6mまでは行き着くが、それは体力的、時間的にも無理だろう。せめて、途中の969.8m三角点まで往復追加してもいいか。この969.8mだが、『オッサンの山旅』で「追付山」(おっつけやま?)という名前の山であることを知った。5年前にオッサンさんが山名板を取り付けてこられたらしい。そして、手前の849mピークは「沢入山」であることも桐生山野研の記事で知ってもいた。先の1215.6mにも山名があるのではあるまいか。前回ともに、山名に関しては不思議で迷う山域だ。腰を上げて出発。ところで、後で、ハイトス氏記事で中野山を確認したが、この南側に石祠があったようだ。知っていれば見に行ったのに残念だ。ハイトス氏ご一行は南の尾根から登られている。
(849mピーク手前の石祠)

(849mピークが見える。沢入山というらしい)

(849mピーク)

(追付山が見える。その先は1000mピークと1072mピークか)

ちょっと戻り、北の破線に向かう。しばらく下る。踏み跡はかなり薄くなったが、迷うことはない。最初はヤセ尾根だったが、すぐに広くなる。そして賽銭が置かれた石祠。字が彫られていたが、「沢入中」の文字だけがはっきりと確認できる。あとは、「上田沢村」と読めなくもない字が記されている。年代は不明。ここも峠道があったのだろうか。東西に踏み跡はない。地形図には黒保根側に沢入という地名があるし、黒保根側で祀った石祠であろう。向きもそうなっている。正面に849mピークが見え、東側の視界が良くなる。先週歩いた尾根もおそらく視野の中だ。だが分からない。849mピーク(沢入山)には山名板も何もなかった。雑木の中の山頂だが、ちょっと東側に行くと、追付山がはっきりと見えた。
(追付山まではもう少し)

(向こうの尾根が先週歩いた尾根のようだ)

(追付山山頂)

(字が消えた山名板)

(袈裟丸山遠望)

道は荒れてきた。そして、岩場。巻き道があったからすんなりと通過。まだか、まだかの連続でようやく追付山に着いた。三角点と山名板。おそらくオッサンさんが取り付けたものだろうが、字は完全に消えていた。跡形がない。ヤブの山頂だ。休む。北側に行ってみると、袈裟丸山がよく見えた。赤城山の眺めもいい。ここまで来れば、今日のところは大満足だ。1215.6mまでの区間が気になるところだが、いずれ、最短で尾根に取り付けるコースでも探してみよう。
(下りで赤城山)

(真ん中の849mピークの先に中野山が見える。帰りの尾根がずっと先に続いている)

後は下って帰るだけ。中野山らしき山が849mピーク先に見える。その先には、これから戻る尾根が続いている。いささかげんなりする。ここも下りだからといって楽なわけではなく、中野山のある尾根への合流直下ではへとへとになっていた。中野山には寄らず、そのまま下る。そして、さらにアップダウンがずっと続く。
(ここを左手・南に下ってみるとする)

(道型が現れた。ほっとする)

ふかぐな林道には、要害山寄りの分岐から下るつもりでいたが、要害山が見えた時点で、中野山寄りの分岐から下ることにした。要害山はかなり遠くに見えていた。あそこまでのアップダウンはかなわない。早々に退散したい。田嶋峠からまた登り、「←ふかぐな林道」の標識のあるところに着いた。よく見ると、標識板のそばに、支えの棒が立っていた。ということは、標識は元からここにあったわけだ。だが、どうやって下るのだか。やはり、この尾根を下れということなのだろうか。緩やかではあるがヤブになっていて、踏み跡もない。下ってみる。相変わらず踏み跡なし。ヤブだけは薄くなって、やがては消えた。左手に尾根がいくつか分かれたが、すべて、暗い植林の中に入っていく。尾根をできるだけ右手に下るようにした。しばらく下ると、灌木帯に入り、チェンソーの音が聞こえた。そして、はっきりした道型も現れた。正直のところ、地形図上の実線=林道はあてにしていなかった。延びている可能性すらある。林道の突端に向けて下ったが、東側の林道に出てしまったら、しばらくは国道を歩かないといけないだろう。
(石を掘り起こして並べてみた)

(そして屋根をのせた。こんな感じだろうか)

尾根をそのまま下ると、先に平地が見えていた。尾根の末端に着いた。ジャストだった。チェンソーの音が間近に聞こえる。地形図では、この辺で破線と合流するが、中山峠からのものがここに至るのだろう。人が歩いている。作業関係者だろう。ここでそのまま平地に出たら、その方は驚くだろう。少し時間つぶしをした。傍らに、平らな石が土に埋もれていた。どう見ても人工物。掘ってひっくり返すと、「明和二歳」の文字が目に入った。立方体だった。すぐ側に石祠の屋根が埋もれている。彫られた文字をもう一度確認した。「明和二歳●四月 願之 花輪村 弥(純?)●平」。おそらく、花輪村の何とかさんが願かけをして、ここに石祠を寄進したものであろう。写真だけ撮って、先に進もうとした。ちょうどいいタイミングで、作業の方もいなくなっていた。ところが、ヤブの中のツルが邪魔をした。おかしな話だが、石祠をどうにかしろという暗示なのだろうか。その時は、確かにそう思った。戻って、屋根を掘り起こし、木の脇に胴体を立て、屋根を乗せた。南側に向けた。重かった。仮の建てかけだ。改めて、スコップを持って行って来なくてはなるまい。あのままでは、また崩れてしまう。
(林道の終点広場)

(到着)

今度はすんなりと林道の広場に出られた。通せんぼはなかった。不思議なものだ。チェンソーを使っていた方が、モーターを切り、「ここは、ふれあいの道かい?歩いている人をよく見かけるよ」と声をかけてきた。ここを歩く人がいるとは思えない。せいぜい、この先、林道がどうなっているのか、様子だけでも見て来ようという方々だろう。舗装林道はここで終わり、先は作業道になっている。ふれあいはあっても、熊とのふれあいの道だろう。駐車地にはすぐに到着。またいつものように、ザックをパンパンにして背負ったカップラーメンをここで食べた。セブンのShoyu Noodle。震えながら食べた。それでもおいしかった。
2回続きの東村の歩きだったが、それぞれに味のある歩きだった。「その先」という課題はいずれも残ったままだが、陽気が良くなり、ツツジの開花時に合わせて、薫風の中を歩くのもまたいいかもしれない。
<戸屋沢橋(8:00)……五覧田城址・要害山(8:27~8:38)……中山峠(8:47)……田嶋峠(9:38)……736mピーク(9:53)……中野山784.5m(10:35~10:50)……849mピーク(11:18)……追付山969.8m(11:54~12:06)……中野山分岐(13:11)……田嶋峠(13:48)……尾根分岐(14:12)……林道(14:33)……駐車地(14:38)>
先日の神戸山・小中山の歩きで、中野山の存在を思い出した。登ったことはない。この際、続けて行ってみようか。せっかくだから、五覧田城址経由で歩いてみてもいい。五覧田城址は以前、雨の中、傘をさして高橋口から入り、関守口に下ったことはあるが、霧に包まれ、まったく何も見えなかったから、行き直しになる。その先はずっと北東に破線ルート(旧黒保根村と旧東村の村界)を辿る。駐車の関係で、元に戻らなくてはいけないのが難だが、下りは、早々に適当なところから林道に下る予定にする。また、体力次第ではあるが、中野山の北にある969.8m三角点の山にも興味がある。ついでに行ってみたいところだ。
(駐車場の先に要害山)

(出だし、こんなところがきつく感じてしまった)

上の駐車場まで乗り入れると、帰路、林道に下った際にしんどいだろうということで、戸屋沢橋を渡ってすぐの空き地に車を置き、橋に戻り、上に向かって林道を歩く。歩いてすぐに、今日の歩きが重いことが気になった。普段、ヒートテックを穿けば薄いズボンにするが、今日は用心して厚手のズボンにしてしまったのがいけなかった。慣れるまでがつらい。林道には雪がついている。上の駐車場に到着し、ハイキングコースに入る。陽あたりの中で気持ちはいいが、今日は風が冷たい。桐生の山並がきれいに見える。歩いていても、山の名前はほとんど知らない。ハイトス氏ならたちどころに分かるだろう。こんなところで疲れてしまってはどうしようもないといったところで休憩。下半身がだるい。上は、ヒートテックに厚手のシャツと薄手のフリースだけなのだが。
(五覧田城址)

(要害山山頂)

(堀切跡)

五覧田城は、元々は、地侍というか土豪連合が建てた八城の一つだったようだ。それが、長いものには巻かれろといった形なのか知らないが、桐生氏やら由良氏、真田氏等の配下につく。ところが、その親分達が上杉に与したり、北条側に付いたりとコロコロ変わる。孫請けにとってはたまったものではない。上野と下野を結ぶラインにある要所だ。争奪戦にもなる。最終的に北条側だったために廃城となった城のようだ。それ以上、詳しくは知らない。案内板を読んだが、ネットで事前に調べた内容とは少し違い、えらくあっさりと記されている。城好きな方なら、この城址を歩きながら、いろいろとその構図を想像もするだろうが、こちらは基礎知識がないから、さっぱりと分からない。ただ、なるほどと思いながら城址を歩くだけ。東屋があった。ここは覚えている。雨の日に来た時、東屋の中で読書をしている青年がいた。不思議な光景だった。富士山が見えるらしいが、今日は見えない。北側には、これから歩く尾根がずっと続いている。山頂は、城址を含めて要害山と呼ぶらしいが、MK氏の「592.9M」板があるだけ。要害山の標示板は見なかった。先が長いので、城跡の見物を切り上げて先を急ぐ。手書きの「中山峠→」板に合わせて北に向かう。すぐに、素人でも堀切と分かるところをまたぐ。
(中山峠の石祠)

明瞭な尾根をずっと歩くだけ。雑木が続く。ここは明るくて気持ちがいい。アップダウンが結構続く。しばらく行くと、「←田沢 ふかぐな林道→」の手書き標識と共に、「中山峠」の標識と石祠があった。石祠の年代は不明。ふかぐな林道とは、車を置いた林道だろう。帰りはここから下ればいいわけだ。明瞭な道も通っている。左下には黒保根の集落が続いている。その先に「吉野沢→」の標識が落ちていた。地形図を見ても、吉野沢は分からない。
(栗生山。しばらく分からなかった)

やがて、左手にコブを2つ持った山が見えてきた。特徴のある山だ。この山、ずっと気になっていたが、後になってから、栗生山であることを思い出した。帰宅後に調べてみると、22年前の同じ日に神社経由で登っている。あの時は雪をこいで行った。登っている時は山の姿も見えないが、向かいで見ていると、ああいう形をした山だったのかと感心するものである。やけに存在感のある山だ。その先に赤城山が見える。雪で煙っている。やがて、右手が植林帯になる。同時に赤城山から来る風が強く、冷たくなる。帽子が飛ばされそうで、頭を押さえてしまう。
(こんな尾根歩き)

(田嶋峠の石祠)

次のスポットは田嶋峠。方面標識が出てくる。すべて手書きだ。そして、「ふかぐな林道」の標識。ここから下りられるのだろうか。踏み跡も何もないヤブ尾根が先に下っているだけだ。標識は落ちているから、どこからか飛ばされてきたのだろうか。そのまま田嶋峠に進む。この尾根は、ヤブの部分が多少ある踏み跡がしっかりしている。赤い塩ビの杭もずっと続いている。林業関係の人達がよく歩いているのだろう。至って歩きやすい。作業道が交叉したり、尾根が上がって来るところもあるが、まぎらわしいところもなく歩いて行ける。植林帯が消え、また雑木の中を歩き、田嶋峠に到着。安永10年の石祠があった。田嶋峠の標識の裏には「田嶋ノ十二様」と記されている。江戸時代の頃から、中山峠と同様に、黒保根と東村を結ぶ峠道だったのだろう。
(赤城山と栗生山)

(中野山は向こうのヤブっぽい山)

岩が出て来た。大きな岩がゴロゴロしている。嫌な予感はしたが、それだけだった。絶壁状のものはない。展望地があちこちにある。見えるのは限られている。ここから日光の山は見えない。ようやく、袈裟丸山が見えてきた。先日の歩きに比べて、格段に気持ちのいい歩きが続いている。それは明るさから来るものだろう。雪もまばらで、アイゼンを心配することはないし、凍結もない。植林帯は東村側の一部だけで、ほとんどが自然林のままだ。下半身のだるさもようやく慣れた。風の冷たさだけが閉口だ。736mピークを通過。ここからが長い。限られた展望にも次第に飽きてくる。ようやく高みに到着。中野山山頂かと思った。伐採されて平地になっている。北に向かう尾根がはっきりと見える。取りあえず中野山。山頂は、破線から少し外れ、南側の東村寄りにある。
(中野山山頂)

小ピークを2つほど越えて中野山に到着。山頂は広くはない。展望もさほど良くはない。先日、ノラさんのコメントで知ったG氏の山名板と三角点があるだけ。あと、「山野研」と書かれたビニールテープが巻かれている。しばらく休んだ。この先、どうしようか。時間はまだ早い。ただ、帰りがそれだけ長くはなる。同じところを延々と戻るのはつらい。迷ったが、ここから破線路をさらに北上してみよう。田沢奥山に行った際、尾根を南下し、1215.6m三角点までは行ったことがある。同じ尾根伝いに歩けば、1215.6mまでは行き着くが、それは体力的、時間的にも無理だろう。せめて、途中の969.8m三角点まで往復追加してもいいか。この969.8mだが、『オッサンの山旅』で「追付山」(おっつけやま?)という名前の山であることを知った。5年前にオッサンさんが山名板を取り付けてこられたらしい。そして、手前の849mピークは「沢入山」であることも桐生山野研の記事で知ってもいた。先の1215.6mにも山名があるのではあるまいか。前回ともに、山名に関しては不思議で迷う山域だ。腰を上げて出発。ところで、後で、ハイトス氏記事で中野山を確認したが、この南側に石祠があったようだ。知っていれば見に行ったのに残念だ。ハイトス氏ご一行は南の尾根から登られている。
(849mピーク手前の石祠)

(849mピークが見える。沢入山というらしい)

(849mピーク)

(追付山が見える。その先は1000mピークと1072mピークか)

ちょっと戻り、北の破線に向かう。しばらく下る。踏み跡はかなり薄くなったが、迷うことはない。最初はヤセ尾根だったが、すぐに広くなる。そして賽銭が置かれた石祠。字が彫られていたが、「沢入中」の文字だけがはっきりと確認できる。あとは、「上田沢村」と読めなくもない字が記されている。年代は不明。ここも峠道があったのだろうか。東西に踏み跡はない。地形図には黒保根側に沢入という地名があるし、黒保根側で祀った石祠であろう。向きもそうなっている。正面に849mピークが見え、東側の視界が良くなる。先週歩いた尾根もおそらく視野の中だ。だが分からない。849mピーク(沢入山)には山名板も何もなかった。雑木の中の山頂だが、ちょっと東側に行くと、追付山がはっきりと見えた。
(追付山まではもう少し)

(向こうの尾根が先週歩いた尾根のようだ)

(追付山山頂)

(字が消えた山名板)

(袈裟丸山遠望)

道は荒れてきた。そして、岩場。巻き道があったからすんなりと通過。まだか、まだかの連続でようやく追付山に着いた。三角点と山名板。おそらくオッサンさんが取り付けたものだろうが、字は完全に消えていた。跡形がない。ヤブの山頂だ。休む。北側に行ってみると、袈裟丸山がよく見えた。赤城山の眺めもいい。ここまで来れば、今日のところは大満足だ。1215.6mまでの区間が気になるところだが、いずれ、最短で尾根に取り付けるコースでも探してみよう。
(下りで赤城山)

(真ん中の849mピークの先に中野山が見える。帰りの尾根がずっと先に続いている)

後は下って帰るだけ。中野山らしき山が849mピーク先に見える。その先には、これから戻る尾根が続いている。いささかげんなりする。ここも下りだからといって楽なわけではなく、中野山のある尾根への合流直下ではへとへとになっていた。中野山には寄らず、そのまま下る。そして、さらにアップダウンがずっと続く。
(ここを左手・南に下ってみるとする)

(道型が現れた。ほっとする)

ふかぐな林道には、要害山寄りの分岐から下るつもりでいたが、要害山が見えた時点で、中野山寄りの分岐から下ることにした。要害山はかなり遠くに見えていた。あそこまでのアップダウンはかなわない。早々に退散したい。田嶋峠からまた登り、「←ふかぐな林道」の標識のあるところに着いた。よく見ると、標識板のそばに、支えの棒が立っていた。ということは、標識は元からここにあったわけだ。だが、どうやって下るのだか。やはり、この尾根を下れということなのだろうか。緩やかではあるがヤブになっていて、踏み跡もない。下ってみる。相変わらず踏み跡なし。ヤブだけは薄くなって、やがては消えた。左手に尾根がいくつか分かれたが、すべて、暗い植林の中に入っていく。尾根をできるだけ右手に下るようにした。しばらく下ると、灌木帯に入り、チェンソーの音が聞こえた。そして、はっきりした道型も現れた。正直のところ、地形図上の実線=林道はあてにしていなかった。延びている可能性すらある。林道の突端に向けて下ったが、東側の林道に出てしまったら、しばらくは国道を歩かないといけないだろう。
(石を掘り起こして並べてみた)

(そして屋根をのせた。こんな感じだろうか)

尾根をそのまま下ると、先に平地が見えていた。尾根の末端に着いた。ジャストだった。チェンソーの音が間近に聞こえる。地形図では、この辺で破線と合流するが、中山峠からのものがここに至るのだろう。人が歩いている。作業関係者だろう。ここでそのまま平地に出たら、その方は驚くだろう。少し時間つぶしをした。傍らに、平らな石が土に埋もれていた。どう見ても人工物。掘ってひっくり返すと、「明和二歳」の文字が目に入った。立方体だった。すぐ側に石祠の屋根が埋もれている。彫られた文字をもう一度確認した。「明和二歳●四月 願之 花輪村 弥(純?)●平」。おそらく、花輪村の何とかさんが願かけをして、ここに石祠を寄進したものであろう。写真だけ撮って、先に進もうとした。ちょうどいいタイミングで、作業の方もいなくなっていた。ところが、ヤブの中のツルが邪魔をした。おかしな話だが、石祠をどうにかしろという暗示なのだろうか。その時は、確かにそう思った。戻って、屋根を掘り起こし、木の脇に胴体を立て、屋根を乗せた。南側に向けた。重かった。仮の建てかけだ。改めて、スコップを持って行って来なくてはなるまい。あのままでは、また崩れてしまう。
(林道の終点広場)

(到着)

今度はすんなりと林道の広場に出られた。通せんぼはなかった。不思議なものだ。チェンソーを使っていた方が、モーターを切り、「ここは、ふれあいの道かい?歩いている人をよく見かけるよ」と声をかけてきた。ここを歩く人がいるとは思えない。せいぜい、この先、林道がどうなっているのか、様子だけでも見て来ようという方々だろう。舗装林道はここで終わり、先は作業道になっている。ふれあいはあっても、熊とのふれあいの道だろう。駐車地にはすぐに到着。またいつものように、ザックをパンパンにして背負ったカップラーメンをここで食べた。セブンのShoyu Noodle。震えながら食べた。それでもおいしかった。
2回続きの東村の歩きだったが、それぞれに味のある歩きだった。「その先」という課題はいずれも残ったままだが、陽気が良くなり、ツツジの開花時に合わせて、薫風の中を歩くのもまたいいかもしれない。
中野山はノラさんよりも先に行かせていただきました。というのも、ノラさんが、中野山に行ってみたいようなことを記されていたので、こちらも、ついその気になってしまったというのが本音のところです。
いただいたコメントで、どうも、「その先」が早まりそうですよ。
石祠は、待ち時間もあったし、たまたま気づいたのでやったのですが、そのまま下っていたら、おそらく、素通りだったかもしれません。何やら、いい事をしたといった感じが残っています。単純ですが。
さて、今回のルートもいいですが、上田沢の北東に行くと林道が2分します。地形図では右側の林道がどん詰まりになっていて、貯水池になっているようです。そこから上がると、石祠のある鞍部に出られるようですね。古い傾いだ鳥居と石祠があったりと。
今度歩く時は、そこから1215.6mを往復しようかなとも思っています。
14日土曜日ですが小中山.神戸山地元の山なんですがまだ足跡を残していないので出掛けようと思ったのですが、たそがれさんの紀行文を見たら積雪が見受けられたので雪が嫌いなオッサンは諦めました。暖かくなったらたそがれさんの紀行文参考にして出掛けようと思います。
要害山~中野山~追付山随分長丁場の山行き
お疲れ様でした。体力があるたそがれさんですから無事に縦走出来たと思います。
じつを申しますと、無名峰の山を追付山とオッサンが勝手に命名した山でして申し訳ありません。山村の住民は以外と山名など知らないのです。大畑山.中野山.小中山など山好きの人が地名を付けたと思われます。悪しからず
追付山の山名板と山頂懐かしく拝見させて頂きました。
追付山の命名はオッサンさんでしたか。別に謝るほどのことではありません。大滝の追付橋あたりの地名でしょうか。
手前の849mを沢入山というらしいのですが、田沢(黒保根)の方にも沢入という地名があるし、それから来ているのでしょう。この三角点峰は、逆に東村の地名を付けるのが妥当でしょうね。
しかし、山名板の字が消えているのはがっかりでした。今度、私が先に再訪することがあったら、オッサンさん命名で書き直してきますよ。
結構長丁場ですが、誰とも出会うことなど無い渋い歩きができてよかったですね。
そうですか、あの山はオッサンが名付親だったのですか。
しかし今回のルートを見てみるとそのまま1215.6m峰まで行き、さらに田沢奥山経由で林道まで縦走したくなりますねぇ。
春にこのコースを歩いたら静かなヤシオ三昧山行ができそうな気がしませんか。
たそがれさんは今回善行を積んだので今年は絶対いいことがありますよ。
年初より、クリーンヒットが続いているようですね。写真を拝見する限り、中々の好ルートに見受けられます。
たまたま半年ほど前に「中世を道から読む:講談社現代新書」なる本を読んでおりまして、その中に沼田~赤城山北麓~東麓~下野佐野の道が取り上げられていました。五覧田城も僅かな記述がありました。
こうして、たそがれさんの記事に五覧田城が出現するにおよび、一気に身近な存在となりました。興味の対象は多少違うかもしれませんが、かなり行く気になっとります。城見物と山歩きを同時に楽しめそうで、ワクワクしてきましたです。
今回、確かに、善行の真似事はしましたけど、早めにスコップを持って、正式に安置してこないと気が済まない状態になってしまいました。何だか呼ばれているような。不思議な感覚ですよ。
私も、実は浅学ながらも、この地の八城には興味を持っておりまして、ネットで検索すると、やはり、かなりのお好きな方がいらっしゃるのですね。詳細な記事を拝見いたします。私の場合は、雰囲気さえ味わえれば十分なのですが。
講談社新書にそんなのがあるのですか。五覧田城は赤城の北東に位置しますから、まさにそのラインですが、やはり、ささいな存在なのでしょうね。