暑い時期は外を出歩かず、極力涼しい室内に居るようにしているズボラな私。先日、久しぶりに取材資料を借りに静岡県立図書館に行ったら、朝一番(10時)すぎなのに閲覧デスクには人がいっぱい! 学生から年配の方まで幅広い年齢層で埋まっていました。この酷暑続きでは、少しでも早い時間から図書館に涼みに来る人が多いのも無理ないんですね~。
さて、10冊ほど借りた資料のうち、半分は『菅江真澄遊覧記』全5巻(内田武志・宮本常一編訳/平凡社)。菅江真澄とは宝暦4年(1754)~文政12年(1811)に生きた江戸後期のトラベルライターで、生まれは三河(現在の豊橋市あたり)。国学や本草学を学んでフィールドワークに出て、信濃~出羽~奥羽~蝦夷地まで長い旅をした後、久保田城下(秋田市)で秋田藩の地誌づくりに取り組み、仙北郡神代村(秋田県田沢湖町)で現地調査をしているときに亡くなった、という人です。
民俗学の世界では知られた人のようですが、恥ずかしながら私、全然知らなくて、先日、取材で国立劇場の演出プロデューサー田村博巳先生にインタビューしたとき、先生が手掛ける『平泉毛越寺の延年の舞』の元ネタが、菅江真澄遊覧記にあると聞いて、あわてて勉強し出した次第。
平泉を訪ねたエピソードは、彼が南部・津軽路を歩いた時の日記『かすむ駒形』に登場します。延年という舞は、平安時代から、京の都の諸大寺で法会(常行三昧供の修法)のあとに奉納されていた歌舞で、能や狂言の原型になったもの。京や奈良の寺では江戸時代までに廃絶してしまったのですが、奥州藤原氏の平泉文化が華開いた毛越寺では800余年間、伝承され続け、今も1月14日から始まる常行三昧供の結願日(1月20日)夜の二十日夜祭で奉納されています。
毛越寺には800年前の仏像や宝物類はほとんど残っていないのに、延年の舞という無形文化財だけは所作や台詞や音楽などもちゃんと残っている。その価値を多くの現代人に伝えようと、田村先生が劇場舞台版にアレンジし、来年3月、静岡音楽館AOIでも上演されることになりました。その舞台版のナレーション原稿に使ったのが、菅江真澄の日記。227年前の天明5年(1785)1月20日に彼が観た延年の舞を、2011年の舞台で再現することになったわけです。
「ふつうなら最も早く消滅してしまうはずの、形のない伝承だけの〈舞〉が、最もよく伝えられていることが素晴らしい」と田村先生。長い間、地元平泉の人しか共有できなかったこの伝統芸能の価値を、現代の東京や静岡で紹介できるようになったのは、菅江真澄がバトンリレーをしてくれたおかげですね。
真澄にしてみれば、延年の舞を何が何でも書き遺そうと意気込んで書いたわけではないと思いますが、彼の「ニッポンを自分の足で歩いてウォッチングしよう!」というライター魂?が、貴重な文化伝承の一助になっていると思うと、ライターという仕事が改めていとおしく思えてきます。
毛越寺を後にし、北上した彼の日記『岩手の山』には、私が地酒の取材で南部杜氏の故郷を訪ねた時に馴染んだ地名がたくさん出てきます。
「黒石(北上市)という村に来ると、家ごとの門の柱の左右にわらの人形を作り、これに弓矢、剣を持たせ、しとぎのようなものを、そのくびに鈴のようにかけてあった。風邪などが流行るとこのような人形を作り、餅、だんごなど家々に住む人の数だけつくって、人ごとにそれでからだをなでながら、糸に餅を通し、人形の首にかけて門に結びたてて置くという」
「走湯山高水寺(紫波郡紫波町)はむかし郡山にあった。そのころ称徳天皇が建てられたのは、そのたけ一丈あまりの観世音である。伊豆の国走湯山権現(熱海の伊豆山権現)を、清衡がここにうつしてまつられたという」
「三本木平(十和田市)は故郷三河のもとの野原、信濃路の桔梗が原、遠江の三方が原などにたとえられよう。行きかう人もまれで、朝露をふかくわけいってくると、下男を連れた法師が煙草をくゆらせながら、お休みなさいと語りかけた。(新続古今集で中務卿宗尊親王が)“故郷の人の面影月に見て露わけあかす真野の萓原”と読まれたのはこの野原であるなどと話し合って別れた」
北上は、磯自慢の杜氏多田信男さんの実家が、紫波町は喜久醉の前杜氏富山初雄さんの実家があります。真澄が、訪ねたかの地で故郷三河や遠江の風景を想起したように、私もこの地を、静岡の酒と連動せずにはいられません。
あ~あ、旅に出たいなぁ・・・(もちろん涼しくなってから)。