週末の21~22日に、しずおか時の会の研修旅行で東京・江戸のからくり時計視察をしてきました。郷土史研究家の黒澤脩先生の案内で、人形町のからくり櫓、セイコー時計資料館、そして国立科学博物館に展示されている田中久重の万年時計(実物)を博物館名誉研究員佐々木勝浩先生の解説付きで観ることができました!他にも浅草や皇居東御苑や新宿歴史博物館等など江戸に残る今川・徳川ゆかりの地を、“ブラタモリ”風にブラ歩きした歴史ファンにとっては密度の濃~い視察旅行でした。追ってじっくりご報告しますね!
さてさて、4月14日に開通した新東名高速道路。1週間遅れで、21~22日の視察旅行で清水―御殿場間の往復を走りました。道路はスイスイ快適でもサービスエリアは混んでいて、新清水SAでちょこっとトイレ休憩してお店を素通りしただけですが、テレビで紹介されていたこだわりホットドッグやハンバーガー、とても高くて手が出なかった(苦笑)。今は開通御祝儀相場で売れるんでしょうけど、長続きするんだろうか・・・。
新東名については、実は14日開通日に中日新聞特集紙面で、計画から完成までの歩みと、工事技術の高さや環境保護の工夫等をかんたんに書きました。新しい副知事に(やっと)就任された森山誠二さんが、先月、県交通基盤部長在任時に静岡県ニュービジネス協議会総会でお招きしてレクチャーをしていただいた内容も組み合わせて、“東海道の新時代”というくくりでまとめてみました。書きながら実感したのは、東海道がいろんな時代の変革の時に、新しい顔を見せてきた、ということです。
徳川家康が東海道宿駅制度を設けたのは1601年。400年目の節目を迎えた2001年には、東海道四百年祭というイベントがありました。
私は2000年10月に発行された県広報誌『MYしずおか』の東海道特集で、こんな記事を書きました。
東海道のような主要幹線は物流の大動脈と思われやすいが、江戸時代、物資の往来は大量輸送が可能な船舶が主体で、東海道の主役は人と情報。参勤交代で毎年約五万人が公的に往来し、伊勢まいりや秋葉まいりなど信仰を目的とした私的な旅の主要ルートにもなった。
18世紀になると旅の諸施設もいっそう整備されて治安も安定し、庶民が安心して街道を闊歩できるようになり、東海道は観光街道になった。挿絵入りの道中案内記や『東海道中膝栗毛』などが相次いで出版され、庶民は巡礼を名目にし、各地の温泉や名所旧跡を訪ねては心身を癒した。東海道の旅は封建社会のもと、庶民の最大の娯楽だったのである。
一方、街道周辺の住民たちは助郷(大名行列の運搬補助)の仕事から道の清掃まで義務付けられていた。負担は大きいものの、村や町の中央を通っていた道は人々の社交場になっていた。遠州横須賀の城主が江戸の神田祭礼囃子を地元に伝えたり、三ケ日ミカンの発祥が巡礼の際に持ち帰られた紀伊の小みかんの苗木である等など、東西の産業文化が静岡に定着した例も少なくない。県史編纂にかかわった中村羊一郎氏は「東海道は静岡人にとって情報がもたらす活力の蓄積・醸成・発散の晴れ舞台であり、その熱気が伝染するルートだった」と分析する。伊勢おどりや幕末のええじゃないか踊りは、その象徴ともいえる。
21世紀を迎える今、静岡県では東海道の歴史的遺産を活かした活力ある地域づくりを進めている。東海道の主役が人間から電車・自動車に移って久しい。高速交通網や情報インフラが発達し、国道・バイパス・東名・第二東名と道路が多様化し、その役割分担が進めば、旧東海道が人間を主役にした街道として再生する可能性も出てくる。そんな“歴史的実験”ができることこそ、東海道が静岡県にもたらした恩恵といえるだろう。
文末の文節は、歴史好きの素人考えでやや抽象的な表現になってしまいましたが、県広報担当者から珍しく「いい文章でした」とお褒めの言葉?をいただいたことを懐かしく思い出します。12年経て、新東名の初走行が、歴史探訪の旅だったってことも感慨深いですね・・・。
高速交通網が発達するからこそ、歩く東海道の原点的価値を掘り起こす意味が出てくるでしょう。今週、そんな検証をするグッドタイミングな講座があります。
静岡県朝鮮通信使研究会例会
■日時 4月26日(木) 19時~21時
■場所 アイセル21 4階43集会室(アイセルの案内板では「静岡に文化の風を」の会)
■講演『朝鮮通信使の峠越え』 講師/北村欽哉氏(郷土史研究家)
■参加無料
東名がしばしば通行止めになる難所・由比の薩埵峠は、朝鮮通信使の通行のために造られた道でした。また東海道最大の難所・箱根峠を三千人を超える通信使一行が無事越えるために地元がどんな工夫をしたか・・・大変興味深いお話が聴けると思います。研究会では会員を随時募集していますので、興味のある方はぜひお越しください!