あの日は、空が低かった。
おはようございます。
10月11日、私はうんこを段ボールに寝かせ、
花柄のタオルを体に掛けてやった。
脇には、うんこが大事にしていたネズミのぬいぐるみも入れてやった。
これは、生前からの約束だ。
「お前が死んだ時は、必ずネズミさんを持たせてやるからな。
そのほうが、淋しくないだろう?」
うんこがまだうんと若い頃から、
私は、まるで自分に言い聞かせるように、幾度となくそう伝えていた。
次は、こんな時、私なら、
普段はケチなくせに、ここぞとばかりに沢山の花を買って遺体を飾るはずだ。
うんこなら、そうだなぁ。大輪のバラが似合うかもしれない。
『ベルサイユのばら』の世界観。
けれど今回は、どういう訳かそんな気持ちになれなかった。
それでも、段ボールは、6キロを超えていた。
「持てるだろうか?」
慎重に抱えてみたが、思いのほか軽く感じた。
「あれ?うんこ、痩せたんか?」
段ボールの中のうんこは、相変わらず二重顎で眠っている。
痩せたように思えないし、死んでいるとも思えなかった。
私は、そのまま家を出て、車へ向かった。
助手席に段ボールを運び入れ、霊園への道をカーナビにセットした。
山の上の静かな動物霊園、ここは我が家の猫達が全頭眠っている大切な場所だ。
そのくせ、一度も迷わずに行けた試しがない。
私にとってはもっとも苦手な場所でもあった。
静かな住宅街を抜けると、賑やかな市街地へ入る。
そこを抜けると、一気に、嘘みたいにド田舎だ。
さっきまでビルが立ち並んでいたのに、一瞬で山々と田園の風景が広がった。
道は田園を切り分ける役割を果たすようにまっすぐだ。
その先は、左右の山々をも切り分けているみたいに続いている。
その水平線から、大きな入道雲が湯気みたいに立ち上っていた。
「うんこぉ、秋なのに入道雲なんて、おかしいな?」
私は入道雲に見入られたまま、うんこに話し掛けた。
たしかにこの年は、10月なのに、まだ真夏みたいな日が続いてた。
車のエアコンからも冷風が強く唸っている。
その時、カーナビが冷静な声を発した。
「300メートル先を左へ・・・」
液晶に目をやると、左折したら、すぐ霊園だ。
どういう訳か、私は初めて霊園への道を迷わず来られていたと知った。
このまま進めば、3分で着く。
3分で霊園に着く・・・着いてしまう。
私は、まだ300メートル手前なのに、
急にハンドルを左へ切り、道の左端へ車を寄せブレーキを踏んだ。
前を見れば、左折すべき道は見えない。
その代わりに見えたのは、
まっすぐ登って行く道と、真っ青な空を繋ぐ入道雲だ。
ここからは、それしか見えない。
「うんこぉ、行ってみないか?」
今なら、あの雲へ登って行ける気がした。
うんことなら、出来る気がしたのだ。
うんこと私なら、永遠にドライブをし続けられる。
終わる事のない私達のドライブだ。
「うんこぉ、きっと楽しいよね?」
うんことなら、どこへ行っても楽しいのだ。
窓の開かないボロアパートだって楽しかった。
獣医さんに「期待しないで」って言われた時、うんこは死ぬと思った。
でも、哺乳瓶の乳首だけは死んでも離さないって顔で必死にしがみ付いてた。
シリアスな時なのに、私は笑っちゃったんだ。
ベランダ付きの部屋へ引っ越してからも楽しかった。
さっそく、そのベランダから生きたセミを咥えてきた時のうんこの自慢気な顔ったら、
本当に楽しかった。
私は、うぎゃーっと叫んだ後、卒倒したから一瞬しか見てないけどさ。
あやを拾って来た時も、私は不安だった。
うんこは子猫なんか受け入れないじゃないかって、すごい心配したけど、
うんこったら、凄かったもんな。
「母さんのお手伝い、買って出るわ」て顔で、あやの面倒を痩せるくらい見てくれた。
あれ以来だ。
いつでも、子猫がやってくると
「はいはい、あら~可愛い子ちゃんね」って慣れた風に迎え入れて、
ほんと、お節介な家政婦さんみたいで楽しかった。
「一週間ももたない。」
そう宣告された時も、うんこは小鳥みたいな声で鳴いた。
「うんちゃん、早く帰りたいのぉ」って意味だろうけど、
プンプン怒ってるくせに小鳥のさえずりだなんて、面白くって笑ってしまった。
うんこが死ぬなんて、思えなかった。
うんこが、私から離れる日が来るなんて、あり得ない。
「うんこ、行こう。あの入道雲に乗って行こう。」
きっと、私達なら出来るんだ。
私は、本気でそう思った。
そして、助手席の段ボールに手を伸ばした。
うんこに触れるのは、段ボールに入れて以来だ。
まだ、日が昇らない時刻から、うんこは眠り続けていた。
あまりにも気持ちよさそうに眠っているから、
起こさないようにそっとしておいた。
けれど、数時間ぶり、うんこに触れた瞬間、私は咄嗟に手を引いた。
「硬い。」
つやつやだったはずの被毛は、バサバサした安っぽいフェイクファーみたいだ。
うんこは、もう、この体の中にはいない。
私は、パンパンになった水風船がはじけるように、爆発的に泣いた。
大声で叫びながら泣いた。
叫びながら、縋りつくように、もう一度うんこに触れた。
まん丸なうんこの体は、どこもかしこも冷たくて硬い。
そのくせ、脇に置いたネズミは、うんこより遥かに暖かった。
「こんなはず、ない・・・」
うんこを手放すなんてそんなはずない。
私は、まだ抜け殻を手放せない。
「こんなことになるつもりはなかったのに。」
どうしても手放せない自分に戸惑った。
こんなことになるなんて、そう思ったら、突如父の言葉が脳裏に浮かんだ。
母の認知症は、ますます進行している。
変わりゆく母を、受け入れられない父は、ある日
「もう、どこか、預かってもらえんか?
俺は、こうなるつもりなんか、無かったんだ。
もっと穏やかな老後になるもんだと思っていたのに、
ばあさんがあれじゃ、もう要らん。」
私は、かっとなって、母に言った。
「母さん、私とどこか、旅にでも行こうか?」
すると母は、
「おぉぉ、ええな。わし、温泉行きたい。」
と喜んだ。
母さんも、連れて行くか?
このまま、入道雲へ向かい、途中で温泉寄っていこう。
かずこと私とうんこの楽しい旅をしよう。
私は、ネズミを手に取り膝に置いて、アクセルを踏んだ。
けれど、私は道を左折した。
母は、連れてはいけない。
あんなじゃじゃ馬、車で大人しくしてるわけないし、
きっと、何度説明したって、
「じじは連れて行かんのか?」って何度でも聞くに違いない。
入院させた時も、そうだった。
あの二人を、最期の最後まで限界まで、一緒にいさせてやりたい。
私には、まだやりたいことが、あの家に沢山ある。
あやのことも、おたまのことも、たれ蔵のこともだし、
のん太のことなんて、問題山済みだ。
私はまだ、まっすぐ入道雲を上ってはいけない。
私は、入道雲を背に、あの愉快な家へ帰って行くんだ。
「その時が来るまで、ネズミは貸しておいてね、うんこぉ。」
うんこ「さっき、ネズミを踏んでたくせに。母さんめ!」
そそ、うっかり、ぶちゅって踏んじゃったもんな~。
我が家の、まだまだ続く愉快な日々を、雲の上から見ていろよぉ!