元禄2年3月27日(1689年5月16日)に松尾芭蕉(46歳)と曽良(41歳)が旅に出ました。
深川から日光、仙台、酒田、新潟、金沢、福井などの旅に出かけました。
私もところどころですが酒田などに行きました。その先にも行きたかったのですが病気になってしまい、断念せざるを得ませんでした。
芭蕉稲荷神社
芭蕉は9年間暮らした住居を引き払い「奥の細道」の旅に出る気持ちの高ぶりがひしひしと伝わってきます。
旅に出るという気持ちが滅茶苦茶感じられます。
私も旅に出る時がありますがたとえ一泊でも二泊でもこの高ぶりに変わりありませんね。
草の戸も 住替る代ぞ ひなの家
(わが家よ、主人が変わるぞ。前の主人はむさくるしい独身男だったが、今度はいるのは、女の子のいる家族らしい。春にはお雛様が飾られるかもしれない。楽しいだろう)
芭蕉は自宅も売ってこの旅に出たと言われています。今の時代では考えられませんね。
月日は百代の過客にして、行かふ年も又旅人也。
月日は永遠に旅を続ける旅人のようなものであり、来ては去り、去っては来る年もまた同じように旅人です。
人生はだれでも一生旅人のようなものかもしれません。
……後にもずっと続きますが、有名な行のみ書きました。
さてようやく芭蕉一行の旅立ちの地「千住宿」にやって来ました。
まず南千住駅を降りると早速駅前に芭蕉翁の像がありました。
ここは芭蕉たちは船で北千住まで通ったので実際には訪れていません。
1kmほど歩くと4号線に交差して素戔雄神社(すさおのじんじゃ)があります。
神社には江戸時代に近隣の文人たちが建てた「奥の細道」矢立初めの句碑が残されており、有名です。
4号線を北千住の方に向かって歩いていくと千住大橋が見えてきました。
芭蕉の時代もすでに木造の橋が架かっていて奥州方面に行く参勤交代などで賑わったそうです。
橋を渡って左折して川岸に降りてみました。
芭蕉一行は深川から船でやって来てこの辺に上陸したのでしょうか?
千住大橋のたもとにある石碑
「矢立」は墨壺に筆入れの筒のついた携帯用の筆記用具です。
日光東照宮にむかう日光街道の咽喉元でした。
千住の町は街道の最初の駅であり、飯盛り旅籠、煮売酒場、居酒屋が立ち並ぶ歓楽街でした。
飯盛り女すなわち娼婦がたむろす色町に芭蕉は6日間も滞在したことになります。
行春や 鳥啼き魚の 目は泪
の句ですが川に泳ぐ魚が泪を流す、というのはあまりにも幼児的な描写である。と嵐山さんは書いています。
「魚とは杉風(さんぷう)のことではないか」と言っています。
杉風は芭蕉の弟子でこの旅のパトロンです。芭蕉が大変世話になった恩人が千住で別れを惜しんで泣いたのです。
また前回芭蕉一行が6日間千住宿に滞在したのは日光街道の工事が遅れたからだとご隠居はいい加減のこと書いていますが嵐山さんは次のように書いています。
曾良は吉川神道の出で、幕府とのつながりが深かった。
当時日光工事普請で、伊達藩と日光奉行の対立がありそれを調べるミッションを与えられた。
そしてその工事が遅れたので出発も遅れた。
「面八句を庵の柱に掛け置」も最初から面八句はなく芭蕉は「旅日記」の序章からいかにも本当らしい虚構を書き入れている。とのことです。
奥の細道は1689年出発、150日、2400kmを歩き5年後の1694年位完成した。
細道を歩いてから清書本が出るまで5年間かかっています。たかが400時づめ原稿用紙30枚程度です。
それを5年間かけて推敲したしたのです。
たかが30ページ程度の文章でも5年もかけて作ったということは、本当に魂を込めて作られたのでしょうね。
大したものだと思います。
皆様から色々便りをいただいておりますが、字を書くことが少し不自由になってしまっています。
皆様の手紙はすべて拝見しております。今後もよろしくお願いします。
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