あれも、これもと広がる・・・・・。で、時間が・・・。
そんな中、仙台でもやっと桜が咲いた。
先日曜は、お花見となった。場所はセコンド近くの川原。桜は。。。そうか対岸に見える。
まあ、桜は真下でということもあるだろうが、望遠で全体を眺めながらも悪くはない。
やらなくてはならないことは山ほどあって、後手後手にまわしているが、お花見は行くと決めたのだから思い切って、楽しもうと決めていた。
セコンドは仙台市街地から広瀬川に向かい、それを越えたところにある。隠れた桜の名所でもある。
そういえば、日本では、学校って桜の木が必ずあって、どこの地域でも隠れた桜の名所なのかもしれない。
冬の間すっかり、葉を落としていたケヤキ並木の様子も気になっていた。私は、地下鉄の駅をおり、定禅寺通りのケヤキ並木を歩きながらセコンドを目指した。
ケヤキは、枝の先に小さな葉をつけていた。通りではクラフト展をやっていた。一軒ずつお店を覗きながら、手作りクラフトを見て歩いた。
製作者が直接売っていたので、話も弾む。私は、ビーズの指輪を5個買った。連休明けにUSで会うことになっている、友達にお土産にするつもりだ。ひとりひとりの顔を思い出しながら、色とデザインを選んだ。
ゆったりと時間が過ぎていった。ここのところ体調を崩していたので、余計時間がゆっくりと流れていくようだった。
花見では事件が起こりそうな予感があった。花見に参加する全員が、心にもやもやとしたものを持っていたし、その場に、そのもやもやの原因となっている人物が参加することになっていたから・・・・。
結果として、事件はおこらなかった。逆だった。文句を言い合うのではなく、意見を言い合う場になった。
スイッチの入れ加減って大切だと思った。もしかして、意識しなくてはならないのは、どんなスイッチを入れるか・・・なのではないかと思った。いい、スイッチが入ってしまえば、流れはそのスイッチに従って流れて行く。
スイッチとは意識であり、具体的には『ある場面でのことば』かな。今回も明らかに全員がスイッチと感じることばがあった。それは、私が言った一言。『そいう思いこそを、子供たちに話してくださいませんか?』 責めること、聞き出すことを意識したのではなく、気持ちを共有したいと意識してでた言葉だった。意図はなく、意識だけをしていた。
さて、あたふたとしている私の日常。今日はどんなスイッチを入れる? 肝心要の要スイッチをどう、いつ、いかに入れるのか。それが問題だ。
加えて意識だよ、意識。
とりあえず、ブログ書いたら、家事スイッチ入れよ。
先日の夕刻のこと。マラソンから帰宅してみると、携帯に見慣れない着信記録。息子の学校からだった。『熱が7度3分あります。一人で帰せないので迎えにきてもらえますか?』 幼稚園生でもあるまいに、屈強なラガーマンが7度3分の熱で帰って来れない? 不思議な気持ちだったが、とりあえず一大事と万障繰上げて学校へ迎えに行った。保健の先生がにこやかに迎えてくださる。顔色の決して悪くない息子がそこに居る。その息子より手前に、元担任の先生が腕にギブスをして、座っていらっしゃる。あれ?どうなさったんですか?息子の話そっちのけで、先生のお怪我の話になる。
保健の先生は、こっそり 精神的に悩みを抱えているようで・・・と息子の話をされる。
元担任の先生に対する、息子の信頼は厚い。私も同じ気持ち。どれ、先生に悩みを相談してみたらどう? とその場が明るい息子の悩み相談の場となった。
私は長男のことも思い出していた。彼は、幼稚園を不登校になった時期もあったし、私が彼の体調不良から、学校からやたら呼び出される時期もあった。小学校低学年の頃だったと記憶している。私は直感的に、歳の近い弟がふたりもいた長男が、母親の愛情を試していると、感じた。
『僕の優先順位はお母さんの中では何位なの?』そう問われているような気がした。私は もちろん『同率、同列一番!』と、呼び出しがあれば、すべてを放り出して、迎えにいった。登校拒否も『やすんでいいよ~お家で楽しいことしようね』と、受け入れた。すると、一定期間がすぎると、彼は落ち着いていった。何度かそんなことが繰り返された後、たくましく、やさしい兄貴に育ってくれた。
人は誰でも、優先順位をつけて物事にあたる。仕事や家事では段取りになるだろうか・・。実は同じように、人に対しても優先順位をつけていると、思う。
そして、その優先順位は、つけているほうより、付けられているほうが、そのことを強く意識するのではないか。同じことは、同じように自分もしているし、自分もされているから、『お互いにね 』と、にこにこと話は終了するはずなのだが・・・。やっかいなのが、お互いの順位が違っているときかな。
物事はあちらを立てたら、こちらは立たない。物理的に無理なのだ。
さて、仙台にもやっと桜が咲いてくれたようだ。お花見シーズン、優先順位をつけて、大切なことを、こつこつとしっかりやってかないと・・・春の宴とともに、失ってしまうものも多そうだ。
今日の優先順位は・・・そこから始めないとね。
一週間ブログの更新をしなかった。
忙しかった・・・というより、余裕がなかった。加えて、仕事としては創作的ナ仕事をしていたので、・・・ブログの延長のような仕事だったので、こちらにまで手が伸びなかったのかな。
教案を書いている。授業をイメージする。何がこの授業の目的なのか、何を生徒たちに習得して欲しいのか・・・。理解を助ける補助教材は何が適当か。
授業の初めはどうする? 展開は? リアクションは と考えていく。空想の中で、クラスを作り上げる。一方でイメージの中に、生徒たちがきちんと納まっている。その役割までが納まると、対個人の細やかな授業ができるのだろうと思う。もっともっと、成長したいと心から思う。
昨日は、土浦に遠征して、フルマラソンに参加してきた。ちょっと曖昧な表現なのは、完走できなかったから。31キロ地点で走るのをやめた。
さすがに苦渋の選択ではあったが、腰が痛くて、足がしびれて走れなかった。自分が椎間板ヘルニアを持病に持っていることを、もっとシビアに考えるべきだと反省した。
レースは楽しかった。ペースメーカー君との会話。走りながら風船細工を配っていた、風船お兄さんとも、お近づきになって、素敵な風船ブレスレットをもらった。
『腰が痛くて・・・』と、倒れこんだ31キロエイドの方々には本当にお世話になりました。なかでも、エイドから身柄を搬送してもらう車までの移動 100mくらいだったかな・・・ふっと歩けなくなって立ち止まる・・・・ と、年上の男性の方が、後ろからそっと腕を伸ばして支えてくださった。何気なく後ろから私に付き添ってくれていた? きつく支えたりしない。遠慮がちのその救護に心が熱くなる。ありがとう。本当に。
濡れて踏み潰された紙コップの残骸を掃除している人たち・・・。思わず手を合わせた。ありがとうございます。
あれもこれも、貴重な経験をさせてもらっている。恵まれている・・なあんてことを考えていた、この間の私でした。
新しい学期の始まり・・息子たちにとって、気になる一大事といえば、担任発表。
昨日は、先日のラグビー姉妹の集まりで、私は随分と元気がなかったようで、それを心配してくれた、歳の近い三姉妹で、誘われランチをしていた。
誰が担任になるのか・・・・子供たちは緊張していた。母も結果を聞きたいのだが、連絡が容易にとれない。たがが子供たちの担任の先生 されど、担任の先生なのが・・・担任の先生のなのよね。
これは、申し訳ないけど、自分の人生のツキを確かめるような、スリリングな思いがする。誰にでも覚えてがあるのではないだろうか・・・。
息子は、素敵な先生に当たったようで・・・。そのクラスからは歓喜の拍手が起こったらしい。生徒たちのパフォーマンスは素直なだけ、逆に先生たちにとっては、校長先生の査定よりはるかに、純粋でシビアな査定、評価の中に身をおくことにんなってしまうだろう。。。
確かにお気の毒な感じはするが・・・でも、好かれる先生と嫌われる先生の間には雲泥の差がある。これは、ある。間違いなくある。そして、その先生が生徒に与える影響は、正負の関係である、間違いなくある。
なんで自分が嫌われるか考えて欲しい。うまく気持ちが伝わっていないとした場合、時に自分が変わらなくてはならないのではないか・・・と、考えても見て欲しい。どんな大人だって、そんな試練を負っている。
私の生徒たちのことも考える。私が担任で彼らは幸せだろうか・・・。
昨日はくしくも、一年前に母国に帰っていった生徒から電話がかかってきた。
先生~!! 何か急いで連絡したい、いいことでもあったの? 何もありません~。 日本語はどう? ぜーんぜん、だめです。
などと、話が進むから、彼の日本語もまあまあ、状態をキープしていた。
さて、来週月曜から私も新学期が始まる。最初の担任発表。私はどんな評価を受けることになるのか・・・とりあえず、にこにこしていよう。
使い慣れた○○ と、同じように、使い慣れた言葉が誰にでもあるのではないかと思った。ふと、思った。
実はこれは、逆のアプローチから、思ったというより、気付いた・・・・かな。
私が育った環境では、『ごめんなさい』という言葉が、あまり無かったような気がする。そこで、大学生となって親元を離れたとき、友達から お前ちゃんとあやまれないとだめだぞ と言われた。
母親となってからは、つとめて自分が悪いと感じたときは、子供たちに『ごめんなさい』と、言葉に出して誤った。それは大学時代から指摘されていたように、自分が 『ごめんなさい』を使い慣れていないと自覚していたからだ。子供たちには、自分の非をきちんと認めて、誤れる人に育って欲しかった。子供たちといっしょに、私も一から出直した感じだった。
最近は、携帯電話でのメールのやりとりがやたらと増えてきた。連絡網にはこれは便利だ。一軒ごとに電話することもなく、一斉送信でことは足りてしまう。ありがたい。
メールになって言葉がそこに残っているので感じ始めたのだが、だいたいの会話はキャッチボールのように、同じボールが行ったり来たりする要領で、同じ動詞が飛び交う。主格は入れ替わるから、同じとはいかない。
たとえば、ごはん食べた? 食べたよ。 ランチ行かない? うん行こうか。・・・みたいな感じ。
ところが、中に、その言葉を返してこない人がいる。食べる とか簡単で無害な言葉ではなく、例えば、好き とか 嫌い とか、ちょっと考えられない影響が及ぼされるかもしれない・・・?はは・・・言葉かな。
そっか、使い慣れていないんだ。
もっと掘り下げると、あまり言われてこなかったんだあ・・・ となる。日常会話の中で使われないと、知っていても使い慣れないことばになっていく。言葉にも環境によって、人によって、使い慣れない言葉と、使い慣れた言葉があると分かったときは・・・そうだったのか・・と、なにかが腑に落ちた!気がした。
これは、メールのやりとりで誤解が生じないようにするには、結構大切な前提だと思うのだが・・考えすぎだろうか。
第一種
今月13日にテニス公式戦デビューをすることにした。この大会が実は面白い。宮城県家庭婦人テニス連盟主催の大会で、エントリーは個人で、その場でペアを組んで試合をする。誰がペアになるか分からない究極のサプライズ大会になる?
家庭婦人 という表現にもちょっとびっくりするのだが、きっと歴史の長い組織なんだろう。実はこの大会に私は積極的に出ようと思ったが、同じチームメイトの中には拒否反応をしめした人もいた。理由は肯定派の私も、否定派メイトも同じだ。ペアがその場で決まるから・・・・。
同じ新人の私たちのこと、心の中で、テニススキルの欠如で相手に迷惑をおかけすることになる、という共通認識がある。知らない人に迷惑をかけるのは嫌だ というのがメイトであり、知らない人だから 気が楽 というのが、私。だって、ごめんなさい じゃあね バイバイで終わるんだよ。知っている人なら、後引かない? ・・・・・。そっか。そういう考え方もあったんだ・・・と、メイト。ね!!ものは考え方でしょう。
ただし、落ちがあるやもしれない。もしかしたらサプライズの相手は、知人ということになるかもしれない。世の中は甘くないんだから・・・。
第二種
他のスポーツもそうだろうが、テニスもバランス、フォームが大事。私がプレイをしている時、大抵コーチからかかる言葉が、『○○ちゃん、左手!!』。ストロークの時も、ボレーでも、スマッシュでも、サーブをしているときでさえ、この言葉が私に飛んでくる。確かに意識して左手を体の前にだす、体の上に振り上げる、残す と 大抵の場合、フォームが整うのだろう(自分のフォームは自分ではわからない)、すべてがうまくいく。スイートスポットに球はあたり、力をいれずとも、背の分、角度のある球筋が相手コートに決まる。
私は、自分の目に左手を印象付けるために、左手にだけ赤い手袋をすることにした。自分の視覚に『あか』が入ってくることだけを意識する。
これは結構効果的だ。コーチからもいいアイディアと褒められた。さて、この重要な意味を持つ左手の手袋、色を勝負カラーに変えようと思っている。
何色にしようかな?
今日は切ない引継ぎをしてきた。ラブビー部をやめる部員のお母さんから、お願いしていた仕事を引き継いだ。親の会の会計をお願いしていた。
ノート渡しておしまいでは、悲しかったのでランチを食べながらあれこれと話してきた。あくまでも子供たちのこと。親の出る幕ではないので、あれこれと子供たちに対して口を挟むことはお互いにない。ただ、娘、息子が悩んでいる、傷ついている様子を心配しない親はいない。お互いの親としての気持ちを出し合ってきた。
ラグビーが嫌いなわけではない。部員が嫌いなわけではない。なのにどうして、こんなことになるのだろうか・・・・。
土曜の私のテニスの打ち上げは、それはそれは楽しかった。なんで楽しくさわやかなのか? それは、そこには悪口もなく、感謝の気持ちに全体が包まれているからだろうと思う。コーチに対しては、全員が感謝の気持ちを持っている。コーチの一生懸命な気持ちと、豊かな愛情が私たちに伝わるからに他ならない。
全員が口々に、コーチに出会えたことを幸福だと形容した。すごいことだ。スゴイ人だよ全く、私たちのコーチは。
しかし、思わぬ形で、その席上で、他のコーチの不慮の事故について知ることとなってしまった。明るく大らかな人で、そのコーチがいるだけでコートの中が、明るく朗らかな雰囲気に包まれる、そんなコーチだ。そのコーチが交通事故でテニスができない体になってしまわれたという。言葉が出なかった。
人と人との出会いを考えた。出会ってそこから、様々な局面が起こってくる。出会いがなければ、何にも起こらない。考えたからといって、今更何が変わるわけでもない。それでも、あれこれと、人と人の出会いを考えずにいられない、雨の日の午後になった。
人の顔っていつも同じではない と 今更ながら思った。
先日のこと。知人と偶然に出会った。日頃、昼間お会いすることはない・・・方で・・。ましてや、あちらの仕事絡みでなんて、ありえないと思っていた。
でも、まあ、往来でお会いする事だってあるはずだし・・・不思議ではないのだが。驚いたのは、お顔から雰囲気から違っていたこと。どんなだった?と聞かれれば・・そりゃあ、素敵でしたよ としておきましょう。
人が一番見たいものは、実は自分の顔じゃあないだろうか。色々な場面で自分はいったいどんな表情をしているのだろう・・と考えることがある。それはとても気になる。
テニスでボールを打つ瞬間とか・・。人の表情をみてドキッとするから、自分もどんなんだろうと思う。
昔、フレッシュマンの時、職場の先輩から、君の笑顔はとてもいい と褒められたことがあった。親に感謝しなさいとか・・・なんとか・・とにかく、とっても笑顔を褒められたような気がする。
たぶん、わが家の家系は切れ長の目をしているので、笑わないでいると、恐ろしげな顔になるのだろう と理解していた。
最近は歳とともに、全体が穏やかに下がってきているので、あの切れ長の目も普通の目になった(ような気がする)。そこで、最近は息子たちから、お母さんは笑わない方がいい といわれるようになった。
そうか、笑顔を褒められたのは、はるか昔であって、今はそうでもないのね。でも、きりっとしすぎてない? などと考えていると、いったい自分がどんな顔をしていいのか分からなくなってくる。
どんな顔してればいいの? コンナ顔という確信が欲しいなあ・・・。該当する項目がありませんだったりして・・・。
テニスの打ち上げを明日に控えて、悩んでしまって・・・
何にって、ずばり『宴会芸』に。
そもそも、宴会芸なんて事前に考えることもないし、そもそも持ち合わせてもいないのだが・・・前回のテニスの忘年会で、話が分散しないように、コーチを中心に話がひとつにまとまるように、ちょっとしたゲームを考えていった。お蔭様でこれが大成功。そこにいなかった人たちからも、面白いゲームやったんだって?と聞かれたから、あちこちで話題にはなったのだろう。
二回目の宴会となると、なんとなく周りの雰囲気が、またゲームがあるんだわ となっているいる。今回はコーチお勧めの料理を食べた後、ライブハウスへ行くことになっているのだけど・・・・一次会は個室にしてもらったから とコーチから連絡があった。
ああ、やっぱりゲームが前提になってるよな~。
マジ困った。何もない。苦肉の策も出ない。今日一日じっくり考えてみよう。
しかしまた、なんでこんなことに悩んでるんだろう。誰からも頼まれてないよなあ・・。
気持ちが体に現れたのか・・・昨日から頸が回らないではないか。硬直した脳と頸を抱えて、一日思案に暮れる・・・ははは、今日はそんな日になりそうだ。
何事にも区切りをつけて、変わりたい、変えたいと思う。今日は区切りをつけるにいい日だ。
心機一転。一発逆転。
幸せは旅であり 目的地ではない
踊りなさい 誰も見ていないように
愛しなさい 一度も傷ついたことがないように
歌いなさい 誰も聴いていないように
生きなさい 今日が最後の日であるように
Happiness is a journey, not a destination.
Dance as though no one is watching you.
Love as though you have never been hurt before.
Sing as though no one can hear you.
Live as though heaven is on earth
Alfred D'Souza
昨日はテニスでも散々なゲームをしてしまったが、今日はちょっと違った。なんだか、調子は上向きだぞ~。