東北大震災より6年を迎えようとしています。
先週の日曜に、宮城県防災指導員の講習を受け、防災指導員となりました。
講座は朝9時から午後5時までびっちりありました。結構内容の濃い講座でした。講師の方は、相当に早口でしたが、それもボリュームと時間を考慮しての早口だったような気がします。
私たちは実際にあの、大地震を経験しているので、何かしなければという思いがあります。それは、家庭内の備蓄とかそういうことでもあるのかもしれませんが、私は組織的にみんなが助け合うことが必要だと感じています。それは、どうしても、災害弱者という方が存在するからです。
私たちの市は仙台市の近郊にあります。所謂ベットタウンです。
地震があったのは、午後2時40分ころでした。寒い日でした。地震の後、雪が降ってきたのが忘れられません。とても、暗い気持ちになったからです。
その日は、近くのスーパー宮城生協さんが、食べ物を放出してくださるという情報を息子たちが聞いてきました。すぐに、高校生だった息子と、我が家に避難してきていた息子の友達が食料をもらいに並んでくれました。牛乳とお菓子でした。とても、助かりました。でも、のどを通りませんでした。
次の日、私たちの市では、食べ物の配給がありました。それも、息子たちがどこからか聞いてきました。若い行動力はすばらしい力を発揮してくれます。
すぐに、全員で公民館に行き、並びました。寒い中、長蛇の列でした。一人にひとつ、パンとバナナそして、お水がだったか渡されました。その配給は1週間くらいありました。午前と午後にあったように記憶しています。途中から、おにぎりになり、最後はバナナ1本でした。それでも、たくさんの人が並んでいました。お店は全く開いていなかったからです。
寒い中、列を作りながら、私は小さいお子さんがいらっしゃる家庭や、お年寄りの方は、どうやっていらっしゃるのだろう・・・と思っていました。並べないよ・・・・。でも、なんともできませんでした。人の分までもらうと、「ずるい!」と言われそうでした。みんな並んでいるのですから・・・。
震災後、いつのタイミングだったか記憶していませんが、私には小さな新聞記事が目につきました。たぶん、ネットで見つけたのだと思います。我が家では新聞は取っていませんから。
そこには、私の市の隣の町内会の女性会長が、行政にかけあい、配給食糧を町内会の会館におろしてもらい、全戸に配布したという内容が書かれていました。私は、寒い中、並んでいた時に感じていた思いが、もどってきました。そっか、そういう方法があったのか・・。なんと素晴らしい取り組みができている町内会なのかと思いました。市の職員の方も、その方が助かるに決まっています。並んでいる人に、ひとつひとつ手渡しするのも市の職員の方々です。
あの時の記憶が、自主防災組織は、災害の前に作っておかなければならないという思いとなり、今に至っています。