新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

日本シリーズを第三戦まで観戦して思う事

2021-11-24 08:54:00 | コラム
何故我が国のサッカーを観戦しても感動と興奮を与えてくれないのか:

野球の面白さ:

昨23日夜の日本シリーズ第三戦を見るに当たって、折角だから何れか一方のテイームを贔屓にしようと決めて、同じ事ならと言わば東京代表のヤクルトスワローズに勝たせてやろうと思って見ていた。そう決めて見ていれば、あのような一進一退の「シーソーゲーム」(=seesaw game)を見せられるとハラハラもするし、まさか打つまいと期待もしていなかった10打席無安打だったサンタナが試合をひっくり返すホームランを打ってしまうというような興奮もあったのだ。意外性を見出すのだ。

あのようにピッチャーとキャッチャー以外の7人が如何に必死になって守っていようとも、ピッチャーが打者の思う壺の所に投げてしまえば、あのような大袈裟に言えば九仞の功を一気にかく一発逆転があり得るのだ。ところが、UK式のサッカーでは我がA代表テイームが格下の相手に苦しめられたように、11人が最初から引いて守ってしまえば幾ら一所懸命にシュートしても、まるで高くて厚い壁に向かって蹴っているようなもので、デイフェンスに当たって跳ね返されてしまうのだ。詰まり、見ている方は「何をやっているのか」と苛立たせられるのだ。

W杯出場が危うくなってきていた我がA代表は先日のテレビ中継がなかった格下相手の試合でも、そういう事情でやっと1点を取って勝てたのだ。我が方にはサンタナのような意外性もある個性派や、吉田正尚も杉本裕太郎もいなかった。だが、森保監督が後半になって出してみた三苫薫が我が代表の掟を破って(?)ドリブルで左サイドを抜いて出て綺麗なセンタリングをして、三苫が2~3人のデイフェンダー(と言うのだそうだ)を抜いたお陰で手薄になったゴール前に駆け込んでいた伊東純也が、キチンと左足で蹴り込んだのだった。

何が言いたいのかといって「アメリカが発祥の地の競技である野球では、個人の主体性を際立たせる事ができるのだが、UK系のサッカーでは個人の能力もさることながら、全体の協調性が必須なのである。従って、個人技を鍛えた上での臨機応変に攻撃の態勢を整えて得点を狙うのである。南アメリカやヨーロッパのサッカーでは優れた個人技の上に各人の個性を活かした組み立てた形で攻めるのだ。

だが、我が方は全員一丸となって、極端に言えば個性を消してまでもテイームワークを尊重する傾向があるので、中々個性を発揮できない恨みがあるのだ。私は森保監督が恐らく三苫の個性を評価していたのだろうが、あのように個人技とスピードを活かしたドリブルで抜いて出る選手は、あの代表テイームの和には合わないとでも考えていたのかと疑っている。私にはUKのサッカー専門の記者に酷評されたと聞いた大迫や南野等々は没個性派の代表の如くに思えてならない。だから、歴代の監督は香川真司のような個性派を毛嫌いしたのだと確信している。

安全第一:
個性派が少ないという事の裏には、上述の「全体での和」が強調されていると思っている。この点はビジネスの世界にも言える事で、常に「テイームワーク」と「皆で一斉に」とか「全員が一丸となって目標達成に全力で」となっているのだと見ている。皆で助け合い補い合って目標達成に向かってまっしぐらというのが、我が国の美風であり文化であるのだから、それを否定するものではない。だからこそ、アメリカが発祥の地であるbaseballをやっても「全員が一丸となって」という精神が基調になる「野球道」を追い求めて精進し、努力するのだと思う。

サッカーでも同じようなもので、皆のためにとテイームのためにと安全を期して、無理する事無く危ういと見れば後方に戻してしまうか、安全な場所にいる味方にパスをしてしまうのではないかと見ている。私には責任逃れにしか見えないが、やっている方は「安全第一」であり、無理をして相手方にボールを渡さないように懸命なのだと見るようにしている。これでは興奮の感動もなく、古き良き時代のサッカー出身者の私に「A代表やJリーグのサッカーは詰まらない」と言わせてしまうのだと思っている。国民性と文化の問題だと思うのだが、如何か。

昨夜まで見ていて感じた事は「バッファローズの中島監督には多少の危険を冒しても攻めていこう」との思想が見えた。一方のスワローズの高津監督は少しでも安全な方に投手を替えたし、詰まらないほどに犠牲バントに執着して安全を期して攻めていたと見た。話は飛躍するが、岸田総理は安全運転を重視しているように見える、事中国対策からだけ見れば。



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