杯が乾くまで

鈴木真弓(コピーライター/しずおか地酒研究会)の取材日記

心理劇の醍醐味

2009-04-10 11:23:12 | 映画

 8日は東京国立博物館で国宝阿修羅展を観た後、日比谷で映画を2本観ました。今年のアカデミー賞で作品賞や演技賞にノミネートされた『ダウト』と『フロスト×ニクソン』です。両作品ともブロードウエイの舞台作品として名高い心理劇で、舞台上で俳優同士ががっぷり四つに組んだ迫真の演技バトルを繰り広げるもの。ほとんどが室内での会話劇なので、映画にするのは難しかったと思いますが、優れた脚本と、俳優の至高の演技と、監督&編集者の職人技がそろえば、素晴らしい映像作品になり得るということを、改めて見せつけらました。

 

 

 まず『ダウト~あるカトリック学校で』は、厳格な女校長が、進歩的で生徒に人気のある神父が気に入らず、世間知らずの若い女教師が神父とある生徒の関係を疑わせるような“つげ口”をしたからタイヘン。女校長が確証もないまま神父の追い出しにやっきになる…という物語。監督や俳優が変われば、コメディにも、青春ドラマにもなるような筋書きですが、女校長を演じるのがメリル・ストリープで、神父がフィリップ・シーモア・ホフマンという曲者演技派だけに、ねっとり、ゾーッとするような心理劇に仕上がっています。

 

 「怪しい」「いや間違いない」「許せない」「思い知らせてやる」…と、女校長の疑い(ダウト)がエスカレートする過程は、人が集団生活を送っていれば、またその中に神経質なタイプと大雑把なタイプがいれば、あり得る状況です。

 

 「ちょっと気になって」「そういえば他にも心当たりがあって」「でも証拠がないならあまり表沙汰にしなくても…」「…まあ、そういう事情なら納得かな」「早く忘れましょ」…軽い気持ちでつげ口し、いざというと問題を直視せず、見過ごそうとする若い女教師の心理状態も、日常生活でしばしば体験することです。

 

 疑い(ダウト)を持った時、一人は確証がないのに“確信”してしまって、もう一人は確証がないからと引いてしまう…どちらも自分の中に起こり得る情態だけに、2人の対照的な言動には、心揺さぶられました。若い女教師を演じたエイミー・アダムスという俳優は、ディズニー映画『魔法にかけられて』のお姫様を演じた人なんですよね。メリル・ストリープも、『マンマ・ミーア』では弾けたママを演じていました。演技力の幅をこうもハッキリと示せる作品に巡り合うだけでも、役者として幸運なんだと思います。

 

 

 

 『フロスト×ニクソン』は、老獪なチャンピオン(失職した元大統領)に、成り上がりの挑戦者(テレビ司会者)が挑む、格闘技のような心理劇。スケールはまったく異なりますが、日頃、インタビューの仕事をしている身としては、身につまされるネタのオンパレードで、本当に面白かった!

 

 フロストは、イギリスやオーストラリアの娯楽番組の司会者として知名度はそこそこあるものの、一流扱いされているわけではなく、自身に満足感もなく、番組自身も打ち切り寸前。アメリカ3大ネットワークのニュース番組が実現できずにいる、失職後のニクソンの独占インタビューを実現しようと、ヤッキになる。アメリカではジャーナリストとしての知名度ゼロの彼には、スポンサーがなかなか付かない。まず番組を実現させるために身銭を切るような彼の苦闘は、世界はまったく違いますが、今、酒のドキュメンタリーを自主制作中の無名ライターたる自分の苦闘にも重なるものがありました。

 

 さらに、ただの番組司会者の彼がニクソンの本音に切り込むとしたら、相当のリサーチとネタを集めておかねばならない。政治取材のベテラン記者から軽視されても、必死に食いつく彼の執念に、ライターのはしくれとして大いに共鳴します。

 

 作品では、ニクソンを演じたフランク・アンジェラの演技力が高く評価されました。確かに、「触れてほしくない爆弾(ウォーターゲート事件)」を抱えつつも、ただのテレビ屋相手ならこっちのペースに持って行ける、正当に評価されなかった過去の功績も堂々と語ってやろう、あわよくば政界復帰の足掛かりにしようともくろむ老獪な政治家を、見事に演じ切っています。見た目はニクソンご本人にあまり似てないんですが、ニクソンという人の話し方とかしぐさとか、思考回路が、かくあったであろうとリアルに伝わり、見た目の差異を凌駕していました。

 

 それだけに、絶対の存在感のある巨人を前に、小者フロストが、ときにはビビり、仲間とも衝突し、インタビュー中に相手のペースにのまれて焦る表情も実に説得力があって、そんな中でも最後まであきらめずに挑んだことの価値が、一層リアルに伝わるのです。

 

 

 ちょうど今、ある会社経営者の自伝を書く仕事をしています。彼は業界の中では成功者といわれていますが、数多くの失敗もあり、今は後継者にいかに事業継承すべきかに直面しています。悩める経営者の、成功談に隠された暗部に、いかに切り込めるか…インタビュアーとしてのスキルが問われているわけです。

 …この作品は、この仕事の価値と、持つべき姿勢を改めて示してくれたような気がします。

 2本のアカデミーノミネートの珠玉作品、早く静岡でも公開されるといいのですが。

 


阿修羅像との再会

2009-04-09 11:33:35 | 仏教

 7日はまる一日インタビューの仕事で頭を使い、疲労困憊。リフレッシュしようと、昨日(8日)は東京国立博物館で開催中の『国宝阿修羅展』を観に行きました。ちょうど1年前は『国宝薬師寺展』で日光・月光菩薩像の“完璧な美”を堪能しましたが、今年は仏像界のスーパースター・興福寺の阿修羅像が東京に“降臨”です。

 

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 奈良に行かなければ観られないほとけさまを、身近な博物館で間近に観られるというのは、ほとけさまの教えを広く伝える機会になるし、美術ファンにとっても貴重なこと(実際のところ、薬師寺も興福寺も、建て替えや復元や耐震工事等の費用をねん出するため、人気のほとけさまに一肌脱いでいただこうという目的もあるようですが)。…にしても、今回の阿修羅展は6月7日までの長期開催なのに、昨日は平日にもかかわらず入館まで40~50分待ちという大盛況。お寺の事情とか何とか言う以前に、この人気とは何だろうと考えてしまいました。

 

 

 さて、興福寺の阿修羅像。初めて観たのは中学の修学旅行だったと思います。近代的な宝物収蔵庫(国宝館)に、多くの寺宝や仏像とともに展示されていた中で、端正な少年のおもざしをたたえた阿修羅は、思春期の女子が一番リアルで親しみやすく感じるほとけさまでした。

 

 ちょうどその当時、漫画週刊誌(少年チャンピオンだったかな?)に萩尾望都さんが阿修羅を主人公にした『百億の昼と千億の夜』を連載していて、これにドンピシャはまってしまって、自分でもユダやブッダを主人公にした創作漫画を描いて出版社に応募し、賞をもらったりしていました。漫画家への夢は途中で頓挫しましたが、それはともかく、10代の多感な時期に出会った阿修羅と、萩尾望都のあしゅらおうは、私の仏像好きの起点になりました。

 

 それ以降、さまざまな仏像に出会いましたが、そのときの自分の年齢や経験知と重なって、観るたびに違うお顔に見えたりして、仏像って自分の心の鏡みたいだなぁとつくづく思います。

 今回のように、特別にしつらえたステージで、スポットライトをあびた阿修羅は、今までとはまるで違う仏像に見えました。祈りや、心の鏡になる対象ではなくて、完全に“VIPスター”。しかも、上野にパンダやモナリザが初来日したときのように、押すな押すなのギャラリーの中、警備員が「立ち止まらないで~」と絶叫するような空間。なんだか、「ごめんなさい、騒がしくて」と阿修羅に謝りたい気分でした。

 

 

Imgp0798  興福寺の僧侶による講座を聴講したところ、阿修羅像の東京出展は今回で2度目だそうです。1度目は昭和27年2月、日本橋三越で開かれた『奈良春日興福寺国宝展』で、3週間足らずの会期中、50万人が押し寄せたそうです。購入した図録の中にも、その時の裏話が紹介されていました。昭和48年の熊本大洋デパートの火災以前は、百貨店での国宝・重文の展覧会に規制がなく、今ほど美術館や博物館の数がなかった当時は、百貨店が美術鑑賞の場として重要だったとか。

 

 それでも昭和27年当時、国宝の百貨店展示は史上初の試みで、しかも奈良からの長距離輸送には多くのリスクがありました。奈良から汐留まで東海道線で4日間がかり。美術品の輸送技術が確立されていなかったなかで、博物館スタッフと日本通運の輸送チームの苦労は想像を超えるものがあったと思います。汐留から日本橋三越までは武装警官が立ち会って、警視庁の特別手配によりノンストップで入ったそうです。昨日のギャラリーの喧騒なんて、昭和27年当時に比べたら「たいしたことないよ」と阿修羅も笑っているかもしれません。

 

 お寺巡りや観光旅行などを愉しむゆとりがなく、戦後の復興に汗する東京の人々の目の前に現れた阿修羅像は、「荒野に降りてきた一条の希望の光だったのではないでしょうか」と、図録の筆者も紹介しています。

 

 今も、状況は違えども、日本の社会は「荒野」に似た状態で、人々は60年前と同じように、阿修羅像にどこか、希望の光を求めているのかもしれません。

 

 

 私的には、ふだん観られない後ろ姿や左右の表情が360℃しっかり拝めて、「この角度のこの表情がいいなぁ」なんて、新しい発見や感動を得ることができ、美術鑑賞者的には並んで観た甲斐はありました。

・・・ただ、思春期の頃に初めて出会ったときのまっさらな感動と、30年経ってこうした形で再会して得たものとは、ちょっと質が違うかも。そんな、あまたの人々の複雑な感情を一身に受け止め、1300年存在し続ける仏像というのは、やはり、ただの彫像品ではありません。

 

 興福寺は、阿修羅像を筆頭にした天平仏の宝庫ですが、何度か火災に遭って、そのつど多くの人々が復興に尽力しました。鎌倉期の慶派仏師も大いに活躍し、私の好きな北円堂にも運慶一門の名品がずらり。今回の展覧会でも運慶作の釈迦如来像頭部や四天王像が目の前で迫力満点に堪能できます。阿修羅の会場はムチャクチャ混んでいましたが、鎌倉仏の展示場は比較的空いていました。

 天平仏が癒しを与えるとしたら、鎌倉仏はエネルギーを注入してくれると思います。これから鑑賞に行かれる方は、ぜひぜひ両会場合わせてご覧くださいね。


陶芸家と酒匠のお花見会

2009-04-05 20:08:59 | しずおか地酒研究会

 桜の見ごろピークを迎えた週末、お天気にやきもきさせられましたが、各地のお花見スポットは大いに賑わったことと思います。

Imgp0781  私は今日(5日)、友人を誘って伊豆の国市三福にある福厳院座禅堂・無畏庵のお花見の会に行ってきました。

 福厳院は、陶芸家&料理人の安陪均さんの実家で、無畏庵というのはかやぶき屋根の風情ある寺の母屋。ふだんはここで一日一組の懐石料理をふるまっています。

 

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 その安陪さんのもとへ、4年前、静岡県の女性酒匠第一号として知られる長沢絹子さんが嫁がれました。長沢さんといえば、沼津市で静岡吟醸を呑ませる名店「一時来(ひととき)」の主人として、地酒ファンにはおなじみ。私のことも、妹のように可愛がってくれて、長沢さんのところへ寄りたくて、沼津に取材があるときはわざわざ電車にし、終電に間に合わなくて「ムーンライトながら」にお世話になったこともしばしば…。わがしずおか地酒研究会でも再三お世話になり、「一時来」の閉店の報を聞いた時は、沼津で一杯やる場所がなくなってしまったことをとても残念に思いました。

 

 それでも女手ひとつで店と子育てを切り盛りし、息子たちを成人させ、やっとつかんだ第二の人生の門出。しかも尊敬する陶芸家&料理人に見染められての再婚です。私もわがことのように嬉しくなり、しずおか地酒研究会でささやかなお祝いの会をさせてもらいました。このとき初めてお会いした安陪さんは、長沢さんのことを「絹ちゃん、絹ちゃん」と呼び、御両人とも幼なじみ同士のように自然にじゃれ合っていて(…失礼!)、熟年同士の再婚が、こんなに初々しいのかと目を当てられっぱなしでした。

 今年2月のしずおか地酒サロン英君酒造見学会に、久しぶりにお2人で参加されたときも、まるで新婚さん状態(笑)。お酒があまり強くない安陪さんは、奥さまの膝枕で気持ちよさそうにうたた寝してました。

 

 

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 無畏庵を訪ねるのは2回目です。庵の裏山に登り窯「中尾窯」があり、一度窯入れの時に遊びにうかがったことがありました。安陪さんのお仲間やお弟子さんには、有名人も多くて、「〇〇〇〇さん(日本が世界に誇る某プロスポーツ選手)が焼いたものだよ」という器を触らせてもらったりしました。

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 陶芸家が、自作の器に自作の料理を盛り付けて、もてなしてくれるなんて、ふだんはなかなか経験できません。しかも安陪さんの料理は陶芸家の趣味の領域ではなく、若かりし頃、大阪の「吉兆」で修業した本格派。

 さらに奥さまは静岡吟醸の名酒匠。一時来で使用していた特注の日本酒冷蔵棚は、裏庭の蔵に設置され、カウンターも取り付けてありました。ここで酒 友を招いて即席の「復活・一時来」を開くこともあるそうです。

 

 

 今日は、座禅堂の大広間でエレキバンドのライブも開かれて、大勢の安陪&長沢ファンでにぎわいました。もっともエレキの音色はちょっぴり頭が痛くて、私たちは母屋の無畏庵に陣取って、ひたすら食べて呑んで、同じくエレキサウンドから逃れてきた方々と、芸術談義・酒談議に花を咲かせました。

 

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 料理は、中伊豆産のイワナの燻製(過去ブログで紹介した柿島養鱒さん謹製)、米こうじをまぶしたイワナとサワラのかぶら寿司、ふきのとう、アワビ椎茸煮、木の芽風味の厚焼卵、牛スジ田楽、有機野菜マリネ、春菜寿司、玄米雑穀むすび、けんちん汁等などが次々に並びます。Imgp0789_2

 

 庭の山桜の大木は、残念ながら花がすでに散ってしまっていましたが、こんなに素敵なお花見料理はめったに味わえないでしょう。

 

 

Imgp0784  酒は、絹子さんが高嶋酒造から取り寄せた白隠正宗の無ろ過生原酒、少汲水純米、誉富士純米原酒、山廃純米、純米吟醸等など。いろんな銘柄をあれこれ並べず、白隠正宗だけに絞って、造りのタイプによって料理と合わせる楽しみを演出するあたり、さすが酒匠です。

 

 

 

 安陪さんの作品は、昨年2月、三島広小路で絹子さんが開いたアンティークショップ『絹路土(シルクロード)』でいつでも手に取ることができます。…ここで一時来みたいに一杯呑めたら最高なんだけどな。

◆絹路土(シルクロード) 三島市芝本町7-2 TEL 055-971-2477

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朝鮮の茶母

2009-04-02 10:56:02 | 朝鮮通信使

 昨日(1日)は、東京の敬愛する酒徒である共同通信のNさんから「うちの主催事業で朝鮮通信使の友情ウォークというのがスタートしたよ」というメールが届き、静岡新聞夕刊にその記事を見つけました。…嬉しいですね、日本酒愛好家仲間が、酒とは関係のない朝鮮通信使のことを気にかけてくれて!

 

 ちょうどテレビではサッカーW杯アジア最終予選韓国―北朝鮮戦を生中継していました。野球の日韓戦同様、韓国が隣国と戦うスポーツってやたら熱いですよね。とくにサッカーのように敵味方が入り乱れて全身ガチンコぶつかる肉体ゲームの南北対決だとなおさら、観ていて熱くなります。日本代表の試合じゃないから傍観者として安心?して楽しめるし、改めてサッカーって面白いスポーツだなぁとつくづく実感。…そして今更ながら、韓国という国の不思議な魅力を思い知らされます。

 

 

 

2009040208540000  明日(3日)から6月28日まで、私の好きな京都高麗美術館で春の企画展『きらめく朝鮮の技~螺鈿漆器と象嵌青磁』が始まります。

 その案内と一緒に送られてきた美術館官報に、興味深い一文が載っていました。韓国茶学会顧問の金明培氏が寄稿された『朝鮮の茶母について』という論文です。

 

 

 みなさんは「茶母」という言葉、聞いたことありますか? 私は韓流ドラマ(歴史もの)を観たことがないので知りませんでしたが、朝鮮王朝時代、各官庁に所属し、接賓茶礼を担当していた官婢のことで、今風にいえば、お役所お抱えの日本茶インストラクターのような存在かしら。ただしこの時代はお茶は薬として珍重されていたので、「茶母」になった女性の多くは医学院出身でした。

 

 金氏によると、「毎月女医生徒の学力を試験で考査し、成績の優れた生徒三人には褒賞として米を賜給、成績不良な生徒は惠民局(貧民を無料で治療し鍼術を教えた官庁)付けの茶母に格下げして、一定期間ののちに再試験を行った」「茶母には惠民局や、咸鏡道観察使に随行した男茶母をはじめ、巷の茶店で雀舌茶湯を売る茶母など数々あった。奉常寺(祭礼や諡号に関することを司った官庁)にも茶母がおり、茶礼を挙行した」そうです。本人の能力次第で、出世する茶母と、そうでない茶母がいたんですね。

 

 高官に仕えた茶母の中には、乳母と同じような立場で政治に介入したり、捕盗庁(警察庁)に所属し、犯罪捜査で活躍した者もいたそうです。なんでも捕盗庁で茶母を選抜するときは、身長151.1cm以上で、米5斗を軽々素早く持ち上げられ、どぶろくを沙鉢3杯は一気飲みできる、気が強くて男性的な女子を採用したとか。

 茶母は男性と違って他人の家に比較的楽に出入りができ、主人に隠れてその家の召使や女中を手なずけることにも長けていたので、内偵捜査にうってつけ。裳(チマ)の中に60cmぐらいの鉄製の武器「五羅・捕縄」を隠し持ち、犯人の家に突撃した茶母もいたそうです。…こういうの、ドラマにうってつけじゃないですか!

 

 

 第11回朝鮮通信使の書記官だった金仁謙が記した『日東壮遊歌』には、一行がソウルを出発して慶尚道醴泉郡の客舎に到着したとき、この郡の守庁茶母が美しかったこと、一行の武官たちから醴泉に着いたら一等美女を選べと言いつけられ、ふだんからソリの合わない武官たちに悪戯半分に色香のない茶母を選び与えて失望させた…なんて記述もあります。

 

 王朝が倒れ、文明開化した頃には、宮殿から解放された宮女たちが飲茶の風習を民間に広め、ソウルには営業用の茶房(喫茶店)がたくさんできたそうです。中には色っぽい衣裳で客を呼び込んで雀舌茶湯を売る者がいたり、一方で寺の門前の茶房で風味絶佳な茶を供した母娘を、高僧が寺に招いて茶を点てさせたなんて例もありました。

 いずれにしても、茶母というのは、特殊な時代の中でも、女性が頭脳や体力やときには容姿など自らのスキルを存分に活かし、たくましく生きた証しの一つなんでしょう。

 

 

 ごく限られた特殊な例だとは思いますが、朝鮮半島には婢子階級からも試験を受け、資格を得るチャンスがあり、職業選択の機会もあった…それを裏付けるこういう話を読むと、「日本だけには負けられない」「北朝鮮には負けるわけにいかない」という確かな目標のもと、闘志むき出しでガンガン攻めまくる韓国チームのエネルギーが、歴史の中に連綿と培われていたんだなぁと分かります。

 

 WBC決勝で日本に敗れた韓国の国民総意を背負って、世界フィギュアのリンクに上がったキム・ヨナ選手を観ると、たくましい茶母的DNAを感じずにはいられませんでした。