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(つづき)
西行庵の見どころの一つに茶室・皆如庵(かいにょあん)があり、
見学が朝茶のあとの楽しみです。
雨上がり、すっかり明るくなった露地を歩き、
皆如庵の貴人口から中へ入りました。
伺った皆如庵の歴史は複雑で、とても興味深いものでした。
ちゃんと覚えているかどうか?(西行庵にてぜひお聴きください)
頂いたパンフには、
桃山時代、豊臣秀吉の五大老の一人・宇喜多秀家の息女が
久我大納言へ輿入れの際、引出物として持参した茶室と伝えられる
・・・とありましたが、面白い異説を聞くことが出来ました。
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実は、皆如庵は切支丹大名として名高い高山右近が関わっていました。
豊臣秀吉のバテレン追放令(1587)ののち、信仰のため大名を辞した
高山右近は、天正16年(1588年)に加賀の前田利家に招かれて、
1万5千石の扶持を受けて暮らしていました。
皆如庵はその頃に高山右近によって金沢に建てられた茶室で、
茶会の名目の元、切支丹の集会場としても使われたらしいのです。
皆如庵で有名な床の創りがそのことを裏付けていて、
板敷の框床の壁には正面に丸窓があり、裏側に障子を立てています。
障子の中央に板を入れて花入を掛けることもできますが、
障子の桟を組み合わせ十字架に見立てることも可能です。
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金沢・灑雪亭の切支丹灯篭
徳川家康のキリシタン禁教令(1612)の後、切支丹への弾圧が高まる中、
高山右近はマニラへ行き、1年後にそこで亡くなりました(享年63歳)。
皆如庵の存在は次第に徳川幕府を気遣う加賀藩前田家のお荷物に
なってきます。
宇喜多秀家(妻は前田利家の娘・豪姫)の孫娘(パンフでは娘)が
久我家へ輿入れする際に引出物として持参させ、
京都市平野の久我別邸に西行庵へ移設されるまであったそうです。
・・・そんな歴史を伺いながら、
金沢・灑雪亭の切支丹灯篭を思い出したりしました。
皆如庵の正面には躙口と貴人口が並んでいて、特色の一つだそうですが、
金沢・灑雪亭も似た造りになっています。
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左が貴人口、右が躙口
床の丸窓の中央に板を入れ、花入を掛ける使い方もユニークですが、
掛軸は床の左側壁に掛けるのも変わっています。
皆如庵は一名「夜咄の席」とも呼ばれ、
夜咄の茶事では水屋の灯火が丸窓の障子を通して
客座を照らし、一層の風情を添えるとか・・・。
魅力いっぱいの皆如庵ですが、
私が一番惹かれるのは「道安囲(どうあんがこい、宗貞囲ともいう)」
の茶室です。
四畳向切で、三畳の客座と一畳の点前座の間に囲いがあります。
道安囲の仕切り壁は上部が吹き抜けで中柱まで続いていて、
中柱に接して太鼓張り襖のある火灯口があります。
道安囲があっても上部が抜けていること、点前座正面と勝手口に
窓があること・・・そういえば他にも窓がたくさんあって明るく、
開放感と緊張感が複雑に交じり合う茶室です。
「夜目、遠目、傘(道安囲)の内」ではないけれど、
襖を開けたときに現われるご亭主の印象や道具類の全貌、
道安囲の演出効果やかげ点ての便利さなどいろいろ考えると、
実に使い方が楽しみな茶席だと心躍りました。
一度でいいから、皆如庵の茶事を経験したいものです・・・!
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西行庵の見どころの一つに茶室・皆如庵(かいにょあん)があり、
見学が朝茶のあとの楽しみです。
雨上がり、すっかり明るくなった露地を歩き、
皆如庵の貴人口から中へ入りました。
伺った皆如庵の歴史は複雑で、とても興味深いものでした。
ちゃんと覚えているかどうか?(西行庵にてぜひお聴きください)
頂いたパンフには、
桃山時代、豊臣秀吉の五大老の一人・宇喜多秀家の息女が
久我大納言へ輿入れの際、引出物として持参した茶室と伝えられる
・・・とありましたが、面白い異説を聞くことが出来ました。
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実は、皆如庵は切支丹大名として名高い高山右近が関わっていました。
豊臣秀吉のバテレン追放令(1587)ののち、信仰のため大名を辞した
高山右近は、天正16年(1588年)に加賀の前田利家に招かれて、
1万5千石の扶持を受けて暮らしていました。
皆如庵はその頃に高山右近によって金沢に建てられた茶室で、
茶会の名目の元、切支丹の集会場としても使われたらしいのです。
皆如庵で有名な床の創りがそのことを裏付けていて、
板敷の框床の壁には正面に丸窓があり、裏側に障子を立てています。
障子の中央に板を入れて花入を掛けることもできますが、
障子の桟を組み合わせ十字架に見立てることも可能です。
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金沢・灑雪亭の切支丹灯篭
徳川家康のキリシタン禁教令(1612)の後、切支丹への弾圧が高まる中、
高山右近はマニラへ行き、1年後にそこで亡くなりました(享年63歳)。
皆如庵の存在は次第に徳川幕府を気遣う加賀藩前田家のお荷物に
なってきます。
宇喜多秀家(妻は前田利家の娘・豪姫)の孫娘(パンフでは娘)が
久我家へ輿入れする際に引出物として持参させ、
京都市平野の久我別邸に西行庵へ移設されるまであったそうです。
・・・そんな歴史を伺いながら、
金沢・灑雪亭の切支丹灯篭を思い出したりしました。
皆如庵の正面には躙口と貴人口が並んでいて、特色の一つだそうですが、
金沢・灑雪亭も似た造りになっています。
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左が貴人口、右が躙口
床の丸窓の中央に板を入れ、花入を掛ける使い方もユニークですが、
掛軸は床の左側壁に掛けるのも変わっています。
皆如庵は一名「夜咄の席」とも呼ばれ、
夜咄の茶事では水屋の灯火が丸窓の障子を通して
客座を照らし、一層の風情を添えるとか・・・。
魅力いっぱいの皆如庵ですが、
私が一番惹かれるのは「道安囲(どうあんがこい、宗貞囲ともいう)」
の茶室です。
四畳向切で、三畳の客座と一畳の点前座の間に囲いがあります。
道安囲の仕切り壁は上部が吹き抜けで中柱まで続いていて、
中柱に接して太鼓張り襖のある火灯口があります。
道安囲があっても上部が抜けていること、点前座正面と勝手口に
窓があること・・・そういえば他にも窓がたくさんあって明るく、
開放感と緊張感が複雑に交じり合う茶室です。
「夜目、遠目、傘(道安囲)の内」ではないけれど、
襖を開けたときに現われるご亭主の印象や道具類の全貌、
道安囲の演出効果やかげ点ての便利さなどいろいろ考えると、
実に使い方が楽しみな茶席だと心躍りました。
一度でいいから、皆如庵の茶事を経験したいものです・・・!
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