教会で英語を教わったり、逆に教会で(違う教会)で日本語を教えたりと、この地で教会は、私の、そして人々の毎日の生活に大きくかかわっている。教会というと、古い荘厳な建物というイメージがあるが、中は実に近代的で、音響装置などは、相当にお金をかけて作っているなあという感を、私は持っている。それ自体が利益を生む運営体ではないから、資金は信者の寄付で賄われているのだろう。
アメリカを体験すると割り切ると、それなりに教会での様々な行事も楽しめるだろう。が、私のように宗教を真面目に捉えたり、ボランティアに頼り、資金をほとんど払わないことにもどこか背徳心をもってしまう人間には、だんだんそこへ行くことが辛いことになってしまう。自分がボランティア、無償で日本語教えるようになって少し気は楽になってはいるが・・・。
昨日は日本人の友人と一緒に料理を作った。彼女と親しくなったは、私がある時、キリスト教が辛いと、話してからだった。彼女も親切にしてくれる教会の信者の人たちとの関わりの中で、自分がキリスト教徒になれたらどんなに楽になれるだろうと悩んだという。私も、感謝はしているが、私にとっての宗教は友人のキリスト教信者の人たちの持っている、宗教観とは大きく違う。
しかし、一方で彼女は何も信じるものがなかったら、何か不慮の出来事が起きたとき、自分を支えていけないのではないかと言う。私は。正直いって、自分が不慮の事態に出会うことを考えたこともなかったので、絶句してしまった。彼女が仏教を深く信仰しているのは知っている。そっか、そんなことを考えるの?と、何もいえない私。
私にとって信じれるものは何だったろう?と考えてみた。母の愛情かな。父には申し訳ないが彼の愛情は、自分の前には何者もない愛情のように感じていた。つまり、まず自分がある。一番大事なものとしてね。否定しているのではない。きっと、ほとんどの人がそうだし、私もそうなのかもしれない。しかし、母は違った。私はいつも、母の前に、母が私と兄を置いているのを知っていた。だから、母を大事にするためにも、自分を傷付けることはできなかった。兄も同じ気持ちだと思う。そんな中で、私はいつも守られていることに甘んじ、自分の事を自分で考えてこなかったのかもしれない。
料理も楽しいが、いつも私の心の中に、大事なものを彼女は落としてくれる。生きていくには、考えることがたくさんあるなあと、思い知る。