新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

改訂版「我が国の英語教育の輝かしくない成果」:

2023-08-17 07:47:48 | コラム
どうしてこのような英語になってしまったのだろう:

 私がこの我が国の英語教育の芳しくない結果と思った例を取り上げたのは2018年の4月だった。有り難いことに5年4ヶ月を経た今になっても、読んで下さる方がおられるのだ。

そこで、今回はどういう問題点があるのかを、あらためて纏めてみようと考えた次第。読者諸賢の英語の勉強の仕方のご参考になれば幸甚である。

 “children become big”:
私は29年以上も前のことにもなってしまったウエアーハウザー在職中に、地下鉄の車内で言うなれば「英語ペラペラ風」の同胞が、凄いスピードでまくし立てていた、一聴本当の英語であるかのような話し方を採り上げて批評した。そこで、先ずはそれがどのように「如何にも流暢な英語のようだったか」を、あらためて紹介しておこう。記憶では下記の通りだった。

"Every years, I take vacation two month, you know. I go Europe with family, you know. Nowadays, children become big and go to school and cannot stay long, you know. So, we don’t go and wife complain and become angry."

 このような具合で文法も何もない、言うなれば英語の如きだった。間違っていた点を指摘すれば、先ずは文法では基本中の基本である「現在形や過去形が無視されて、学校で丁寧に教えられていたはずの三人称単数のsが抜けていたこと」、「複数も単数も区別されていなかったこと」がある。こういう誤りはnative speakerたちの中に入れば「無教養」と看做されるので、厳重要注意である。

また別に宜しくないと指摘したいことがあった。それは私が「会話の中では言わない方が良い」と繰り返して指摘して来た“you know”が多用されていた点である。これを言うことで英語の品格をより一層引き下げる悪い材料になるし、知的には下層にあると看做されると承知していて欲しいのだ。だが、“you know”は何か格好が良いものと錯覚されて使ってしまう人が多いので困る。

ここで見出しに使った“children become big”の解説をしておこう。彼は「子供たちが大きくなって」という日本語を思い浮かべて、素直に「大きくなった」と言ったのだろうと思う。私の解釈では、彼は「成長する」という意味になる“grow”を思いつかなかったのか、知らなかったかの何れだったのだろう。そこで、知っている単語を使ってgrowを言い換えて「大きくなった」を表現したのだろう。

私は「然るべき単語が出てこなかった場合には、このように言い換えて何とかする方法がある」ということを敢えて推薦しておきたいのだ。例えば、私が嫌うカタカナ語の「コラボ」即ち“collaboration”は、どちらかと言えば難しい単語なので、思い出せなければ“to work with 誰それ”のように言い換えれば良いのである。

上記のような語りを聞けば「この方は学校では何を学んでこられたのか」であり「学校では何をどのように教えればこうなるのか」と悲しくもなるのだ。気を付けて貰いたい点は、会話の相手方が「貴殿の英語は文法に誤りがあるのは宜しくないから、改善された方が」などと注意してくれることなどあり得ないのであると知るべし。

実は、この例文を長年の付き合いがあった、専門商社の海外担当の専務さん(残念だが、数年前に亡くなられてしまった)に見せたことがあった。彼は一読して微苦笑を浮かべて「貴方は俺の海外出張に密かに付いてきて、会話を録音でも取っていたのか。俺の英語は将にこういう類いなのだ」と語ったのだった。彼はその持てる力を発揮して海外駐在にも出ておられたし、貿易部門を大いに伸ばしていた実力者だった。

“Tokyo divide 23 area.”
先日も銀座一丁目を有楽町駅に向かって歩いていた時に、アメリカ人2名と日本の若い女性1名が語り合っているのを追い抜いた形なった。その女性は一所懸命に東京都内の行政区分と、隣接の千葉県のことを英語で説明していた。その内容は後ろからでも十分に聞き取れていた。遺憾だったことは、この女性もかなりのスピードで喋っていたのだが、矢張り文法無視で動詞には現在形も過去形もなく、単数と複数の観念も欠落していた。

このような品位に欠けた英語での語りは、遺憾ながら我が国の人々には良くある傾向なのだと、経験から言えるのだ。中でも最も印象的だったのが「嘗てはこうなっていた」と言いたいところを、この女性は全て簡単明瞭に“before”の一言で済ましてしまった事だった。この単語は主として前置詞に使われるので「嘗ては云々」のようには使われないのだ。我が国で“in”も”up“なども「中に入れる」と「増加する」のように動詞として使ってしまう困った傾向がある。

 私には果たしてこの女性のプリゼンテーションのような語りを聞いていたアメリカ人たちが(アメリカ人だと解ったのは、彼らの相槌の打ち方などが、アメリカ人が好んで使う表現だったからだが)理解できていたかどうか疑問に思えた。それでも、私には何を言いたかったのかが、良く解ったのが寧ろ悲しかった。それでも、会話は成り立っていてアメリカ人たちも理解できていた様子だった。

彼女の表現で特徴的だったことがあった。それは“Tokyo divide 23 area.”のように言っていたこと。それが23区の説明であるとは私には直ぐに解るのだが、アメリカ人たちはどうだっただろう。彼女は懸命に説明していたのだのは理解できる。

私が問題だと思う点は「何処で習い覚えた英語か知らないが、何故あのようになってしまうのか」ということなのだ。聞くとも無しに聞いていて(“overhear”という)、本当に悲しいと思ったことは「何故、我が国の英語教育ではこのような質の低い自分の思うことの表現能力しか身につかない教え方しか出来ないのか」だった。

 ここで、私の年来の主張である英語の勉強法をあらためて述べておこう。それは「常日頃から教科書の音読・暗記・暗唱をイヤと言うほど繰り返しておけば、こういう文法的に間違った英語が口から出てこなくなるものであり、教える側も文法的なことを恰も数学のように理屈で教えたのでは、聞かされている方は無味乾燥であり『何だ、面倒くさい』と思って等閑にしてしまうのではないのか」なのだ。

しかも、「試験に次ぐ試験で責め立てるから、試験のための英語の勉強しかしないようになり、実用面での効果が挙がらないし、自分が思うことを表現する力が身につかずに終わる」のである。

我が国の学校教育で育てられた者たち全部がこのような英語しか話せないようになるとまでは言わない。と言うのも、現実に国際的な取引の世界では、立派に通用する英語力を備えた方々にお目のかかっていたのだから。

私が経験した範囲内では上記のような我が国の英語教育が実を結んでいなかった例に数多く出会っていたのが残念だったのだ。今回は敢えて上記のような英語しか話せない人の例を採り上げて、英語教育に携わっておられる方々が、もしも教え方改革を志された時の参考にしたいと考えた次第だ。