杯が乾くまで

鈴木真弓(コピーライター/しずおか地酒研究会)の取材日記

龍馬伝と稲取畳石

2010-11-29 18:37:50 | 歴史

 28日、大河ドラマ『龍馬伝』が最終回でしたね。肝心のクライマックス(暗殺シーン)で愛媛県知事選速報テロップが長々かぶって、ビックリしました。監督はじめスタッフや出演者のみなさんは「なんとかならんかったかのぅ」とツィートしたくなったでしょう・・・。すごいリアル感のある暗殺シーンで、照明、美術、編集スタッフさんのこだわりは相当なものだったろうと思えるだけに、あんな“テロ攻撃”に遭うなんてお気の毒・・・(しかも当選した愛媛県知事は元三菱社員とか)。「NHKに苦情200件」とYahooニュースのトピックスにも出てましたから、多くの視聴者も同感だったんですね。私はその後22時からのBS放送で“口直し”をしました。

 

 それはさておき、個人的にクライマックスだったのは、後藤象二郎とシェイクハンドした『清風亭』の回と、大殿山内容堂に大政奉還建白書を書かせた回でした。初回『上士と下士』からちゃんとつながっていたし、龍馬さんにはやっぱり故郷土佐を変えたいって思いがベースにあるんだなぁと思えた。

 

 

 

 土佐藩といえば、先週、伊豆稲取へ取材に行った時、意外なものを見つけました。ひとつは長さ3メートルちょっとの『畳石』。慶長11年(1606)に徳川幕府Photo が江戸城を修築したとき、土佐藩に手伝い普請の命が下り、山内一豊の養子・二代藩主山内忠義と実父で後見人の山内康豊が、伊豆から石材を採取運搬したそうです。

 

 ついでに高知城の築城にも使おうと、工事責任者の家老百々越前安行はじめ、数名の藩士が稲取へ派遣されたとか。石を運ぶための船は、伊豆全体で3千艘もあったといわれ、月に2回、江戸との間を行き来したそうです。運搬中に沈没した船も少なくなく、稲取沖の海底には御用石になりそこねた畳石がごろごろ眠っているそうです。

 地元歴史辞典で「土佐藩」の名前を見つけたときは、容堂公(近藤正臣さん)の顔が浮かびました。徳川政権発足時に江戸城修築に駆り出された藩が、政権の幕引き役を務めるという運命の皮肉・・・。容堂公が酒びたりになる気持ちがなんとなく解りました(苦笑)。

 

 

 

 その近くに、海に面した『海防の松』というのが立っています。これは、寛政5Photo_2 年(1793)、時の老中松平定信が、伊豆半島沖に出没し始めた外国船を警戒し、伊豆や相模の海岸に「陸の様子がわからないよう、クロマツを植えろ」と命じたもの。実際には防風林として重宝されたそうですが、200年以上経て今なお数本が残っています。

 

 

 

 ペリーの黒船が浦賀沖に来たのが60年後の1853年。大政奉還&龍馬暗殺が1867年。この松が稲取の海岸を護るお役目を負ってからの19世紀前半はある意味、江戸後期の閉塞感に満ちた、まるで今の日本のような半世紀で、19世紀後期~20世紀初頭というのは『龍馬伝』や『坂の上の雲』に描かれるように天井が突き抜けたような時代でしたね。

 

 

 

 400年以上、海底に棲む伊豆の畳石に心があったのなら、海上の移り変わりをどんなふうに眺めているんだろう・・・。徳川幕府が続いていると思っているのかなぁ。

 クロマツのほうは、見た目は堂々としているけど、根元や枝ぶりを細かく見ると、時代の荒波をまともに受けて生きてるだけでも有難いと思っているような、そんな風情でした(苦笑)。