ななきたのご隠居~野崎 幸治

千葉市美浜区で行政書士をしています。
地元では「ななきた(磯辺7丁目北自治会)のご隠居」と言われています。

東海道(天竜二俣駅)

2019年01月30日 | 旅行

天浜線の基地である天竜二俣駅に来ました。

いくつになってもこういう風景にはワクワクします。好きなことは一生変わらないものですね。

TH2100形、TH3501形など賑やかです。

見学ツアーが毎日行われているので近くで風や音の響きを聴いてみましょう。

踏切を渡ってまずは転車台のある扇型車庫のある場所に案内されました。

右側のTH2100形を実際に動かしてくれます。

ゲージをあわせて転車台に乗り上げる場面ではさらにワクワクします。

車輌がぜんぶ転車台に乗ると回転を始め駅のほうの線路に連結します。

昔は蒸気機関車がここで活躍していたんですよね。

つぎに鉄道資料館に入ってみました。

昔のむかしの空襲警報発令のパネル。平和の時代にこうしてのんびり列車を見られてよかったなと思います。

本日案内してくれたスタッフの女性です。

昨年11月にBS3チャンネルで六角精二さんの呑み鉄の旅ではもっと年配の女性が案内していましたね聞くと

「あの方は主任さんです。私はまだかけだしです」とのことでした。

浴場

昔は蒸気機関車を運転していたので身体も汚れたでしょうね。

運転区休息所、運転区事務所など。ちょっと炭鉱の町のような感じもします。

後ろに見えるのは高架貯水槽。蒸気機関車の給水をしていた時の名残でしょうか。

約40分の施設見学ですがめちゃくちゃ楽しかった。

まだ物足りない人はレールの上を実際に動いてみます。

ペダルをこぐと、線路の上を走るミニ電車です。

時間があったので少し町を歩いてみました。

 BS3チャンネルの火曜日夜8時からの世界ふれあい街歩きという番組が大好きです。

村井秀清さんのテーマソングにのって町角から町角へ、やがて夕陽がかがやくころ川沿いとか丘陵に出るのが素晴らしい。

外国が多いですが(昨日は那覇でしたね)以前に秩父が放送されていた時、ご隠居が歩いている時と全く違った感性の撮影にびっくりしました。

自分の目で見ている景色だとあまり感動しないんですよね。編集が上手なんですかね。

天竜川の見える場所まで歩きました。飛竜大橋です。

さて駅に戻り帰途につきましょう。

列車で天竜川を渡ります。

浜名湖佐久米駅ではかつてプラットホームでユリカモメの餌付けをしていたそうですが(2月頃まで)今は禁止しているという噂でした。

しかしこんな状況です。

終点新所原駅です。

六角精二さんもここのうなぎを食べていました。

今回の静岡の旅はこれで終わりです。

 

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東海道(遠州森町)

2019年01月27日 | 旅行

東海道を少し離れて天竜浜名湖線に乗って旅しました。

天竜浜名湖鉄道は掛川駅~新所原駅間67.7km、戦時中東海道線が爆撃を受けた時のう回路として出来ました。

東海道線の掛川駅のわきにこじんまりと駅がありました。

イオンの旗艦店の近くで昔からやっていて繁昌している八百屋さんみたいな感じです。もっともお客の数は少なそうです。

さあ出発!車両も賑やかです。右側の列車に乗車。

遠州森駅に到着です。上りと交換です。みんな一両編成です。

森の石松の育った所です。(ガッツ石松ではない)

早速降りてみましょう。

駅を出ると駅長さんがいたのでレンタサイクルを借りようかと思いましたが坂が多くて大変だから時間がないならタクシーで行った方がいいよと言われました。

役場に行くと観光案内人もいるし資料も沢山あるよとのことでそこまで歩きました。

平成24年より全国京都会議に加盟して遠州の小京都町づくりが進められているそうです。

わが町は昔からの建造物が多いから〇〇小京都と宣伝しようなどとは簡単にはできないみたいですね。

森町役場。

ロビーを入るとすぐにポットとティバッグの遠州森の茶が誰でも飲めるようにおいてありました。

さすがです。

時間もないのでとりあえず石松の墓にやって来ました。

広沢虎造の浪曲でも石松の殺される場面なんかは盛り上がります。

石松は次郎長の代参として金毘羅詣でをした帰り都田(みやこだ)の常吉家によったところ御幸山鎌太郎(みゆきやまかまたろう)

からの預り金を、常吉の兄、吉兵衛に一晩貸すことになる。

その返済を迫ったところ吉兵衛兄弟らによって1860年6月1日夜閻魔堂(浜松市北区道本)近くで殺されました。

石松が助けを求めて知り合いの所に行く場面がいい。

目が片方で、大酒のみ、喧嘩好きなどはあとから人気者と仕立てたらしい。

次は小國神社にやって来ました。驚くほど広大なのでびっくりしました。

この駐車場から遥か奥に本殿が少し見えます。

茶店が何軒かありました。

1450年の長い歴史がありますがぜんぜん知らなかったとタクシーの運転手さんに言ったらお正月なんかはすごい人だよとの事。

地方、地方には有名な神社仏閣が沢山あるんですね。

本殿

参道には老杉が繁り、静かな池があり「古代の森」といった感じです。

町内に戻りました。

あっちこっちに城下町にみられる民家があります。

毎年8月夏の夜には夕暮れから9時ごろまで和紙張りの行灯をともしふれあいの輪をひろげる「森ほたる」

パンフレットで見ると暗くなるとこの古い倉庫も魅惑的に見えます。

何処に行ってもシャッター通りはありますね。

森町に車でいくのでしたら新東名の遠州森町「スマートIC]が便利です。

時間があれば歴史の散歩道が整備され、桜の咲く頃楽しく歩けそうです。

 

 

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東海道(掛川宿)

2019年01月22日 | 旅行

寒い日が続いていますがお元気でしょうか。

ご隠居はインフルエンザになりました。医者に予防注射をしたのにどうしてですかねと訊いたら「予防接種しても注意しないと罹るよ」

ただし病状は軽くなるそうで熱も38℃ぐらいだったし節々も痛くなかった。

ついでにパソコンが故障したが風邪をうつすと悪いのですぐに友人に修理を頼めなかった。

更には大学からの友人で若い時奄美大島なんかにも一緒に旅行したA君がすい臓がんで19日に亡くなった。

昨年暮れに見舞いに行った時はレベル5で手術もできないんだと寂しそうだったけれどこれから人生を楽しもうというときに可哀相です。

今年はしょっぱなからいろいろあります。

掛川駅。

とりあえずパソコンも直ったので東海道の続きを始めましょう。

みんなには「お前はいつも能天気だから長生きするよ」と言われているので期待の沿うようにがんばります。

陽も少し傾きかけてきたのでとりあえず掛川城に行きましょう。

舗道もゆったりとってあり気持ちの良い城下町です。

お堀に架けてある橋を渡ればもうお城です。

天守閣が見えてきました。

平成6年に140年ぶりに木造で再建されました。

奥の細道でも廻った白河小峰城や白石城も木造でそれぞれこじんまりしてますが好感が持てます。

長い坂を上って行きます。

同じ写真でもプロだとこのようになる。ご隠居はまだまだ未熟モン。

霧吹き井戸

徳川家康が今川氏真が立てこもる掛川城を攻めました。

この時井戸から立ち込めた霧が城を包み家康の攻撃から城を守ったという伝説があります。

やっと天守閣の入り口に付きました。春は桜が綺麗そうです。

観光協会で販売している絵葉書を買いました。ご隠居のつまらない写真より見ごたえがあります。

桜の咲く頃に来たいですね。

1590年豊臣秀吉が天下をとり、家康を関東に追っ払って旧領には秀吉配下の大名を置きました。

この掛川城には奥さんが全国規模で有名な山内一豊が入りました。

彼はこの後ご存知のように高知県の方に転勤になりました。大名も大変でしたね。

最上階に登ると町並みが良く見えます。

新幹線が走っています。秀吉も家康も一豊もいなくなって400年ぐらい?

48億年の地球の歴史から見ればわずかですが世の中がこんなに変わってしまいます。

現在世の中で認められていなくても100年もたてばすごいことになっているかもしれません。

頑張りましょうね。ご隠居のブログも100年もたつと有名になっているかもしれません。

お城を下ってこれから向かう掛川城御殿が見えています。

市内からの眺めから90度まわすと露出がずいぶん変わってしまいました。

掛川城御殿は二の丸に建てられた江戸時代後期の建物で現存する江戸時代後期の建物で、

京都二条城など全国でも四か所しかないそうです。

ちなみに御殿とは

儀式、公式対面などの藩の公的式典の場、藩主の公邸、藩内の政務をつかさどる役所としての三つの機能を持っていました。

国の重要文化財

今度は御殿からの天守閣。

外に出て少し街を歩きましょう。

この二の丸茶室からの天守閣が定番でどこの旅行雑誌にも載っています。

こんな風景がいいですよね。

大日本報徳社

報徳図書館

二宮尊徳が唱えた報徳の教えを実践して全国に広める報徳運動の拠点です。

また3年に一度の掛川大祭も有名です。

龍尾神社のお神輿の渡御が行われ全国でも類を見ない大獅子の壮麗な舞や大余興が繰り広げられるそうです。

今年がちょうど大祭の年だったそうで残念でした。

 

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東海道(島田宿)

2019年01月13日 | 旅行

蓬莱橋から大井川沿いにとぼとぼ歩いて島田宿、大井川川越遺跡にやって来ました。

近代的な橋の上の丘陵部分に「茶」の文字が見えます。

島田市博物館に入ってみましょう。

島田宿は日本橋から約203km、23番目の宿場です。

「箱根八里はうまでも越すが越すに越されぬ大井川」

川越しや川留めにまつわる物語がたくさん生まれました。

徳川家康が東海道に宿駅伝馬の制度を設けて街道整備を行ったが大きな河川にはほとんど橋が架けられませんでした。

特に大井川は渡船も禁止され、不慣れな旅人は自分で渡れないので川越しの手助けが必要になり川会所が出来ました。

何処の博物館い行ってもこんな場面がありますね。

大井川を渡るには川札を川会所で買い、人足に手渡しして人の肩や蓮台に乗って川を越しました。

この川札の値段は毎朝、待川越しが水の深さと川幅を測って定めたそうです。

肩車・・・川越人足の肩にまたがって越した。川札は一枚。常水以上は補助者がつくので川札は合計二枚必要。

大高欄蓮台は担ぎ手だけでも16人が必要。川札52枚が必要。

着物の女性が肩車されるのも嫌だろうし大名行列なんかでは莫大な費用が掛かって大変だったでしょうね。

川越え人足の数は金谷・島田合わせてそれぞれ350人と定められていてお金が回って地元は繁昌したのでしょうが経済的価値はないですよね。

島田市博物館分館。

芭蕉の俳句がありました。

「馬方は しらじ時雨の 大井川」 「さみだれの 空吹きおとせ 大井川」

芭蕉も大井川を肩車してもらって渡ったのでしょうか。

難しい話は別にしてのんびりしていていいですよね。

弥次さん喜多さんも川越賃を値切って恥をかいたりします。

二人も川越しの値段を交渉して、一歩蓮台に乗り込んで四囲を眺めやると、大井川の濁水は逆流奔流し、

逆巻く渦に、目もくらむばかりで、命の瀬戸もこの川かぎりと思うほどの恐ろしさだ。

まさに、東海道第一の大河、水勢は矢より早く、岩石多く流れきて、渡るになやむ難所であるが、

ほどもなく向こう岸に着き、蓮台を降りた時のうれしさは、言う言葉もなく安堵感が湧きあがる。

もうすぐ島田駅です。

ご隠居は電車であっという間に大井川を越して掛川市に向かいます。

なお市内の大井神社の大祭は3年ごとに行われる帯祭りとして有名です。10月中旬に開かれます。

 

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東海道(島田・蓬莱橋)

2019年01月06日 | 旅行

今年もボチボチ事情がゆるせば旅に出かけたいものです。

奥の細道の方は寒くて雪もすごそうなので春までお休みです。

昨年藤枝まで出かけている東海道を歩きましょうか。

といっても最近友人達が定年になって東海道を歩いて京都まで行ったという人が何人かいますがご隠居は新幹線、バスなど使って要所だけ見て回るだけです。

そんなに根性のない人なのです。分かっているって!そうですか。

今回は島田宿です。

新幹線が止まるわけでもないのですが島田駅はすごく綺麗です。

静岡方面から来る列車はここで折り返すのが多いようです。

ただ駅前を歩いていても人が少なく静かです。

蓬莱橋には反対側の出口から20分ぐらいです。

蓬莱橋

全長897.4m「世界一長い木造歩道橋」として平成9年12月に英国ギネス社より認定されました。

橋の下から富士山を写すなどと言う芸当はちょこっと立ち寄ったものにはできませんね。

大井川はおとなしそうですが弥次さん喜多さんの頃は激流だったのかな?

いまでも台風でもくればすごいのでしょうか?

1869年7月、最後の将軍徳川慶喜を護衛してきた幕臣たちが大井川の右岸、初倉にある牧の原を開拓してお茶造りを始めました。

大変な苦労の連続のなかお茶づくりが営まれました。慶喜公は最新の自転車に乗って(現在だったらフェラーリという感じですか)悠々と遊んでいたという話もあります。お坊ちゃん育ちはいつの世も変わりませんよね。

やがて生活が安定してきて左岸にある島田に買い物に出かけたりするのには大井川を船で渡っていました。

その後1879年1月に蓬莱橋が完成しました。大井川の増水のたびに被害を出したので橋脚部分だけコンクリート製になりました。

寒かったけれど渡って反対側からみた風景です。大きなショッピングセンターが見えます。

島田の人はこの辺に買い物に来ているのかな?

下からも一枚撮ってみました。やっぱり長いですね。

蓬莱橋897・4茶屋(やくなしちゃや)

平成30年3月20にオープン。蓬莱橋が897.4mであり「厄なし」と厄払いのご利益スポットになっていることから由来しています。

寒いので中に入って団子でも食べようかと思いました。

川越しの絵がいいですね。

団子と思ったが極上の島田茶と黒大奴というお菓子のセットを進められたので食したところがすごく美味しかった。

次は大井川の川越しのあった島田宿跡に行ってみました。

 

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僕の細道旅行譚(寒風山)

2018年11月29日 | 旅行

秋田の旅も終わりに近づいてきました。

気持ちの良い海からの風を感じながら南に下ります。

赤神神社五社堂への登山口です。

鬼が築き上げたという999段の石段を登ると見えてくるそうです。

999段ここで上るのはきついので止めました。

JR、大人の休日倶楽部男鹿編で吉永小百合さんをバックに撮影されています。

次はゴジラ岩です。

自然もいい形に作りますね。

半島の南西、潮瀬崎にある岩で、夕焼けになると背景の赤く染まった空にゴジラが火を吹いているシルエットが浮かぶ上がるそうです。

男鹿の観光パンフレットの写真です。

やっぱりプロはうまく撮りますね。

 

やっと寒風山が見えてきました。

寒風山はおよそ2万年前よりの成層火山(円錐火山)です。安山岩の溶岩で形成され3個の火口が見られます。

それより最近はパラグライダーのメッカだそうです。

大潟村付近です。

ご隠居のつまらない文章より司馬遼太郎さんの街道をゆくからです。

狂言ふうにいえば

これは、はるか遠国方の旅の者でござる。寒風山に登らばやと思い立ってござる。

ということになるだろう。

標高354.7mといった小さな山にすぎないが、平地に立ちはだかって、元気よく空を画している。

寒げでもある。

木という衣装をまとっておらず、日本海の荒波をうけてふるえている。

この山の大いなる長所は、東をむいたときに感じる。

八郎潟の美田が、眼下に見下ろせるのである。

古墳の被葬者である土地の大王が生きていた時代なら、ここは呪術的な国見の行事をしたにちがいない。

 

さてあさってからは12月、師走ですね。

2018年の11か月間はどんな生きざまだったでしょうか。

何はともあれ風邪などひかぬよう規則正しい生活をしてくださいね。

今年の奥の細道の足跡を訪ねる旅はこれでおしまいです。

来年、ご隠居が元気で生きていたら桜の咲く頃から新潟、金沢、福井そして岐阜まで一気に南下したいと思っています。

 

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僕の細道旅行譚(一ノ目潟)

2018年11月24日 | 旅行

真山神社から八望台、そして西海岸に向かいます。

八望台の展望台に上がって来ました。遠くに寒風山が見えます。夕陽が素晴らしいそうです。

二ノ目潟が見えます。

一の目潟、三ノ目潟と共に「マール」という火山でマグマが接触して起こる水蒸気爆発によってできる火口で東北では「男鹿目潟火山群」が唯一です。

八望台から少し下ったところに一ノ目潟がみえます。

一の目潟は地球の深層部から噴き出た岩石みられる火山としても有名で世界的にも注目されています。国の天然記念物です。

八橋油田の所でも書きましたが狭い日本ですがいろいろな地形があり多種の鉱物資源がわずかながら出ます。楽しいですね。

日本で世界中の型の火山が見られます。

ご隠居は若い頃から地理とか地学が大好きで学校の先生になって夏休みにあっちこっち出かけるのが夢でした。

もちろん夢はかないません。紆余曲折の人生で結局ブラタモリのような大物にはなれませんでした。

戸賀湾です。

コニーデ式火山(円錐火山)溶岩と火山灰からなり整然とした円錐形・・・もちろん富士山です。

トロイデ式火山(釣鐘状火山)酸性溶岩からなり釣鐘を伏せたような形・・大山、箱根の駒ヶ岳

日本はコニーデ式とトロイデ式火山が多い。

アスピーテ式火山(楯状火山)塩基性溶岩からなり緩やかに傾いている・・月山

ペジオニーテ式火山(溶岩台地)溶岩が一面に氾濫したもの・・・香川県の屋島

ベロニーテ式火山(岩塔式火山)溶岩からなる部分が特に高く鋭くそびえる・・・昭和新山

ホマーテ式火山(臼状火山)溶岩、火山灰からなり高さのわりに火口の直径が大きい・・・伊豆七島の神津島

そしてマール(爆裂火口)

火口壁の一部が陥没して失われ広い窪地が出来たものをカルデラで水をたたえたものがカルデラ湖です。

十和田湖とか支笏湖などカルデラは火山の名称ではありません。

日本を旅行していても世界中にある火山を見られるなんて楽しいですよね。

規模は小さいですけれどね。

戸賀湾に降りてきました。いい天気ですが風が強い。

地震の時の慰霊碑があります。

その先に男鹿水族館があります。昨年鶴岡のクラゲの水族館を見学したので今回は省略です。

戸賀湾周遊コースという観光船が1000円で安いので乗ってみることにしました。

おいおい、遊覧船と言うからには白い船体の瀟洒な感じの船じゃないいですか?

おじさんが一人案内嬢もいません。

二人のお客が降りて来ました。「すごく揺れたよ」

大丈夫かよ?

今日は波が荒いからコースーを変えるよ。

あのぉ あまり期待していないので適当に簡単なコースでいいです。

大丈夫だよ。いままで転覆したことなんかないんだから。ほら釣りしている人だっているよ。

なんだか港に戻ってきた時にはホッとした気分でした。

時間も押してきました。これから寒風山に向かいます。

 

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僕の細道旅行譚(男鹿真山伝承館)

2018年11月18日 | 旅行

男鹿温泉からなまはげ館の方にやって来ました。

伝承館の方も一緒になっているので入ってみましょう。

男鹿半島各地で実際に使われていた110体の多種多様なナマハゲ面が勢ぞろいしています。

迫力はありますがやっぱり展示物だなと言う感じもします。

ちょっと素朴な感じもします。

次は伝承館の方に行ってみましょう。

所要時間は約20分、だいたい30分おきに公演してますので待ちません。

ナマハゲ行事はTVでもニュースになるように毎年大晦日の夜に男鹿半島全域で行われています。

悪事に訓戒を与え、豊作、豊漁、吉事もたらす来訪神です。

昭和53年に「男鹿のナマハゲ」で国重要無形文化財に指定、こんどユネスコの無形文化遺産に登録されるみたいですね。

 ナマハゲの語源は「火斑(ナモミ)を剥ぐ(はぐ)」と言う言葉がなまったものと伝えられています。ナモミとは炉辺にかじりついていると手足にできる火型のこと。

それをはぎ取って怠け者を戒めるのがナマハゲです。現在でも寒いからといってストーブにかじりついていると運動不足になりますね。

先ず家に上がるとすぐに四股(しこ)を7回ふむ。これで初めて家の中に入ることができる。

「ナマケモノの匂いがする」「ナマケモノはいないか!」などと荒々しい声をあげて畳を強く踏みしめながら歩き回る。

そしてその家の主人がナマハゲをなだめて丁寧にもてなし御膳を添えます。

ナマハゲは添えられた御膳に座る前に5回四股を踏む。ウオーウオーと唸っているナマハゲに主人は酒肴を進める。

主人とナマハゲの間で様々な問答が交された後、ナマハゲは来年も豊作であるように祈願して、立ち上がり3回四股を踏みまた歩き回る。

家に上がってすぐ7回、御膳に着く前に5回、立ち上がる時に3回、「七五三」という男鹿真山のナマハゲ独自のしきたりだそうです。

悪い子供を懲らしめるというよりは子供たちが病気や怪我をしないように、そして幸福になるように願掛けするのです。

「おしゃべりばあさんはいねがぁー、懲らしめてやるー」とみんなの処を廻って歩くんだと写真教室のご婦人達に言ったら

「またいい加減なことばかりいって」と怒られて、もっとまともな写真撮って来なさいよと言われました。

更に奥にある真山神社に来ました。

景行天皇の時代、かなり古い。

薬師如来座像。南北朝時代の作品。

「丸木舟」

一本の杉の木をくりぬいた作です。

海上安全お祈りをこめてつくられ海にかかわる仕事をしている人にパワーがもらえる。

しかし神社全体にものすごいパワーがみなぎっているような気がします。

なまはげ柴灯(せど)まつり

2月第二金・土・日

会場の真山神社境内だは柴灯火がたかれ、なまはげ乱舞、なまはげ太鼓、なまはげ下山など勇壮で幻想的な雰囲気を体験できるそうです。

日本経済新聞社の「たずねてみたい冬の祭り」の上位に入っているそうです。

雪の降る男鹿半島の夜、それだけでも神秘的な感じがします。

男鹿半島を楽しみました。

 

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僕の細道旅行譚(男鹿温泉)

2018年11月15日 | 旅行

男鹿半島の付け根、船越にやって来ました。

男鹿と言えばやっぱりナマハゲですよね。

公園のわきに男鹿総合観光案内所があり旅館を紹介してもらいました。親切でした。

泊まる場所も決まったので夕陽のきれいな入道崎に向かいます。

まだ日没には少し早いようでした。

入道崎の灯台は工事中みたいでした。

日本の灯台50選に選ばれていて北緯40度、夕日の沈む場所として人気があるそうです。

緑の台地と紺碧の海、青空の絶妙なコントラストが売り物だそうです。

「菅江真澄の道」というハイキングコースがあります。

男鹿半島では菅江真澄の話を良くききます。

江戸時代後期の旅行家で博物学者だそうです。半生を秋田で過ごしています。

民俗学者の柳田邦男は

「真澄遊覧記を読む中で、真澄の日記を通して

天明といえば江戸でも京都でも種々の学問と高尚なる風流とかが競い合って進んでいる新文化の世であった。

然るにそれとは没交渉に遠く奥州北上川のこんなに寂しい旅行を一人で歩いていたのである」

真澄は変わり者かと言えばそうではないようなことを司馬遼太郎が書いています。(街道をいく、秋田県散歩参照)

入道崎は子持黒、入道岩、鹿落しなどと剣を立てたような高岩が岸にかさなり合っている。

増えすぎた鹿を、鹿狩りの時はこの先の野に駆り集めてこれらの岩の上から追い落とした

という説明がありました。

さて今宵の宿の男鹿温泉いつきました。

男鹿温泉雄山閣です。

ご隠居的には旅に出て泊まる場所は温泉でも井戸水でも(井戸水は冷たいからお湯の方がいい)ビジネスホテルのバスでもこだわらない人です。

でもここは日本秘湯を守る会という看板があったのでちょっと良かったかなと思いました。

なまはげの湯「露天岩風呂」がなかなか良かったです。

部屋からの男鹿温泉街

7軒の宿泊施設の先に日本海が見えます。

夕食も終わって暇だから旅館の人に進められて「五風なまはげ太鼓ライブ」にぶらぶら出かけました。

五風会館と言う場所まで少し歩きました。

どうせ田舎のアトラクションだから大したことないと思っていきましたが、これがどうして眠気もさますような迫力ですごく良かった。

写真教室のご婦人に見せたら野崎さんはこの女性が美人で気に入って撮っていたんだなと言われました。

ばれたか!

とにかく暗くて動きが早いし観客の頭は邪魔になるしでいい写真がなかなか美味く撮れませ。

誰かの写したyoutubuを見てください

 

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僕の細道旅行譚(経緯度交会点)

2018年11月10日 | 旅行

東京から秋田に向かうには飛行機、夜行バス、新潟新幹線から「いなほ」経由、いろいろありますがやっぱり「こまち」が一番便利ですね。

盛岡から在来線になるのでスピードはおちますがそのかわり景色なんか眺めて快適です。

大曲駅で進行方向が逆になったりして楽しいですよ。

もちろんご隠居はグリーン車なんかには乗りませ。着く時間は同じです。

ZOZOタウンの前沢社長みたいに腐るほど金持っている御人にはいいかも。もっとも彼だったらプライベートジェット機にしますね。

 

さて国道7号線を北上して追分三叉路に来ました。

ここから男鹿街道に向かうわけですがその前に話題の金足農業高校に寄ってみました。

外からだけの写真にしましょう。学校関係者ではないので・・・。ただの野次馬です。

広々としています。校舎に着くまで時間がかかりそうです。

このグラウンドで吉田輝星クンは毎日一生懸命練習していたのでしょうか。

日本ハムではどんなものでしょう。

日本ハムの栗山監督は熱血先生と言われて指導が上手そうですね。

どうでもいいけど国立大学(学芸大学)出て教授の資格持っている人はプロ野球の世界ではめじらしいそうです。

さて男鹿半島を目指します。

八郎潟干拓記念水位塔

かつての水面を示しています。塔の正面には「人々はいつもこの頭上の高さに日本海の水面が広がっていることを忘れてはならない」と書いてあります。

大潟富士

盛り土をして誕生した日本一低い山です。高さは富士さんの標高の千分の一にあたる3.776m、頂上がちょうど海抜ゼロメートルになっています。

頂上に立つと豊かな田園風景です。日本ではないみたいです。

水門を作って湖面であった場所の水を抜いて何処からか土を運んで埋め立てたのかと思っていました。

ところが水深が浅かったのでそのまま田圃になってしまったのですね。

東京湾の埋め立てみたいに手間がかからなかったのかな?

感心して田園を見ていると軽トラックに乗ったおじさんがニコニコとしてやって来ました。

「わ・ナンバーだけどどこから来たんだい」

「千葉の山ん中から来たんだけど広々していてたまげた」

「明日稲刈りやろうと思って田を見に来たんだ。コンバインでやるからすごいんだぞ」

「でしょうね。千葉の田圃なんか猫の額だね」

「この先に経緯度交会点という名所があるよ」

「そこも見に行こうと思っています」

「田んぼの真ん中で分かりにくいから案内してあげる。付いておいで」

と車に乗ってどんどん走って行きました。途中でわかんなくなってまごまごしていたらUターンしてきてくれました。

何もない農道を右に左にと走りました。カーナビも良く分からないのでよかった。

緯度と経度が整数値で交わる交会点。大潟村には北緯40度・東経140度ジャストで地点の記念塔です。

10度単位で交差しているのは日本の陸地では大潟村一か所だけです。

ところがですよ、

GPS時代になり正しく測定するとこのモニュメントから南東に約430m離れた場所だそうです。

せっかくこんな立派な立派な建造物作ったのだから壊さないでこのままでいいですよね。

これから向かう寒風山の展望台もかすかに見えます(左側の山)

 

 

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僕の細道旅行譚(八橋油田)

2018年11月05日 | 旅行

9月に引き続き秋田をもう少し歩きたいと思います。

秋田駅をわずか20分ほど走ると日本の大油田、八橋油田に着きます。

これがまた住宅地の真ん中にあるのです。

国際石油開発帝石が運営していて「ポンピングユニット」とよばれる機械で25基が稼働中です。

「ウイーン、ウイーン」と水飲み場のおもちゃの鳥のように一定のリズムで首を上下に振ります。

1分間に5~10回転させて24時間休まず営業です。

地下でセ氏50~60度、地上では20~30度まで温度が下がり油1、ガス1、水が8、開発当初は水は0だったそうです。

ちなみに地下1000mから2000mの砂岩から採取するそうです。

コスモス広場にあるレプリカ。

原油の世界生産量は44億トン。日本の生産量は47万トンで世界の1%にも満たない。

八橋は8000t前後と国内の2%ぐらいだそうです。

1955年ころには21万トン、2000人の人が働いていたそうです。現在は43人。

栗田秋田鉱場長は「世界情勢に左右されず、国内で原油を支える貴重な現場と」胸を張っています。

隣の公園ではコスモスが咲いていました。

サウジ最大のガワール油田では世界最大の埋蔵量を誇っていますが、

毎日数百万バーレルの海水を注入しているそうで一時の勢いはないのかもしれません。

南北280km、東西50kmとてつもな広い。しかし草一本も生えてないような砂漠地帯なのでしょうか。

八橋のように油が少し湧いているそばでコスモスが可愛く咲いていたりしてこじんまりしていていいですね。

鉄だとか銅とかやたら取れると戦争でもおっぱじめたくなるので資源は海外から買ってきてチマチマ働く方がいいと思いませんか。

しかし狭い日本でもわずかばかりの鉱物資源がいろいろとれるんですね。

金とは銀みたいに世界的にも誇れるよう埋蔵量が日本にもあるというのが出来過ぎでしょうか。

 

 

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僕の細道旅行譚(秋田市内続き)

2018年09月27日 | 旅行

引き続き市内をぶらぶらします。

お堀から旭川(大町公園橋)を渡ります。

川沿いの建物は秋田市内一の繁華街「川反(かわばた)」通りです。

やっぱり夜に来ないともう一つと言う感じです。

オフシーズンの時は何回かなじみの店で飲みましたが竿燈が開催されている時はすごい人なんでしょうね。

秋田市民俗芸能伝承館(ねぶり流し館)にやって来ました。

ここでは竿燈のさわり部分的に見学することができます。

室内ですので祭の夜、街を練り歩く竿燈には到底及びませんが近くで雰囲気を味わえます。

ねぶり流しは古くから伝わる祖先の霊を弔う行事に豊作を望む庶民の祈願などが結びついてさかんに行われたそうです。

初めは、身に着いた汚れや悪霊などを川に流し、夜に提灯を高くかざして歩く行事でした。

かつて祖先の霊が迷わぬようにと、家も前に灯火を高く掲げる習慣もありました。

また寝ている間に悪霊が取り付くと信じられていたので、盆の頃眠気を取り払うために七回水浴びをするなど、眠り流しと呼ばれていました。

江戸時代後半には「眠り流し灯籠」といい、子供や若者たちが長い竹竿に灯籠を沢山つけて町中を練り回る「竿燈」行事となりました。

「ねぶり流し」は明治14年から竿燈と呼ばれ、今は「秋田の竿燈」として全国的になりました。

次は旧金子住宅です。

江戸時代後期に質屋、古着商を営み明治期には呉服の卸商を操業して昭和50年までこの地で商いが行われていました。

地方に行くとこんな感じの豪商が結構あります。

ご隠居みたいに一生涯小さな分譲住宅で暮らしているものにとっては想像もつかない暮らし向きなのでしょう。

室内にある立派な金庫です。

ご隠居は最近終活をボチボチしていますが最近小さな手提げ金庫を捨てました。

お金も3000円ぐらいしかありませんでした。もちろん空にして捨てました。

次は赤れんが館(旧秋田銀行本店本館)

以前に盛岡の街を紹介した時にも同じように岩手銀行赤れんが館という建物がありました。

各県の中央銀行と思われる物は同じような感じです。

階段だってすごい立派です。

こんな感じで預金しに来ると利息も余計にもらえる感じがします。権威がありますよね。

最近は静岡のほうの銀行みたいにあきれ返るようなもありますが確実に金融機関の信頼度は落ちていますよね。

けっこう疲れました。40年ぐらい前によく泊まったビジネスホテルがまだ営業していたので懐かしかった。

夜はここから川反の町に少しばかり繰り出しましょうかね。

 

 

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僕の細道旅行譚(羽後亀田駅)

2018年09月20日 | 旅行

羽越線羽後亀田駅に下りてみました。

昭和49年野村芳太郎監督(原作:松本清張)丹波哲郎、加藤剛、そして若き日のわが千葉県知事の森田健作などが主演している「砂の器」のロケ現場になった駅です。

映画の景色も奇麗だったし戦中、戦後の混乱期に一人の若者の成功と挫折がものすごく印象的でした。

また戦時中にもかかわらず駐在さんが行き連れの親子の世話をして病気の親は療養所に入れて外地では戦争やっていても秩序が保たれていたんだなと思いました。

一応切符を売っている女性がいました。お客も数人いましたが電車に乗るのではなく駅前にコミニティバスが来たらみんな乗って行き誰も居なくなりました。

さて物語は蒲田駅操車場で遺体が発見される所から始まます。

手がかりは何もなく犯人と被害者が蒲田のトリスバーで飲んでいたことが分かります。

ホステス(当時は女給)すみ子がチラリと二人の会話の中で「カメダは今も相変わらずか」とい会話を聞いたと話す。

カメダは人の名前か地名かと考えているうちに秋田に羽後亀田があることが分かり刑事の丹波(西刑事)と森田(吉村刑事)が捜査に出かけます。

上野発21時の急行「羽黒」で羽後本荘経由13時間かかって羽後亀田駅に到着します。

通常の座席で(ボックス席)の出張ですから大変ですよね。西村京太郎シリーズの十津川警部と亀井刑事みたいにすぐに新幹線かなんかで行くのは楽ですよね。

駅を降りても何もなくて駅前の食堂に入って森田がかつ丼を食べていたら丹波が「君は若いから食欲あるねぇ」などとの台詞があります。

町は駅から2kmぐらい離れています。

その森田健作も来年は70歳です。いつまで県知事やるんですかねぇ。

結局調査は間違いでその後全国に話が飛びます。この辺が面白い。

 言語学者なども出てきて東北地方独特の濁音の多いなまりは中国地方の一部でも使われているということが分かる。

そして島根県の山奥に亀嵩と言う場所があります。そろばんの産地。映画の中では素晴らしい農村の風景です。

まだ行ったことがありませんが一度行きたいなと思っています。

亀嵩のあとは伊勢、名古屋とロケ地になって行きます。そして究極の殺人の動機が分かって行きます。

駅前に観光マップがありました。

駅から341号線を2kmぐらい歩くと岩城の城下町みたいです。

そこまで行けばロケ場所の朝日屋とか龍門寺なんかが見られるかもしれません。

しかしタクシーなんか呼んでもいつ来るかわからないし9月と言うのに滅茶苦茶暑くて歩く気もしません。

いつものように手頃の場所にて撤収です。

戦時中だったらご隠居が小隊長ぐらいでも(もっとも根性ないからいつまでも一兵卒でしょうが)すぐに撤収の号令を掛けそう。

いつまでたっても勲章なんかもらえそうもありません。

秋田行きの列車を待っていると何本も貨物列車が通りました。

地方に行くと旅客よりも貨物の方が元気です。

やっと来ました。2両編成の秋田行きです。

何処に行ってもこんな感じです。イライラしてはいけません。のんびりと。

そういえば「砂の器」の主人公は老後、警察官を辞めて予定を決めないで全国を旅行していたのでなかなか本人を特定できませんでした。

ご隠居もあっちこっちふらふらしているのでどこで交通事故で死んでもいいように身分証明書だけは携帯していきましょうかね。

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奥の細道旅行譚(蚶満寺)

2018年09月17日 | 旅行

さて象潟ではやっぱり行ってみたい蚶満寺(かんまんじ)です。

羽越線の踏切を渡るとすぐです。まずは山門の方から行ってみましょう。

「羽海法窟」の扁額がかかっています。

日本らしい姿です。

伝説の西施の姿でしょうか?お寺の案内書には何も書いていません。

平成2年8月1日象潟町日中友好協会の碑という説名文がありました。

しかし美女と言うのはすごいですね。遠くの中国の話でも話題になります。

旅姿の松尾芭蕉像。あっちこっちで沢山芭蕉の像を見ました。

奥の細道300年松尾芭蕉翁建立趣旨書の銅板がはめ込んでありました。

蚶満寺七不思議のひとつ、寒中雪の中で開花する。

芭蕉の木がありました。立派です。

北条時頼公のツツジ。

蚶満寺には芭蕉の象潟三詠懐紙の忠実な写し一軸が伝存するそうです。

本堂です。

ご本尊は釈迦牟尼仏です。

本堂裏手の小高い場所には芭蕉句碑がありました。

「象潟の雨や」「西施がねぶの花」初案があります。

象潟の合歓の花は7月25日前後に開花するようです。

「象潟島」刻した小さな標柱、船着き場の跡と船つなぎ石、その奥には西行法師歌桜跡などがあります。

ここも島だったのですね。

さて蚶満寺をあとにして駅の方に戻りましょう。

蚶満寺から南500mぐらいの場所です。

能因(平安時代中期の歌人)という人が3年間幽居されていたそうです。頂上には「能因島」の標柱があるそうですが省略です。

西行法師が「象潟の 桜はなみに 埋もれて 花の上こぐ 蜑(あま)のつり船」と詠んでいます。もちろん芭蕉も訪れています。

せっかくここまで来たので日本海をちょっと覗きましょう。

ご隠居の住む検見川浜も夕日の美しい町ですがここは日本海に面していて素晴らしい夕陽でしょうか。

遠くに象潟漁港が見えます。漁港がすぐなので夕飯は海の幸が一杯。特に夏の巨大な岩ガキが名物です。

ご隠居は生ガキは苦手なので遠慮しました。フライは好きです。

日本海の夏もそろそろ終わりでしょうか。

さて芭蕉はこの後北上して秋田、津軽まで行きたかったらしい。江戸の杉風(さんぷう)に出した手紙でもわかります。

ただ曾良は幕府の隠密でこれより北の調査は意味がなかった。それより村上や新潟、直江津の港の方(北前船の航路)の機密事項を探りたかったようです。

そんなわけで芭蕉はふてくされてここから日本海を飛ぶがごとく駆け抜けて岐阜ま帰ってってしまいます。

ここからはいつものようにご隠居がかってに行く「僕の細道旅行譚」です。もう少し北に向かいます。

 

象潟

江山水陸の風光数を尽くして、今象潟に方寸を責。

(これまで山水海陸の美景を見てきたがいまや象潟に対して詩心を悩ます次第となった。)

酒田の湊より東北の方、山を越え、磯を伝ひ、いさごをふみて其の際十里、

日影ややかたぶく比、汐風真砂を吹上、雨朦朧として鳥海の山にかくる。

闇中に模索して「雨もまた奇也」とせば、雨後の晴色又頼母敷と蜑の苫屋に膝を入れて、雨の晴れを待つ。

象潟に船をうかぶ。

其朝天能霽て、朝日花やかにさし出る程に象潟に船をうかぶ。

(天気はからりと晴れて)

先能因島に船をよせて、三年幽居の跡をとぶらひ、むかふの岸に舟をあがれば「花の上こぐ」と詠まれし桜の老木、西行法師の記念をのこす。

(真っ先に能因島に舟をこぎ寄せ能因法師が3年間隠棲した遺跡を訪ねた。)

江上に御陵をあり。神功皇宮の御墓と云。

寺を干満珠寺と云。此所に行幸ありし事いまだ聞ず。いかなる事にや。

(ここに皇后が行幸されたことはまだ聞いたことはない。どういういわれがあるのだろうか。)

此寺の方丈に座して簾を捲けば、風景一眼のなかに尽き、南に鳥海、天をささえ、その陰うつり江あり。

西はむやむやの関、路をかぎり、東に堤を築きて秋田にかよふ道遥に、海北にかまえて、浪討ち入る所を汐こしと云。

(海を北にひかえて外海の波が潟にうち入る所を汐越えとよんでいる)

江の縦横一里ばかり、俤松島に通ひて、また異なり。

(入江の縦横は各一里ばかり、そのおもざしは松島に似ていてまた違ったところがある)

松島は笑ふが如句、象潟はうらむがごとし。

寂しさに悲しみくわえて地勢魂をなやますに似たり。

象潟や 雨に西施が ねぶの花

象潟に雨が降りしきるねぶに花が咲いている。それは古代中国の美女、西施の憂いある面影にも似ている

 

 

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奥の細道旅行譚(九十九島)

2018年09月13日 | 旅行

芭蕉一行は天候が悪く酒田から象潟には雨が激しくて苦労したようです。

曾良の日記

16日吹浦ヲ立。番所ヲ過ルト雨降出ル。女鹿、より難所。馬足不通。

・・・・・・・ウヤムヤノ関成ト云。此の間、雨強ク甚濡。・・・・

昼ニ及テ塩越ニ着。佐々木孫左衛門尋テ休。衣類借リテ濡衣干ス。ウドン食。

・・・・17日小雨朝食後、皇宮山蚶満寺へ行。・・・・・・・

・・・・18日快晴。・・・

芭蕉は雨に濡れた合歓の花が咲き、悩める美女西施(せいし)のようだと感嘆しています。

芭蕉が訪れたのは8月1日(陽暦)だから残花があったかもしれない。

ご隠居は9月になっていたのに少しみられてよかった。同じ花でも芭蕉が見たかもしれない場所です。

今野又左衛門の家

芭蕉が宿泊したという能登屋の跡地を見ながら今野又座衛門の跡に辿り着きます。

象潟の名主で芭蕉訪問時心から丁重にもてなしたと言われています。

熊野神社

芭蕉来遊時の「所の祭」というのは熊野神社の祭礼です。ちょうどお祭りの時で女客で混んでいて最初の日は熊野屋ではなく向屋に宿泊したみたいです。

芭蕉といえどもすんなり宿が取れないことがあるんですね。

象潟橋。正面に雲が覆ていますが鳥海山です。

1689年に芭蕉もこの景色を見たのでしょうか。まあ鳥海山だけは同じ姿でしょう。

それにしても感激します。

町並みは新しくなってしまいました。

鎧下見板といって日本の代表的建築物です。

下見板材を横方向に1寸2分(36mm)ほど重ね合わせて張り込む。

重ね合わせたのにくせを押し縁で(縦材)で抑え込んでいきます。

とても通気が良いそうです。

史蹟 船つなぎ石

昔象潟川をさかのぼってきた和船が綱をかけて船を止めました。

それだけではなんにも面白くないのですが芭蕉と曾良もここから船に乗って象潟の美しい八十八潟九十九島の島巡りをしました。

なるほど。

腰丈橋(こしたけばし)

熊野神社の御祓いの禊を行う場所で御手洗川とも言われた神聖な場所です。

芭蕉も 腰長(丈)や 鶴脛ぬれて 海涼し と詠んでいます。

駒留島

この辺りから九十九島島巡りのコースとなっています。昔は潟湖(湖水)になっていたのでしょう。

芭蕉も船の上から島々を遊覧したのでしょうか。

もうちょっとでいなほが黄金色になるのでしょう。ちょうどいい時に来るのは難しい。

芭蕉は松島は笑うがごとく象潟は憾むがごとしと象潟の景色にはどこか憂いがあるとの感想です。

句にある西施(せいし)とは古代中国の絶世の美女であるが敵国の王を惑わすために差し出された薄幸の美女です。

芭蕉が来遊後115年経過した1804年の大地震で湖底が隆起し、文字通りの蒼海変じて桑田と化しました。

島の周りは水田になってしまい遠くを見ると風力発電の羽が回っています。芭蕉も現在に来たらびっくりするでしょう。

それにしても我が国は地震の多い国ですね。

 

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