10月11日は、
穏やかに晴れた日だった。
おはようございます。
車内にいると汗ばむくらいだ。
二年前は、もっと暑かった気がする。
11日は、うんこが死んだ日だ。
あの日から二年経った。
私にとっては、絶望を知った日だ。
そう、本当の絶望というものを、
私は、それまで一度も知らなかった気がする。
無職になった時も借金を抱えた時も、大失恋した時だって、
私は心のどこかに、希望と自惚れを持っていた。
愛する猫が死んだ時だって、
「これでいいんだ。幸せだったから。」と言えた。
けれど、うんこにはそう言えなかった。
うんこが死んだ日、私は希望も自惚れも消え、本当に絶望した。
そんな中、
突如現れたチャー坊に、また新たな希望と自惚れを見出していた。
あんなに絶望していたくせにだ。
これは、一体何だろう?
これは愛だ。
私にとって、この世は愛が全てだ。
どうしようもない恋愛体質だ。もはや変態だ。
だけど、私は歳を取った。
愛するものは、どんどん減っていく。
これからの人生は、減らしていくに相応しい年齢になってきた。
チャー坊みたいな奇跡を期待するのも憚る。
けれど、どうしようもない恋愛体質のせいで、
そうやって愛するものを減らしていった先に、
一体、どんな自分が残っているのだろう?と怖くなってきたんだ。
もっと歳を取って、本当に独りになった時、
ドロドロした化け物みたいな自分だけが残っていたら、
私はそんな自分を、愛せるのだろうか?
その時きっと、
うんこを失った絶望以上の絶望に覆われてしまうのじゃないだろうか。
「これでいいんだ。幸せだったから。」
なんて、言っていられなくなってきた。
幸せは、砂利道に転がる無数の石ころから、
ひとつ、ふたつと、ときめく小石を見出す作業に似ている。
つるんと丸い石や、やけにギラギラした石を拾い上げて、
それを大事そうにポケットに入れる。
愛する宝物にするか、ただの石ころにするかは、自分次第だ。
幸せは、自分の心でいつだって決められる、無限の自由だ。
いつしか、ドロドロの化け物みたいな自分だけになったら、
砂利道を歩いてみよう。
しゃがみ込んで、ときめく石ころが見つかったら、
「今、私は絶望なんかしちゃいない。」ってことが分かるから。
なんか、ごちゃごちゃ言っちゃってるわね、母さんったら。
あのね、そんなこと考えてる暇があるんだったら、
うんちゃんの命日にお供えしろっつーのぉ!