新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

8月13日 その2 高校野球と技巧

2023-08-13 11:03:28 | コラム
高校生が牽制球を巧みに投げるのは・・・:

持論として「野球とは基本的に投手が力の限りの速球を打つなら打ってみろと投じ、打者が打ってやろうじゃないかと全力でバットを振って遠くまで飛ばそうと競い合うゲーム」だと認識している。だが、トーナメント方式の全国大会を続けて、甲子園を憧れお聖地にしてしまったので、そこに出るためと勝つための技術と技巧を身につけることが大事にされるようになった。ここに取り上げる牽制球の操り方も巧みで、アウトにした例もいくつか見えた。

余談になるかも知れないが、打者を育てることでは名コーチだと言われている石井琢朗は「打者を育てる最善の方法は速球を打ちこなせるように育てることにある」と言い切っていた。速球を打ちこなせるようになれば、変化球にも付いていけるという意味だと解釈した。と言うことは「投手は速球を投げられるように身体能力も鍛えておけ」ということでもある。牽制球は速球の制球力が付いてから練習すれば良いのだ。

その結果として、アメリカの野球と比較すると「犠牲バント」や「走者への牽制球の投じ方」などのスキルは、高校生でもプロ並みに練達熟練した上手さを見せてくれる。その面での上達を否定はしないが、それを練習する前に打者が打てないような速球のコントロールを習得させたら如何と言いたいのだ。一寸見た甲子園野球の中継でも、140km台後半から150kmの速球を操る優れた素材もいた。だが、解説者は牽制の上手さや変化球を巧みに操る方を褒めたがる。

その牽制球だが「牽制」という表現はアメリカで使われている野球用語には見当たらない。牽制は日本語版の「死球」や「エンタイトル(ド)ツーベース」などと同様というか、我が国独特の造語なのだ。「牽制」とは広辞苑には「相手の注意を自分の方に引きつけるなどして自由に行動させないようにすること」とあるから、上手い言葉を使ったものだと、先人の知恵に感心している。

ところが、本家のアメリカでは“pickoff throw”か“pickoff attempt”という専門語が出来ていて「牽制」とはやや趣が違うのだ。即ち、pickoffとは「走者が帰塁する前に投げて刺そうとすること」の意味しかないのだ。「牽制」に相当する単語はと言えば“check”が出てくる。私はカタカナ語になった野球用語も面白いとは思うが、この「牽制」という使い方に最も興味を惹かれている。

話は違うが、ピッチクロックを導入したMLBでは確か「牽制球は3回投げてアウトに出来なければ、それ以上は投げてはならない」と制限して、スピードアップ化を図っているそうだ。これは良い制約だと思う。我が国でも導入しても良いのではと思う。アナウンサーは「執拗に牽制して打者の打ち気を削ぐ」などと言って駆け引きの手法とするが、見ている方はまだるっこくて興味を削がれる。ピッチクロック制と共に導入を検討すべきだと思うが如何か。


酷暑の8月に感じたこと

2023-08-13 07:58:12 | コラム
兎角この世には解らないことが:

マイナンバーカードと健康保険証:
今月は東京山手メディカルセンターと「国立研究開発法人・国立国際医療研究センター」に診察して頂きに出かけていった。だが、両病院共にマイナンバーカードと合体した健康保険証の提示は求められなかった。国立には何処の開業医の受付にも設置してあるマイナンバーカードの健康保険証を通す機器は設置されていなかった。メディカルセンターでは目立たない場所に「毎月初旬にマイナンバーカード健康保険証を確認しておいて下さい」との掲示があった。

かかりつけの歯科医院では先生に「在来の紙のカルテを全て電子カルテに移す作業だけでも、大きな負担になる個人のクリニックがある」と聞かされて、「成る程」と納得した。だが、テレビのニュースなどでは「マイナンバーカード1枚で全ての病歴や投与された薬が一目でわかる」と報じている。確かに、35年も診て頂いているクリニックでは、紙のカルテを積み重ねて患者の順番を決める方式はなくなっていた。これって何か「メリット」になるのか。

私には何があるべき形であり、それをあらゆる障害物を排除してディジタル化出来れば「最高!!」なのだろうくらいは解るので、早く決着して欲しい。だが、岸田内閣と河野担当大臣と所轄の官庁にマスコミが伝えているような混乱を「快刀乱麻を断つが如く」に整理できるのかと心配になる。河野さんは現場の実情を何処まで認識できているのだろうかと気になる。

国立科学博物館のクラウドファンでイング:
マスメデイアは予定金額以上を、見込んだ時期よりも前に達成できたと大騒ぎだ。だが、こういう機関の在り方の事情に疎い私でさえ「国立の組織が資金難に陥ったのであれば、何故お国に救いを求めなかったのだろうか」とシンプル(カタカナ語だ!)に奇異に感じていた。その点を三橋貴明氏が「頂門の一針」誌上で明らかにしておられた。

三橋氏の解説では「国立科学博物館は独立研究法人であり、国立ではないのだが、名称に『国立』が残っているので紛らわしいのだ」となっていた。そうであれば、あれほど特別に報道していたメディアは先刻承知だったはずだ。だが、彼らは如何にも美談風に取り上げていた。そこで、長い年月お世話になっている国立国際医療研究センターはどのような法人なのか思えば「国立研究開発法人」だった。NCGMのNは“National”なのである。

中央官庁の残業時間が予定を超過:
「国会会期中の中央官庁の官僚たちの残業時間の調査をしたところ、予定を超過していたので、再検討を」とか報道されていた。「犬が人を噛んだ」程度の案件ではないか。今を去ること30年ほど前に、某中央官庁の若き課長補佐と語り合ったことがあった。彼は事もなげに「我々が国を動かしているのです」とその残業のことを語っていた。会期中は朝2~3時に帰宅して翌朝ではない、その朝6時には出勤するそうだった。その頃と変わっていないようだ。

飯島勲氏は「実務を知らない人たちが議員になり大臣に任命されていくのは・・・」と書いておられた。マスメディアも平気で「官僚が書いた原稿を読んでいる」という。あの30年前にも「それならば、最初から官僚に質問する方が時間の節約ではないのか」と考えてしまった。マスコミ批判派としては「彼らがそうと百も承知ならば、改善策を提案しても良いのではないのかな」と考えてしまう。

少しこの件と離れるかも知れないが「現場の経験が豊富で実務を良く知っているからといって、組織の長になった場合に実務担当者たちを効率的に使っていけるかどうかは別問題である」なのだ。だが、国の政治の責任を担う大臣になったならば、官僚に訊かなくても実情を充分に把握する努力をして欲しいものだと思う。大臣に答弁が出来るようにしているために、官僚になり手が減少してしまって良いのか。

話は違うかも知れないが、我が国の取引先で人事異動があり、全く我が社の製品の加工に関連がなかった部暑から移ってこられた課長さんが「これから鋭意勉強しますから宜しくご指導を」と謙虚に挨拶された。我が方の副社長以下マネージャーたちが会談終了後に呆れて言った「我が社は彼らの学校ではない。何を勘違いしているのか」と。これは文化の違いの一例だが、我が国では色々な部門を回らせるのが一般的な方式だと、後で説明して納得して貰った。