あらためて、日本語の勉強を始めると・・・・あれやこれやと知らないことがあったと気付かされる。
その流れの底辺にあるものは・・・実は言語は普遍的ナものでは決してなく、どんどん進化?形をかえていくということに尽きる。
その昔 いつかは知らないが・・・『ゐ』や『ゑ』という文字が使われていて、驚くなかれその発音は 『い』ではなく『え』でもなく、日本人は使い分けていた。その言葉が残っていれば、ヤ行 ワ行は もっと分かりやすかったかもしれない。
漢和辞典、国語辞典は学生が使うもの と思っていたから、『それ、持っている』で、済ませてきた。しかし、言語は変わっている。年々新しく単語が加わり、ギャクに死語
と化していく言葉もある。新陳代謝を行っている といっても過言ではない。
加えて、漢字 にたいする興味は学生時代には、あまりなかった。しかし、教える立場になってみると、いったいこの漢字の成り立ちはなんだろう・・・と、インパクトを持った、印象的ナ漢字の特徴のつかみかた、 ということに目が向く。
インパクトが強ければ、学生たちは漢字を面白がるだろうし、エピソードがあれば漢字も覚えやすい。
というわけで、進化する日本語に順応するために、漢和辞典を探した。なんと・・・漢和辞典は、とても引きやすく変わっていた。
学生時代に感じた、とっつきにくさ はあまり感じないようになっていた。
私が変わったのか・・・漢和辞典が変わったのか・・・・。
そういえば、先日、子供たちが集まったところで、子供たちが小さかった頃のビデオを見た。目を見張ったのは、子供たちのかわいさ、成長に間違いはないのだが・・・まあ、私自身も変わった、変わった。
自分の容姿がこれほど変わっていたとは・・・。体型だけではなく、明らかに顔形が違う。これは進化なのだろうか・・・・・。
学生の頃聞いた。
http://www.youtube.com/watch?v=RcgDe3CcU5I&feature=related
今朝息子をホームに送った。
ひとりでUSに向かう息子は、喫茶店でコーヒーをのむこともせず、売店でおにぎりを買った。
スポーツマン(サッカー)の彼は、勢いよくそのおにぎりをベンチで頬張った。
美味しそうに、日本を楽しむように頬張った。
東北新幹線にのりこみ、座席に着く。
窓の外で見送る、私をみて手を振った。
私は、『この子をお守りください』と、心で祈りながら、にこにこと息子を見送った。
送る気持ちがある。
送られる気持ちがある。
立場を変えて、その場に身をおかないと、なかなかに人の気持ちは分からない。
送られた息子が、送る気持ちに気付くのは、将来自分の息子をホームに送るときになるのかもしれない。
きっとそれでいい・・・・。
今は、そう思う。
さあ、私は元気に素敵に生きていかなければならないよなあ。
比べるのではなく、悲観するのではなく、おごるのではなく、怒るのではなく・・・・・・・
泰然とし、にこにことしていたいなあ。
次男は明日米国の大学に戻る。三男は夏休み明け授業が始まる。
私も明日から授業が始まる。
いろいろと振り回され、そして私もまた家族や他の人を振り回しただろう、夏休みだった。
時に自分だけが忙しい・・・と思ったり、自分だけがサラを洗っている・・・・と不平の連鎖が次々と起こった。
なんでもかんでも自分だけがやっていると思えてきた。
すると、あれもこれもと面白くなくなってくる。不機嫌になった。
でも、きっと・・・総体としては、できるときに出来る人が、ふーふー言いながら、自分のできることをしていたのではないだろうか。
見えていないだけでね・・・・。
調子が悪いと、何もかもが見えなくなったりする。
でもさ・・・・・・・
自分が元気だったり、人が元気だったり。
自分が謝ったり・・・人から謝ってもらったり。
許してあげたり・・・ゆるしてもらったり。
そんなことではなかったのかな。
間違いなく言えるのは、私はいつも、人と人のつながりの中にいた・・・ということ。
そして、幸せだったということ。
かわりばんこに元気になろう・・・・。
岡山ではこれを、互い違いに・・・と表現する。同じ方向に伸びるのではなく、互い違いに補完しあう関係かな・・・。
今年も素敵な夏をありがとう と、私と関わってくださったすべての人に言いたい。
腰が痛くて走れない日が続いていたのも、なんとか復調の兆しあり。
9月にはテニスの試合にエントリー・
腰を心配してくださった方々、ありがとうございました。
心配してもらって、うれしかったです。
互い違いに・・かわりばんこ。
今度はそちらの心配をさせて下さいね。
お盆のお墓参りをした。
家族揃って といっても、私のことではない。私は一人で帰省しているし、父はあまり動けない。
揃ってお墓に来てくれたのは、叔父一家。いとこたちも、同居のいとこあり、帰省中のいとこもありだが、揃ってきてくれた。来てくれた・・・という表現はちょっとずれているかも。お墓は 代々のものであって、同じ株内ならば、お墓は同じだ。
ただ、今まで不思議なことに、一緒にお参りをしたことはなかった。
田舎に帰ると毎回同じ考えが、頭の中で堂々と廻っていく。田舎で暮らすということ。
家族がたくさん集まって、支えあって暮らす。そんな構図を見る。
同窓会があった。そこで、田舎で暮らしている友達が、草刈りのないコンクリートジャングルで暮らしたいと言っていた。そうか・・・・私も子供のころ、そういう思いで居たのかもしれないと思った。無いものねだりかもしれないが、こんな選択肢もあったのかもしれない・・と、思いながら、田舎の故郷の風景を眺めている。
結論から先に言おう
電動自転車は、ルンルン、らくらくツールである。
とにかく、坂道なんて全く苦にならない。
自転車に乗って痩せよう とするならチョット難があるかもしれない。とにかく、エネルギーを使っている気がしないのだから。
他方、エネルギーを節約しているという気にはなる。ガソリンは要らないし、有害ガスも排出しない。ただ難をいえば、充電が面倒くさい。
田舎にいるいとこが言うに、下りの坂道で電気を作って蓄電してくれればいいのにね・・・。そうだ。それは素晴らしいアイデアだと痛感する。
話はころっと変わって、父が米からパンが焼ける機械が開発された という。そんな話聞いたことがなかった私は半信半疑で調べてみた。
すると。あるある。 サンヨー電気が10月から販売するらしい。お米をあらって、イーストなどパンを焼く材料を投入しておくと、食パンが焼ける。
日本の技術力はすばらしい・・・と、父と話し合った。
こんな感じで、田舎暮らしが過ぎていく。今日は同窓会。亡くなった同級生のお墓参りもする。
知人から『帰省』とは、実家に帰る プラス 父母の安否を問う という意味があると聞かされた。そういう意味では、私は正しい帰省中。
田舎暮らし に必要な物は、自己負担の交通手段。これは自給自足生活であっても必要であるような気がする。
父が白内障を患ってから、我が家から車が消えた。ならば、自己負担で歩いて、買い物かごさげてお買い物・・そんなことが夢物語になってしまっている。まさにしまっている。
わが町から、小売店が消えている。あのゴムひもから、アンパン、竹輪から種、長靴までなんでも売っていた万屋がない。あるのは無味乾燥のコンビニ。コンビニの品ぞろえは標準化されている。こんな田舎でも東京の丸の内でも同じものを売っているのだろう。
あのね・・・ここに必要なものがあるでしょう? とちょっと言ってみたくなるのだが・・・都市生活に慣れている私には結構快適だったりする・・ということも告白する。
交通手段を確保するために、前回は近所からママチャリを調達した。
今回帰省するにあたり、前もって兄から お前のために電動自転車が買ってあったよ と連絡が入った。私は父の優しさに触れて、涙して喜んだ。加えて、私に言わないということは。驚かせようとしているんだ・・と、オプションの喜びも感じていた。
で、来てみると、あるある パナソニックのピッカピッカの電動自転車。私のために・・じゃなく、父は自分が本気でそれにのるつもりで買ったのだとか・・。
え?危ないでしょう。 父は、お前たちが、危ない!危ない!と全部止めるから、いまや自分は自宅軟禁状態だと 嘆いた。そっか・・・確かにそうだ。
乗れないよ じゃなくて きっと乗れるね と励まそうと気持ちを切り替え、反省もする。
昨日は、さっそくピッカピッカの自転車に乗ってお買い物。確かにらくらく楽ちんだった。
そんなこんなで、一日があっという間に過ぎていく。
神様が人間には思った以上に大きな脳をつくってしまった という話を聞いたことがある。
悩み、苦しみ をもちながらも、喜びを享受もできる能力を持つ。
夏休みに入って、我が家の にぎやかなことにぎやかなこと・・・。
皆健康で、文句を言ったり、笑ったり。これほど幸せなことはない。
ところが、私の家事労働は倍以上に膨らんでいる。三人の省エネ家事労働に慣れてきたところだったので、辛いというより
イライラしてしまう。
イライラブルーのとき、これじゃいけない 幸せだよ と思うと、これがすごい、気分は幸せピンクに突然変わる。
先日熱中症の時も実はこれをやっていた。フラフラと集中力がなくなるとき、だめだ、集中だ と言い聞かせると、これが集中モードに切り替わる。
背中にスイッチがあるわけでもない。ただ気持ちを入れ替えるだけだ。
妙 という どうやって外国人に通訳すればいいのだろう という日本語があるが・・・まったく、気持ちの妙としか言いようがない。
さて、今日も気もちの妙を操りながら、渡米記念の記念日のメニュー作りと、あさっての授業の準備、とやることがいっぱい。
2002年8月2日 我が家は渡米した。それから、この日を毎年USで記念日として祝ってきた。感慨深い日だった。それを、子供たちは、今も記念日として捉えている。
息子が韓国留学をしてきたのだが、大変お世話になった人がある。それは私の生徒のお兄さん。お兄さんが日本へ来たとき、私の生徒は、私に電話をくれて、兄を会わせたいといってくれた。お兄さんも交えて、我が家で大宴会。皆が友達になった。
それから縁が続いている・・・・幸せなこと。 今度は生徒が韓国へ一時帰国するので、今度はこちらから、お土産を持っていってもらう。
あしたは、久しぶりに、元生徒とビアガーデンに行く。
お土産をお願いする。