先日、複数のメンバーで生徒の答案、作文を評価する という作業をした。
評価はとても難しく、基準がしっかりしていなくてはならないことはもちろんとしても、つき合わせてみると結構意見は違っている。ああだこうだの、喧々諤々のにぎやかな場となった。
全体で4グループに分かれていての作業だった。早めに終わった私たちグループでは、喧々諤々が良い方に作用し、お互いが率直に、かつ穏やかに意見交換ができるようになっていた。
外国人の作文だから、漢字は結構かけていない。が、要求されるレベルは高い。「雰囲気」「偶然」・・・・これらは、漢字で書けて当たり前だという。
じゃあ・・ではないが、メンバーの中から、日本人の子供たちが漢字が書けないという話が出された。この業界、結構お給料は安く、地位は不安定なので、副業を持っている人たちが多い。私だって、主婦だからやっていけるようなもので、一家を支えるような・・・・無理無理という厳いし現実がある。
話を戻すと、塾で教えているメンバーがそこに二人いた。彼らの話は、漢字の話から、現代の子供像に移っていった。「言い訳がうまい」「すぐに落ち込んでしまうから、扱いに困る」など・・・・
それを聞いていた、ほかのメンバーから、もっと厳しく指導しないと本人の為にならないという意見もでる。
しかし、考えてみると巷に塾は数多くあり、競争も激しい。子供たちと信頼関係を築き、「いい先生」と思ってもらうためには、ひとりよがりな厳しさは受け入れられるはずがない。
子供たちが、そうなる背景には、甘い親の存在があるのであり、その親から厳しい先生は理解されないだろう。だいたい、子供たちの性格やら、しつけは家庭の仕事であって、先生の仕事ではない。
私たちが子供のころ、子供は社会が地域が育てるという感じがあったが、今はとなりのおばちゃんから怒られることも、褒められることもないのだろう。そういう私も、隣の子供に関心を持っているかと考えると、無いとは言わないが、関心を持たない方がいいのだろうとは思う。
子供たちが変わったのは、彼らを取り巻く周辺のものが、あれもこれも複合的に変わってしまったということなのであって、彼らの責任ではない。この辺をちょっと考えなくてはなあ・・と思った。
親として考えてみても、確かに自分が子供のころと比べて、お手伝いをさせることも少なくなったような気がする。人のことではない、自分のことだ。