昨日の記事の通り、週末の21~22日に、しずおか時の会の研修旅行で東京・江戸のからくり時計視察をしてきました。しずおか時の会は、こちらの記事でも紹介したとおり、徳川家康公がスペイン国王から贈られた洋時計の鐘の音を静岡の街中で復活させようという活動をしています。家康公が亡くなって400年の節目となる2016年の完成を目標に、歴史好きの人々が地道に研鑚を積み重ねているところ。一過性のイベントではなく、このように地に足のついた街づくり活動、とてもイイですね!
今回の視察は郷土史研究家の黒澤脩先生の案内で、東京・江戸に残る今川・徳川ゆかりの地を訪ねました。こういうテーマで東京を歩いたことはなかったので、本当に愉しくて勉強になりました。
最初に訪問したのは、日本銀行金融研究所貨幣博物館。ここには駿府で鋳造された「駿河小判」が保管されています。以下は黒澤先生が用意してくださった視察資料の一文です。
駿府大御所政治、それは「朝廷文化」に対抗して「武家文化」を完成させるための巨大な実験室だった。駿府の政治・経済・文化が江戸に移り、後の江戸の行動様式の基となって江戸幕府を強固なものとした。
「幕藩体制」は駿府で準備され、三代将軍家光の時代に完成した。経済面では全国統一貨幣「駿河小判」が駿府で鋳造され、度量衡は今川時代の制度(吉川守随の秤座)を家康が江戸幕府に採用した。小判はそのまま使える通貨として生まれ、駿府で鋳造されていた。金本位制度や度量衡制度も、駿府での影響がとくに強い。
また以下は貨幣博物館でいただいた資料の一文。
江戸時代は金貨・銀貨・銭貨という3種類の性格の異なる貨幣が並行的に通用する独自の三貨制度がとられた。産金地域の東国を基盤に天下を統一した徳川家康は、最初、金貨を中心にした貨幣制度を導入しようと考え、1枚ずつ数えて使う計数貨幣を発行した。また小額貨幣については、中世から渡来銭などの銅貨(銭貨)が庶民の日常生活で使われ、全国的に定着していた。
一方、銀の産地の多い関西では、重さを計る銀貨(秤量銀貨)が使用されていた。当時、強い経済力を持つ大坂商人たちが中国などの東洋諸国との貿易に銀塊を使ってきた背景もあり、家康の力をもってしても、関西での「銀遣い」の習慣を変えることはできなかった。このように関東の金遣い、関西の銀遣いといわれる慣習が成立し、また銅貨は渡来銭に替わり、幕府が発行した寛永通宝に統一され、庶民に使われた。
金・銀・銭という3種類の貨幣が流通していたということは、たとえば日本という一つの国の中で、円・ドル・ユーロといった独立した貨幣が同時・並行的に使われたようなもの。離れた地域間の商取引や旅行の際には、その時々の相場で貨幣を交換することが不可欠となり、それを仲立ちする存在として両替商が発達した。つまり両替商が現在の外国為替公認銀行のような役割を果たしたわけである。
江戸時代半ばの明和期(18世紀後半)になると、秤量に手間のかからない一定重量の銀貨(五匁銀)が作られ、次いで純銀に近い良質の銀を使い、一定額の金貨とリンクさせた計数銀貨(二朱銀)が作られた。この計数銀貨は、便利なものだということで需要が増え、江戸後期には秤量銀貨の流通量をしのぐまでになった。
金貨とリンクした計数銀貨の二朱銀(二朱銀8枚=16朱と小判1両が交換できた)が作られたことで、銀貨が金貨の補助貨幣として使用されるようになったため、この時期にわが国で金本位制が確立したとする考え方もある。この考え方によると、イギリスの金本位制度の成立(1816年)よりも早いことになる。
世界に先駆けた金本位制度や重要な度量衡制度も、駿府から発信されたものだと思うと、駿府大御所時代はもっと高く、正しく評価されるべきではと実感します。・・・大事な大事なお金の成り立ちについて、あまりにも無知でした。
ちょうど企画展として「版木からみた江戸・明治期の銭譜」というのをやっていて、江戸時代にさまざま編集・出版された貨幣図鑑を観ることができました。当時の印刷・出版技術を知ることも出来て、ライター&エディターの眼から観ても大変興味深かった(5月6日まで開催中)。
貨幣博物館、最近観た博物館の中では飛びきり面白くて、時間を忘れるほど見入ってしまいました。しかも入館無料。おススメです!