ななきたのご隠居~野崎 幸治

千葉市美浜区で行政書士をしています。
地元では「ななきた(磯辺7丁目北自治会)のご隠居」と言われています。

奥の細道旅行譚(花見山公園)

2017年04月21日 | 旅行

一度福島駅まで戻り、芭蕉一行の旅には関係ありませんが花見山公園に行ってみました。

東北屈指の桜の名所です。

福島駅から臨時バスが10~15分間隔で運行していますがバス待ちの観光客が長蛇の列です。(午前中)

山全体に桜が咲いています。

平成29年4月12日に日本経済新聞の朝刊に掲載された河野恵夫さん(ふくしま花案内人会長)の記事を一部お借りして紹介します。

「花見山公園は年間に25万人以上が訪れる東北きっての花の名所だ。

だが花よりももっと美しいものがある。そのことを私たちに教えてくれた人物をお話しします」

皆について山裾の方に歩いて行きましょう。

 

「この花見山公園は私有地です。持ち主は阿部さんさんという花卉農家で公園の入ったところにお宅があります」

「山を人々が安らげる場所にしようと考えたのが先代の阿部一郎氏です。この人が花見山公園を今の形にした人で、公園は彼の人生そのものでした」

「一郎氏は1919年に生まれで実家は養蚕農家でした。そのころ世界恐慌の影響で生糸が売れなくなり田畑はおろか家まで手放さなくなりませんでした。

家族は山で摘んだ花を町に売りに行くその日暮らし。だが少しずつ借金を返済して山林を買い戻すことが出来ました」

所々に休憩する場所があります。やっぱり美しい花をたくさん見ても口が淋しいのは何処に行っても同じです。写真が露出不足かな?未熟だなぁ。

 

「一郎は信夫農学校に進学して当時の校長が唱えた言葉に心を打たれました。

それは商人が商魂があるように、農民には「信農魂」が大切。農業は苦しいことの連続だが、どんな時にもなにくそと頑張ることだ。

農家は下肥を使う仕事といわれたが一郎氏は「堂々と胸を張って馬鹿にされない仕事をしたい」と決意したそうです」

「卒業後は家族と共に雑木林を耕し、花を植えた。機械はなく一日に1~3坪しか耕せない。

それでも「苦しみの先には必ず幸せがある」とへこたれなかった」

「戦争で中国に渡り多くの戦友を亡くしました。

戦死した仲間とその家族に申し訳ないという割り切れない気持ちだった。

復員後は以前にもまして農業に打ち込んだのは、平和を強く希求する心があったためだ」

「戦後復興が進むのと足並みをそろえるように農園は発展しました。

花は四季折々に美しい姿を見せるようになりました。

「山を見せてほしい」という人が出てきて、59年には農園を無償で一般開放しました。一郎氏は来園者のためにトイレを設置し、つえを貸出した。

坂道で滑って服を汚した人にはジャージを差し出しました」

「一文の得にもならないのになぜそこまでやるのか。

農業は草花を育てるだけでなく、人の心も育てるもの。だから花を見たいという人には心置きなく見てほしいと話しました」

「花見山が桃源郷にたとえられるのは、一郎氏の人柄が花のように人を引き付けたからだと思う。

13年に93歳で一郎氏は世を去ったがその思いを知ることで、花を見に来た人々の心にも春風が吹いてくれたらうれしい」

 

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奥の細道旅行譚(信夫の里)

2017年04月18日 | 旅行

久しぶりで奥の細道の旅に出ました。(昨年の6月以来です)

まずは福島駅に降り立つと駅前は花が一杯でした。

駅からバスで20分ほどで文知摺観音(もぢずりかんのん)に着きました。

芭蕉一行は黒塚の岩屋によってから阿武隈川を渡って歌枕(江戸時代の観光名所?)で有名な「もじ摺の石」を探しに行きますが遥かな山里に石が半分程埋もれていてがっかりします。

「しのぶもぢずり石」はこの境内にあります。

当然ながら芭蕉像がありました。足元は何やら工事中で賑やかに道具が散らばっていました。

ゆるやかな坂を登って行くと句碑がいろいろありました。

「虎女伝説」

源融(みなもとのとおる)公がお忍びでこの辺りに来ましたが夕暮れ近いのに道もわからず困っていました。

そこへこの里の長者が通りかかりその自宅に行くと出迎えた長者の娘、虎女の美しさに息をのみました。

虎女もまた、公の高貴さに心を奪われました。

その後愛情が高まり公は一か月余り逗留しますが都から公を迎える使いがやって来て、また会う日を約束して去りました。

再開を待ちわびた虎女は慕情やるかたなく「もぢづり観音」に百日詣での願をかけましたが都からはなんの便りもありません。

嘆き悲しんだ虎女が、ふと見ますと「もぢずり石」の面に慕わしい公の面影が彷彿と浮かんできて見えました。

懐かしさのあまり虎女が駆け寄りますと、それは一瞬にしてかき失せてしまいました。

虎女は病の床に就いてしまいました。その後公から歌が届くのですがそれを抱きしめながら短い一生を終えましたとさ。

源融は陸奥の国の按察使(あぜち・地方行政官)でした。

彼のおかげで塩竈や松島などを京の都に観光PRをしてくれ有名になりました。

百人一首

みちのくの 忍ぶもぢずり 誰ゆえに みだれそめにし 我ならなくに (源融)

 (みちのくのしのぶもぢずりの乱れ模様のように私の心は忍ぶ恋のために乱れています。

このように乱れ始めたのは誰のせいでしょうか?わたしではなくてみんなあなたのせいなのですよ)

調子のいい和歌ですね。

石の表面に公の姿が現れたとのことで「鏡石」とも言われています。

甲剛碑。面白い漢字です。

甲剛の古字で金剛と同じ、北斗七星を意味するそうです。

人肌石。

人肌のようなぬくもりを持っていることから人肌石と呼ばれています。

やっと「もぢずり石」に辿り着きました。パンフレットや嵐山光三郎、森敦さんの本でも「石柵で囲まれて」と書いてありますが何も柵はありませんでした。

これで間違えがないのかと帰りに拝観券を扱っていたご婦人に尋ねようかと思っていました。ところが帰るころにはバスの時間が気になりすっかり忘れていました。

最近鶏と同じで3歩歩くと忘れます。

この地が綾形石(あやがたいし)の自然の石紋や綾形、しのぶ草などの葉形などを摺りこんだ「しのぶもぢずり絹」の産地で、文様をとるためにこの石が用いられたという伝説に基づいています。

下に半分埋まった面にその文様があり、そこに絹をあてて色付けしたとのことですが今になっては確かめようもありません。

「もぢずり」とは、文字が乱れた模様を言うので「文知摺」は単なる宛て字とか。

足止め地蔵尊

家出人や走り人がある時、この地蔵尊の足のあたりを縛っておくと、必ず無事に帰ってくるとのことです。

足の怪我や病にもご利益があるとのことです。

小さな池に水芭蕉が咲いていました。

福島県指定重要文化財。文知摺観音多宝塔。

文化9年(1812年)建立。高さは約15m。東北地方ではただ一つの多宝塔です。

多宝塔・・・・・・多宝如来を安置する塔。基檀上に二重の屋を構築して最上部は相輪を設置した塔を言う。

自筆資料などがある資料館です。

室内では給茶機などもありゆっくり休めます。

多宝塔の裏手に河原左大臣源融・虎女の墓があるとのことですが急いでいたのでよくわかりませんでした。

 

浅香山・信夫の里(後半)

くるば、しのぶもぢ摺りの石を尋ねて、信夫の里に行く。

遥かな山陰の小里に、石半ば土に埋もれてあり。

里のわらべ来りて教へける、「昔はこの山の上にはべりしを、往来の人の麦草を荒らしてこの石を試みはべるを憎みて、この谷に突き落せば、石の面下ざまに伏したり」という

昔はこの山の上にあったのですが、通行人が人々の畑の麦を抜き荒らしてこの石の表面に摺りつけては、ためしたりして不愉快に思って、土地の人々がこの石を谷に突き落したところ、石の表面が下向きに倒れたのです。

さもあるべきことにや。

 

早苗とる 手もとや昔 しのぶ摺り

早乙女たちよ、稲の苗をとる手つきが昔を偲ばせてくれる。しのぶもぢ摺りが盛んに行われた頃が目の前に広がっているようだ。

芭蕉翁は那須から(田一枚~)ずぅ~と田植えに心が動いていたようです。

 

「黒塚の岩屋からはるばるもじ摺りの石に来ました。翁は巨石好きですね」

「横綱のようにどっしりしたものは落ち着くねぇ」

「それにしても柵はあるは苔むしているわでぱぁっとしないですね」

「日本の観光地はどこでもすぐに余計な手を加えるからいやだねぇ」

「まぁ子供の言ってるように馬鹿な旅人がどこでも落書きしているようにつまらないこと試して地元に迷惑かけたいるのでしょうか」

「でもこんな話も江戸で旅の雑誌読んでいるだけじゃわからないから実際に来てみると面白いね」

「ところで翁、ここでは源のととろだか融(とおる)だかが立派な和歌を詠んでるじゃありませんか」

「ちょっと不愉快な話だね。高貴で美男子の官吏と長者の美女の娘の話。出来過ぎている」

「フジTVのちゃらちゃらした女子アナと巨人軍のマッチョな選手の恋愛話みたいでちっとも面白くないですね」

「だいたい虎女なんて食いつかれそうな名前なのにめそめそしてるね」

「夢を食うというバク子ぐらいの名前が良かったかも」

「だいたい好きだったくせにさっさと都に帰って手紙一本で済ませるような冷たい男だよ」

「早く諦めて近くの町にに来ている天下り官僚でもつかまえればいいのに」

「まぁ男女の仲はわかりませんえ。あたしは翁の忖度に応えながらこれからもお供します。とか心にもないこと言ったりして」

 

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東海道(藤枝宿)

2017年03月17日 | 旅行

岡部宿から藤枝市内にやって来ました。

瀬戸川

この付近が旧藤枝宿の史跡が残っているらしいのですがなにぶん事前の調査不足と時間もなかったので通過しただけです。

(岡部宿で撤収する計画でした)

志太一里塚蹟

このような史跡があると旧東海道と言った感じです。

松林も所々残っています。左折すると藤枝駅です。

二本の松が踊っているようです。

藤枝駅です。

ご隠居がサラリーマンを生業にしていた頃、新入社員研修で(ご隠居でも新人なんて頃もあったんですよね)4月に入社して6月頃だったかな(何十年も昔、笑っちゃいます)?まじめな顔して同期の連中と藤枝駅に降り立ちました。

勤務先の会社が藤枝市に日東紅茶と日本茶の主力工場がありました。暑くて緊張していたせいか工場見学した後のアイスティーが滅茶苦茶美味しかったのを今でも記憶に残っています。

日本人が唯一、インドでの買い付けから、製茶、パッケージしている日東紅茶です。朝の食卓にぜひどうぞ。

さて東海道膝栗毛では藤枝宿の出来事をかなり詳しく書いてあります。そこで素通りも悪いので

急いだせいで時間に余裕が少しできたので歩いてみるかと六合駅までの旧東海道を歩いてみました。

一駅間と軽く見ていたのですが思ったより距離があってあごを出してしまいました。

やはり松並木の面影がそこそこ残っています。

田中藩牓示石(ほうじせき)跡

このあたりは田中藩と掛川藩の土地が入り組んだ特異な村で、境界が分かるように牓示石を埋めたそうです。

またこの書の素晴らしさに旅人は驚いたそうです。

六地蔵堂(鏡池堂)

東海道を旅する人たちがここに立ち寄って旅の安全を祈願したとか。

また松並木が現れました。

東海道線が平行して走っています。一駅ぐらいあっという間です。

上青島一里塚跡

島田宿まで3.2kmとありますがその手前の六合駅までも結構ありました。つかれた!

自宅に帰って分かったのですが六合駅には「クモヤ93最高速碑」というのがあるそうです。

1960年11月21日当駅付近で当時世界最高速度175km/hを記録(狭軌)したそうです。

旅は予習(事前調査)が大事です。写真も撮って来ませんでした。

東海道中膝栗毛です。

藤枝の宿場に入ると田舎親父がやって来た。馬がはねて親父が驚き、避ける拍子に北八にあたる。北八は水だまりに転がり込んだ。

「この田舎親父め、目が見えぬか、寒烏(かんがらす)の黒焼きでも食らやがれ」

「こりゃ、どうも。御免なさい」

「やい、御免なさいじゃすまないわい。おい、この野郎は小粒でもぎゃあという第一声から、見付門の金の鯱(しゃち)を横目でにらんで、産湯の時から上水道をしたたかあびた男だ。江戸っ子だ」

「いんねはい、水を浴びたならようござんすが、そなたのこけてたころは馬の小便だまりだあ。気の毒だあ」

「その小便だまりに、なぜつっころしゃがった。さあ」

「そりぁ、なぜもねえだしもし。わしも急に、馬にはねちらかされ、ついそなたにぶつかっただ。ああ、しかたがないだあ。あきらめて、堪忍しなせい」

「なに、堪忍しろだと。いやだい。大江山の親分が鉄棒引きずって、渡りをつけにこようが、石尊様が、猪熊入道の似顔絵描いた提灯ぶらさげ、露地口からどぶいたの上へ、四つん這いになって、あやまりにきても、きかねぇといったら金輪際きかれねぇ。久米の平内をすわりっぱなしの居催促にやったよりかぁ、輪をかけてびっくりとせぬのが、この奴さまだあ」

     親父の返答省略

「ええい、悪く洒落らあ、尻がかゆいわい。たたき破って、頭のかけらでもひろわせてやりましょうか、ってんだ」

     省略(喧嘩も一段落して二人は旅を続けますが)

笑いながら瀬戸川を渡り、志太村の橋を通って瀬戸という立て場に着く(冒頭の写真の場所です)

江戸っ子というのは元気がいいというか口が悪いというか。

そしてこの先、町はずれの茶店でこの田舎親父と再会します。

田舎親父が先ほどの失礼に免じて酒を二人に御馳走してくれることになりました。

二人は喜んでこれとばかりに飲んだり食ったりしますが田舎親父は小便に立って行きそのまま逃げてしまいます。

田舎者と侮って恨みの仕返しをされます。馬鹿なんです。

 

松尾芭蕉が深川の居宅を処分して決死の思いでみちのくに旅立つのが元禄15年(1702年)です。各地で日本人の心を震わせるような俳句を詠みました。

その100年後享和2年(1802年)に東海道中膝栗毛の連載が始まりました。100年も過ぎてますます世の中が安全になったせいかこちらは日本橋を出立する時から気楽です。

どちらも現代と違って豪華なカラー写真一枚ない紀行文ですが江戸時代の人達に愛されましたね。

 

ご隠居の友人が「紀行文はまずちゃんと読む気がしないよね。以前は交通機関ぐらいは参考にしたけど今はネットを見た方が早い」

たしかに旅行雑誌も売れないでしょうね。

「外はカリッとしていても中はもちもちでフルーティです」なんていう文章読みたくないですよね。

 

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東海道(岡部宿)

2017年03月12日 | 旅行

しずてつバスを岡部宿柏屋前で下車しました。

すぐ前に岡部宿本陣址の公園に出ました。

園内は何もなくて広場になっていました。

内野家が元禄年間本陣職を命じられて明治になって宿場が廃止になるまで180年間代々職を継ぎました。

藤枝市の指定史跡となっていて現在整備中です。

何処にもあります。顔出し看板。

そして大旅館・柏屋(かしばや)国指定の有形文化財となっています。

天気も良くて風もないのにぶらぶらしている人がいないんですよね。

岡部宿を代表する旅籠だそうです。

入館料払って中に入ってみましょうかね。

一応弥次さん喜多さんがお出迎えということになっています。

これも何処の観光地にもありますよね。日本のどこかの工場で一手に引き受けて観光地に送り出しているのでしょうか。

奥の間では衣装なんかを貸してくれるみたいです。

かつらでもかぶって道路の真ん中で刀でも振り回していたら救急車で連れて行かれそうです。

台所

システムキッチンなんかなくても清潔そうな感じがしますね。

江戸時代でも日本人はきれい好きだったんでしょうか(現在よりもっと丁寧に台所なんかを使っていたかも)

本座敷

眺めも良く畳には縁もついていて高貴なお方が泊まった部屋です。

床の間つきです。

ご隠居が江戸時代に旅していてもこういう部屋には泊まれず二階の相部屋、畳に縁もないような所に逗留です。

 

東海道中膝栗毛では二人は岡部宿にやってきて大井川が川止めになっている情報をえます。

宿引「お泊りでございますか」

弥次「いや、わっちらあ日のあるうちに、川をかさにゃあならねえ急ぎの旅だ」

宿引「といっても、大井川は止まりました」

北八「南無三。川止めか」

宿引「さようでございます。よしんば先の宿においでなさっても、お大名様が五つ頭島田と藤枝にお泊りですから、あなた方の宿はございません。・・・・まずまず岡部でお泊りがご安心で」

弥次「そんなら、そうとしやしょうか」

北八「おめえは何屋だ」

宿引「相良屋と申します。すぐさまお供いたします」

 

昔の旅は思わぬところで余計な出費があるようです。

クレジットカードもないし、途中でコンビニでお金も降ろせないので大金もって歩いていたのでしょうか?

 

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東海道(宇津ノ谷峠)

2017年03月08日 | 旅行

さて東海道を歩く続きです。

しずてつバスを宇津ノ谷入口で下車して国道1号線バイパスの陸橋を渡るとすぐに集落です。

左側の石畳を登って行きます。

初春のやわらかい陽射しが街道にあたっています。

江戸時代ははわらじの紐ををしめなおしてひたむきに歩いたことでしょう。

少し歩くと今回最大の目的である御羽織屋の蜜柑の旗が見えてきました。

豊臣秀吉が天正15年小田原城征伐の際、馬の草履を差し出した村長 忠左衛門に礼とし拝領した羽織が石川家(御羽織屋)に大切に保管されているというTVでも紹介されている名所です。

な、なんと!うっかり写真では切れていますが本日休業のプレートが・・・・・

とりあえずだめもとで声をかけてみました。

「ごめんください!ごめんください!ごめんください!」

「はいはい。なんですか?」

「今日は羽織はおやすみですか?」(変な訊き方ですよね)

「いつも説明しているおばあちゃんが風邪ひいて寝ているんだ。きょうはちょっと無理」

「房総半島の山ん中から籠乗り継いできたのに残念だなぁ。(便利な場所から来たというとまた来いといわれそうなので)どこかの市議会議員みたいにワンワン泣いてもいいですか」

「泣いたってしょうがないわね。あきらめてそのみかんでもやるから食べて行きなよ」

「夏ミカンは酸っぱいから嫌いだ」

「これはスルガエレガントといってすごく甘いんだ」少し食べると

「この夏ミカン結構美味しいね。10kg自宅に送ってくれる?」

「夏ミカンじゃなくてスルガエレガントだ。今日は寄り合いがあって忙しいから発送は明日になっちゃうよ」

「今年の大みそかまでに着けばいいよ」

「いじけなくてもいいやね。今の時期時間が経つほどおいしくなるんだ」

そうこうしているうちに寄りあいに行くご婦人方が3人ばかりが誘いに来た。

「お客さんかい?どこから来なさった?」

「千葉から来たんだけどおばあちゃんが病気で羽織見れないんだ」

「そりゃあ可哀相だ。見せるだけだった時間かからないから待ってあげるよ」と石川さんに言ってくれた。

話が思わぬ方向に行きそうでにんまりしてご婦人たちと何度もうなずく。

「しょうがないね。今雨戸開けるから見るだけ。いつもは200円だけどおまけして100円でいいや」

左側の雨戸をあけると400年以上たった秀吉公の羽織がありました。

中の写真は一切だめということなので興味のある方は現地に行ってください。

いろいろな人のブログを見ているとおばあちゃんと縁側に座って中もチラリと見える写真や家康公から拝命された茶碗が写っているものもあります。

しかし今日は代理の人ですので(お嫁さんかな)余計なことさせるとおばあちゃんにあとで怒られるのかもしれません。指示に従いました。

 

いろいろ出かけて大きな博物館に国宝級の物品が淡い光の中で鎮座していてもあまり感激しないのも多いようです。他人事。

ここは1590年に秀吉公が小田原攻めに勝利して上機嫌で「この間はありがとさん!褒美にこの羽織をくれてやるわ」と馬の上から放り投げた姿が目に浮かぶようです。

527年前の事です。ちょっとしたオーラです。

感激して先に進みましょう。

のんびりと・・・田舎と言っては失礼ですがいい犬がいます。

この坂を登って行くのですが感激してお腹もすいたので右折して「蕎麦処きしがみ」に寄りました。

店内はとても綺麗で眺めも良かった。

そば粉のつなぎに水だけを使用した細打ちの十割蕎麦。つなぎをつかわないでよくもまあこんなに細い蕎麦になるなと感心しました。

先ほどの階段に戻って歩きます。

峠から宇津の集落。山村とも言えますが屋根が綺麗でみんな金持ちそうですね。

明治9年に竣工したレンガ造りの明治トンネル(国登録有形文化財)

山道をさらに進みます。

日本は世界でも有数な植林面積(人工林)を持つ国なのですね。

内地材をたくさん利用して日本の山、自然を守りたいですよね。

突然国道1号線のバイパスをまたぐ歩道橋に出ました。

左側にしずてつのバス停があり、そこから先の側道に入り陸橋の下を通って左折すると岡部宿です。

 

東海道中膝栗毛では

鞠子宿でとろろ汁屋の夫婦ケンカ大騒ぎを見ておかしさをこらえて宇津ノ谷にやって来ます。

それより宇津の山にさしかかったが雨が次第に篠を乱すように降りしきり蔦の細道を心細くも杖を力に十団子の茶屋近くになって弥次郎が坂道を転がり落ちた。

降りしきる雨やあられの十団子 ころげて腰をうつの山道

 

十団子は小さな団子十固を串刺しにした峠の茶屋の名物(江戸時代)現在はお守りとして親しまれています。

あられ、団子がころげる、腰を打つ、宇津の谷とごろ合わせが面白いですね。

 

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東海道(安倍川もち)

2017年02月23日 | 旅行

静岡駅にやって来ました。

当ブログでは2013年8月31日に大井川鉄道の旅の帰りに寄って静岡市内を紹介しています。

今回も「しずてつジャストライン中部国道線」に乗って出かけます。

この路線は一時間に2本は出ていて、安倍川橋、丸子宿のとろろ汁・丁子屋(すでに紹介済み)、吐月柴屋寺、宇津ノ谷、岡部宿を通り藤枝駅まで疾走する使い勝手のいいバスです。

それでは早速乗ってみましょう。

安倍川橋バス停で下車しました。

このあたりは弥勒(みろく)という地名みたいです。

ちなみに府中は静岡の地名です。

弥勒町の由来が書いてありました。

十辺舎一句の「東海道中膝栗毛」では

ほどなく弥勒といへるにいたる。ここは名におふ安べ川もちの名物にて両側の茶屋はいずれも奇麗になり。

昔は弥勒茶屋と呼ばれていたみたいです。

 

では元祖安倍川もち「せきべ屋」に入ってみましょうか。

文化元年(1804年)創業、一日に1万個も造ることもあるそうです。

食べるとすぐに終わるのでまずは店内を見渡しましょう。

値段は改訂されているのでしょうね。

昔の写真。一度空襲で焼けたみたいですね。

それでは

一皿600円の安倍川もちです。ほかにからみ餅などがあります。

やっぱりあっという間に食べました。

ちょっと昔の気分を味わって安倍川の橋のたもとに出ました。

水量は少ないけど川幅はとてつもなく広い感じです。

東海道中膝栗毛では

川越人足から雨で水嵩が増えているといわれ一人64文を払い、なんとか対岸についてさらに酒代16文づつはらった。

すると川越人足は川上の浅い所を簡単に渡って帰って行った。

悔しかった喜多さんが詠んだ一句。

川越えの 肩車に われわれを ふかいところへ ひきまわした

現在だったらネットで写真入りの悪徳業者として情報が出回るでしょう。

 

それにしても昔も今も知らない場所を旅すると失敗はしても楽しいですよね。

 

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東海道(由比宿)

2017年02月19日 | 旅行

東海道線の由比駅に降りました。

小さな駅です。コインロッカーもありません。タクシーが駅前広場に2台止まっていました。しかし旧東海道でも屈指の見せ場です。

まずは薩捶峠(さったとうげ)に行ってみました。富士山が綺麗に見える有名ポイントです。

ドカーンと富士山です。

薩捶峠(さったとうげ)から見た富士山。

河口湖や山中湖から見た富士山も素晴らしいですが駿河湾を前面にした富士山も綺麗です。まぁどこから見ても感激します。

天気が良ければ写真の技術も関係ありませんね。

冬の静岡、蜜柑ををちょっと入れてみましょう。

焦点を蜜柑にして富士山をぼかしました。こんなに晴れていると写真は楽しいです。

観光ポスターで駿河湾、東名高速、国道一号線、東海道線を走る列車、そして奥まったところに富士山が鎮座している写真があります。

しかしこの撮影ポイントは興津駅側に下っていった展望台からの写真です。

ご隠居は反対側に下るので省略です。ここまで来てもずさんです。

この写真で我慢してください。左側が東海道線ですがあっという間に列車が行ってしまって撮影できませんでした。

それでは倉沢・寺尾地区という古い街並みが残っている街道を歩きながら由比駅まで3.2kmを歩きましょう。

全体的には緩い下り勾配なので歩きやすい。往路は峠までタクシーで行ったのですよ。楽しちゃって。

観光案内所。

屋根より高い鯉のぼり じゃなくて富士山です。天気がいいのではしゃいでいます。

どこの軒先にも無人で蜜柑を販売しています。ジュースなどのむよりパクパクして歩いているとのどが潤います。

日本中どこに行ってもこのように時間が止まっているような素晴らしい観光地がありますね。

なつかしい赤い顔をしたポスト。昼間からお酒でも飲んでいるのかな。

「あかりの博物館」と書いてありますが中には入りませんでした。

東海道名主の館・小池邸。

さて由比駅まで戻って天気も良いので蒲原宿の方に東海道を少し上ってみました。

由比漁港です。

由比町は桜えびでは日本一です。

桜えびの漁期は年2回です。

3月中旬~6月初旬、10月下旬~12月下旬です。この時期は閑散としていました。

由比、蒲原、大井川の各漁港併せて120隻もの船でシラスや桜えびを採っています。

いつも書いていますが日本全国津々浦々の漁港で何千万もする漁船が係留されているわけで資産のある国です。

北朝鮮みたいにロケットをとばしてもスクラップ以下のような木造船でうろうろしているようでは足元見られます。

ご愛嬌?過剰サービス?

春埜製菓のたまご餅

由比名物たまご餅は

「十辺舎一九が書いた東海道中膝栗毛でも謳われたさとう餅は、長い時間を経て、現在は「たまご餅」として当店のみで製造しています」

と栞に書いてありました。

いくつも作らないのですぐ売り切れになり、在庫があるうちは店の外に黄色い旗を立てています。

今回はまだ旗が立っていたので入ってみると3個ありました。

とにかく製造日翌日までに食べてくださいとのことで近所へのお土産というよりその日の夜ホテルで自分で食べるのがベターかな。

正雪紺屋

正雪紺屋は慶安事件の由比正雪の生家と言われています。

お土産屋さんにもなっていて土間には四つ一組の藍甕が四列に並び愛染明王をまつった神棚、染め物道具などがあり見学できます。

正雪紺屋の前は由比本陣公園になっています。

公園内には広重美術館がありました。

のんびりした感じがしますね。

このあとは由比駅に戻り静岡駅に向かいました。

 

早く春になってご隠居の一番好きな初夏にならないかな。

 

 

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東海道(真鶴岬)

2017年02月06日 | 旅行

節分の豆撒き、恵方巻きはどっちを向いて食べるんだというような騒ぎも終わりました。

そのあとははチョコレートはどうするんだ、義理チョコは止めるかなどと考えているうちに桜の便りが始まります。

列島は春に向かって容赦なく時間が進んで行きますね。

さて関東地方に住んでいる人でも真鶴ってどの辺?と思う人もいるでしょう。歌でも有名な舞鶴は京都府ですね。

東海道線に乗って藤沢、平塚を過ぎて小田原に着くともうその先は熱海だと思ってしまいますがその途中にあります。

真鶴駅の小さな駅舎に降り立つと岬に(ケープ真鶴)向かうバス停がありました。

バスは漁村らしい町並みを縫って進みます。干物のお土産屋さんがあったり家々の庭には蜜柑や枇杷の木が植えられたりしていて温暖な地域なんだなと思います。

バスで20分も乗ると先端の岬に着きます。晴れていたので初島、大島や利島、その後ろに新島が良く見えました。

後期高齢者のような猫がいました。

結構有名な真鶴岬の猫のようでyoutubuなどでも出てきます。

三ツ石

先端からさらに沖に200m、海面から顔をのぞかせる3つの岩は真鶴岬のシンボルです。

初日の出 なぜ三石に 注連はらぬ 坪内逍遥の句がある程で日の出の美しい場所だそうです。

岬から三ツ石に降りていく途中に海の見える喫茶店がありました。

半島全体が樹齢300年以上のマツの群生や、シイ、クスなどの巨木が生い茂る豊かな森です。だから湾内の魚も美味しいのでしょうか。

河津桜が咲いていました。

遠藤貝類博物館に入ってみました。

故遠藤晴雄氏が集めた4500種、5万点の貝を所蔵しています。

こうして見ていると海もロマンチックですね。館内は撮影してもいいとのことです。

特に夏はどこかの漁村の民宿に泊まって昼はセミの声を聴きながら潮風を浴びて昼寝。

陽が落ちたら夕凪の中を散歩して獲れたての魚で一杯やる。

夜は花火でも買ってきて宿のおばさん達と楽しむ。ホテルに泊まるより旅情溢れますよね。

真鶴漁港にやって来ました。

2月一杯は遊覧船はお休みです。湾に面して魚市場・真鶴魚座で獲れたての新鮮な魚が食べられます。

湊をぶらぶらしていたら小さなお祭りに出会いました。

有名なお祭りで、いい写真でも撮ろうか鼻の穴おっぴろげていくと概して失敗しますがこれくらいだと長閑でいいですね。

真鶴は千葉からでもそんなに遠くないので夏にまた来たいなと思いました。房総半島も津々浦々いい港もありますが・・・。

 

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東海道(大磯宿)

2017年01月28日 | 旅行

さて左義長のお祭りは夜だったので昼間大磯の町を散策しました。

江戸時代の東海道では大磯宿は日本橋から8番目の宿場町となっています。

1号線の一部には松並木が残っていて江戸時代の旅人を想像させられます。

先を急ぐ車は海岸沿いの西湘バイパスを行くのでのんびりした感じがします。

三つの本陣があったそうですが今は記念碑だけになっています。一里塚、見付け、火除土手、高札場など旧街道の雰囲気が感じられます。

大磯駅の隣にある観光案内所に行くと街歩きのパンフレットがもらえます。

最近日本のちょっとした観光地では観光案内所がありパンフレットもいろいろ揃えてあります。

ネットであらかじめ調べておいても現地のこういった場所に立ち寄って案内所の人と話をするのもいいと思います。みんな親切です。

それでは町を歩いてみましょう。

まずは島崎藤村旧宅。藤村といえば木曽とか小諸とかではおなじみですが何故かこの地にもありました。

藤村は左義長に心を動かされ、日ごろ敬慕する西行法師の面影を伝える場所もあり数々の好条件に引きつけられて大磯に移り住みました。

71歳で永眠するまでの2年余りを温暖な地大磯で過ごしました。

藤村の墓は近くの地福寺にあります。

女性関係では好き勝手、自分の姪にまで手を出してやりたい放題でしたが最後はこじんまりとした場所で過ごしたのですね。

鴫立庵(しぎたつあん)にやって来ました。

西行法師の歌で名高い鴫立庵に寛文4年、小田原の崇雪が草庵を結んだのが始まりです。

京都の落柿舎、滋賀の無名庵ととも日本三大俳諧道場といわれています。

それにしても三大なんとかというのは多いですね。

西行の歌

こころなき身にもあわれは知られけり 鴫立沢の秋の夕暮れ

西行法師がこのあたりの海岸を吟遊して名歌を残したといわれています。

さらに奥に進むと円位堂があります。

堂内には等身大の西行法師の坐像が安置され、毎年3月末の日曜日には西行祭がこの堂の前で盛大に行われます。

小淘綾ノ浜(こゆるぎのはま)

湘南発祥の地の碑

小田原の崇雪が西行法師の歌にちなんで「鴫立庵」の墓標を立て裏に

「著盡湘南 清絶地」と刻みました。

清らかですがすがしくこの上もない所 湘南とはなんと素晴らしいところでしょう

井上蒲鉾店

明治時代から文人や政治家に愛されたはんぺん、かまぼこ、さつまあげは大磯のお土産の定番です。

新島襄、終焉の地

NHKの大河ドラマ「八重の桜」が放送されていた頃は誰もが知っていた新島襄です。

しばらくたってみるとみんな忘れていて大磯で亡くなったなんてドラマでやったかなという感じです。

ここでも出ました三大・・・

大隈重信、福沢諭吉とともに明治の三大教育家、新島襄です。

旅の途中、大磯の旅館百足屋の一室で47歳の生涯を閉じたそうです。この碑は徳富蘇峰の筆によりかつての百足屋の玄関の一部だった場所にたっています。

ご隠居は新島襄なんかよりずぅ~と長く生きているのになんの業績もありません。ぐすん。

東光院

東光院の薬師如来様に御祈祷してもらった左義長の木札をいただきました。

照ヶ崎海岸(日本の渚百選)

アオバトが丹沢山系からこの海岸に5月初旬から10月頃まで飛来します。

アオバトの食物(果実)にはナトリウムが含まれていないので果実から栄養分や水分をを体内に吸収するために海水吸飲を行っているのではないかと言われています。

アオバト

全長33cmの中型ハトで全体が緑色の美しい羽根色です。頭から胸にかけては黄味色が強く、胸部は白っぽい色です。

「大磯照ヶ崎のアオバト集団飛来地」として神奈川県の天然記念物になっています。堤防上に「展望スペース」があります。

大磯漁港にやって来ました。

この先が大磯海水浴場で左義長の行われる場所です。だいぶ陽も落ちてきてお祭りが近づきました。

漁港というのは朝早く漁から帰ってきた船で賑わっているころじゃないと面白くも可笑しくもありませんね。

忘れましたが明治18年に我国初めての海水浴場として大磯照ケ崎海岸に開設されました。

初代軍医総監松本順の尽力によるものです。

また大磯は吉田茂邸、伊藤博文邸など政界財界等各界の名士の邸宅が150戸にも及んだこともある由緒正しい町です。

 

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大磯町界隈(左義長)

2017年01月22日 | 旅行

神奈川県大磯町で毎年小正月に行われる左義長(サギチョウ)に行ってみました。

左義長は家内安全、無病息災を願って行われる道祖神の壮大な火祭りです。

正月飾りを集めた高さ7~8mのサイトにその年の恵方の方角からいっさいに点火され夜空を焦がすほどの壮観さだとパンフレットには案内があります。

竹の竿に取り付けられた針金挿ししただんごを火で焼きます。

「大磯の左義長」は国指定の重要無形民俗文化財です。

よく地方で行われている小正月の「どんど焼き」がありますがそれと似ているものなのでしょうか。

 

点火は夜の6時30分とのことなので祭りの前の町の様子を見て回りましょう。

浅間神社

お祭りの雰囲気を醸し出しています。

左義長だんご、ビニールをとってどんどの火で焼いて食べると「一年間風邪をひかない」言い伝えがあります。

道きり

隣の地区との堺の辻に、幣束と大根を挿した注連縄(しめなわ)を張り「みちきり」をします。

外国人限定の大磯左義長体験ツアーの集団がやって来ました。

外国人もよく研究して日本各地のお祭りに合わせてやってくるんですね。

何処にもいます。ゆるきゃら。

七所参り(ななとこまいり)・お仮屋

かつて松の内をすぎると子供達は正月のお飾りを集めまわりました。

8日には下町通りに木造の組み立て式セイノカミサンのお仮屋が作られて子供たちが籠ったそうです。

セイノカミサンは何か所もあって、特に七か所に参ることを七所参り(ななとこまいり)いいます。

さて大磯海水浴場に出てみました。

まだ祭りの前の静けさです。

サーフィンを楽しんでいる人達がいました。

 

やがて時間になってどんどに点火が始まりました。

 

夜空を焦がすどんどの火とそれにだんごをかざして焼いている人達。

本当に日本の祭りはいいなと思いました。今年一年幸せであるように万人が感じていることが行事に出ています。

このあと四方に張られたオンペ綱が外され、恵方の方向に倒されます。

そして「ヤンナゴッコ」という綱引きが始まります。

浜方と陸方(りくがた)の綱引きが始まります。ふんどし姿の若衆です。暗くていい写真が撮れないのと海からの北風の冷たさにひるんであえなく撤収しました。

ご隠居のレポートはいまいち突込みが足りないので世に打って出られないということは重々承知しております。

次は午前中に回った大磯の町を案内します。

 

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秩父札所めぐり(28番橋立堂~)

2017年01月18日 | 旅行

カラフルな電車に乗って浦山口駅「秩父鉄道)に降り立ちました。

木造の駅舎を出て川に沿って15分ぐらい歩くと28番札所橋立堂です。

ガードをくぐると駅のホームが上の方に見えました。

木立が生い茂った山道を冬なのに少し汗をかきながら登って行くと大きな岩盤が見えてきました。

高さ65mの切り立った岸壁が覆いかぶさったところに三間、四面に縁を回した朱塗りのお堂が建っています。

本尊には馬頭観音が安置されていますが鎌倉時代のものだそうです。

お寺の隣から入れる橋立鍾乳洞は3月一杯お休みだそうです。

かつて入ってみたことがありますが入口と出口の高低差は33mもあり、小さな鍾乳洞のわりには息が切れた思い出があります。竪穴の鍾乳洞です。

また御朱印をいただく納経所も休みで27番の大渕寺で押してくれるとのこと。

橋立堂の反対側に(ジュリンズジオ)JURIN’S GEOがありました。

途中ここに来るまでに霊場めぐりとは関係なさそうな若いカップルや家族連れに会いましたがここに来ていたようです。

最近でもテレビ朝日のスーパーチャンネルやテレビ東京のL4YOUなどで紹介されました。テレビの影響はやはりすごい。

早速中に入りました。落ち着いた雰囲気です。

話題のスペシャルアイスコーヒー淡雪(あわゆき)を注文しました。720円だったかな。

見た目はとても綺麗でした。

浦山口駅に戻るとちょうど上りのSLパレオエクスプレスがやって来ました。

車輪の軋む音を残しながら豪快に冬の秩父路を駆け抜けていきました。

というわけで28番大渕寺にやって来ました。

山門を抜けると山頂付近に白衣観音が見えました。

昭和10年建立とのことで時代を反映して蓮華ではなくて剣を持っているので護国観音とも言われています。

月影堂

大正8年に汽車の煤煙でで火災にあったそうです。

法律を勉強した人なら(ご隠居は理科系だったのでうろおぼえ)民法の最初の方に武田信玄公が羽織かなんかを掛けたといわれている由緒正しい松が汽車の火の粉で燃えて賠償問題になったとかいうのを勉強したのを思い出すのではないでしょうか。

橋立堂と共にここで押印してもらいました。

今頃の秩父では(横瀬町、小鹿野町、両神地区)各地で氷柱が見られます。

ライトアップされていたりして綺麗です。

寒いけど旅行なさってはいかがでしょうか。

 

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秩父札所めぐり(4番金昌寺)

2017年01月13日 | 旅行

秩父観音霊場の中でもひときわ人気の高い金昌寺です。

大きな草鞋がかかっている仁王門です。34か所の中でも最大級の仁王門です。

門をくぐると石仏群が現れます。

1319体もの石仏です。そこで石仏の寺とも呼ばれています。

石仏の寄進者は江戸、武州をはじめ紀州、越前などの大名家に縁のあるものも見られるそうです。

本堂

子育て観音

寄進者の吉野屋半兵衛が金昌寺のご本尊の霊験で子供を授かったものの、その後子供と妻をあいついで失ったため、生前の母子の姿を浮世師に下絵を書かせて建立、供養した仏像です。

現在では当たり前ですが、当時も人の前で子供にお乳を飲ませるようなことはしなかったそうですよ。

西武鉄道の大きなポスターで有名になりましたね。

 

さて今頃は少し足を延ばして長瀞まで行くと宝登山(ほとさん)の蝋梅(ロウバイ)が満開でしょうか。

ロウバイは中国原産で江戸時代初期に渡来して観賞用に植栽されました。

半透明でにぶいつやのある花びらがまるで蝋細工のようでありかつ蝋月(12月)に咲くことからこの名になったそうです。

甘い香りから英国ではwinter sweetともいわれています。

花言葉は「先導・先見」です。

長瀞ではこの時期まだ舟下りはお休み中ですが代わりにこたつ船があります。

こたつに入ってのんびり荒川の奇岩を眺めるのもいいのではないでしょうか。

 

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秩父札所めぐり(1番四萬部寺)

2017年01月08日 | 旅行

2017年1月も成人式を迎えて列島は日常モードになってきたようです。

まだ寒いので出かける予定がありませんのでご隠居の大好きな秩父の事でも少し紹介してみたいと思います。

どうぞお付き合いください。

秩父へは池袋駅から西武特急レッドアロー号で行くのが便利です。

最近まで吉高由理子さんが金曜日に西武特急で秩父に遊びに行く行くCMがテレビで流れていました。

 

秩父は仏の里とか観音の里とかいわれ信仰の深い人々の住んでいる盆地です。

秩父三十四か所の観音霊場は坂東三十三か所、西国三十三か所と共に日本百番観音に数えられています。

パンフレットには

「一番四萬部寺から三十四番水潜寺まで静寂な山村と美しい自然の風光を背景に一巡約100kmあります。

ある時には谷をわたり、山路をたどり、野ずらを横切っての巡拝は秩父札所ならではのものでしょう。

素朴な風土に培われた秩父札所霊場の観音様は多くの人々から親しまれ、幸せを祈る人々や救いを求める人々に、安らぎとご利益を与えたまうでしょう」

秩父の駅まで行けばレンタカーで2泊3日ぐらいの行程で巡ることができます。

ご隠居も平成十四年の午歳総開帳の時に一回りしました。

最近もよく秩父には出かけるので(秩父に来るとなんだかほっとします)お参りしながらまた御朱印などいただいています。

一番札所 四萬部寺山門

まずここで納経帖など買い求め巡礼の準備をします。

本堂には「施食殿」の額があり関東三大施食のお寺です。

8月24日にはお堂で大施餓鬼が開催され往時には30俵の米を炊き上げ信者や乞食に施したそうです。

本堂

施餓鬼

餓鬼(がき)とは生前に悪行によって亡者の世界に落とされた魂や無縁仏になっているような霊や魂のことを言い常に飢えと乾きに苦しんでいるものです。

そういう人たちに食べ物、飲み物を供物して施すことで餓鬼の供養を行う法要です。

埼玉県では昨年「秩父祭屋台行事と神楽(かぐら)」と「川越氷川祭の山車行事(だしぎょうじ)」がユネスコ無形文化遺産に登録されました。

秩父祭り   12月2日(宵宮)3日(大祭)

川越まつり  10月第3土曜・日曜日

秩父神社のすぐ隣に「秩父まつり会館」があります。

恥ずかしながらご隠居もまだ秩父の夜祭りに行ったたことがありません。

とりあえずここで迫力ある屋台や笠鉾を見学しましょう。

秩父ではどこからでも武甲山が見えます。このへんが癒されますね。

 

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東京日和(東急世田谷線)

2016年12月28日 | 旅行

2016年も冬至が過ぎ、今上陛下のお誕生日、クリスマスイブ、そしてクリスマス。今日はもう御用納めです。

大掃除は済ませたでしょうか。年賀状は?

年末年始に盛り上げる仕事に携わっている方はこれからご苦労様です。

さて先日世田谷ボロ市を紹介しましたがその時ついでに東急世田谷線に乗って沿線を歩いてみました。

東急世田谷線は下高井戸駅から三軒茶屋駅間5km、環状七号線を横切る以外は専用軌道を走っていますが法律上は路面電車ということになっています。

黄色い300形(306F)電車が下高井戸駅を出発します。

一日乗り降り自由の世田谷線散策切符です。

切符を買うと沿線案内のガイドをもらいました。親切。

まずは宮の坂駅で下車。豪徳寺です。

江戸時代初期彦根藩主井伊直孝が菩提寺として再興しました。

井伊家の墓所は寺の一画にありました。

井伊家の墓所は平成20年に国の史跡になりました。

豪徳寺の六地蔵

井伊直粥の墓所。

納経所に行くと招福猫児(まねきねこ)の置物が売られていました。

ご隠居も一つ購入しました。

事務所には開設当時から西新井大師で買ってきた、やる気のない招き猫の「たま」がいるので喧嘩にならないように小さなものにしました。

二匹で切磋琢磨してご隠居の事務所に金運をもたらしてほしいなどと偉そうなこと言ってもだめでしょうね。

招福猫児(まねきねこ)の由来 豪徳寺では招き猫のことをこう書きます。

昔は貧寺にして2,3の雲水修行にしてようやく暮らしを立てていました。時の和尚がわが子のように可愛がっていた猫に「オメェこんなに可愛がっているんだから1万円札でもくわえてこい、いや違った果報を招来してくれよ」とか言ったとか。

その後井伊直孝が鷹狩の帰りに通ったので愛する猫はここぞと門内に招き入れ、直孝は雷雨を避け和尚の法談を聞くことが出来たことを大いに喜び、のちに井伊家菩提所にしたという。

恩を忘れない立派な猫です。ご隠居の所に時たまやってくるに猫の親子におやつをやったりしていますが道で会うと「フン」と知らん顔をしているのとはえらい違いです。

願が成就するとお礼としてここに収めます。

次は上町駅です。ボロ市会場の最寄駅です。

世田谷線の車庫があります。

世田谷区郷土資料館と併設されている「世田谷代官屋敷」があります。

この日は混んでいて寄らなかったので以前に行った写真です。

代官屋敷表門

この前の通がボロ市会場です。なんでもない時にはこんなに静かです。

主屋の南側

東京都の重要文化財に指定されています。

江戸時代中期から彦根藩世田谷領20か所の代官を世襲した大場家の役宅で、大場代官屋敷と言われています。

大名領の代官屋敷としては都内唯一の存在だそうですよ。

郷土資料館に入るとご隠居の好きなスタンプがありました。

立派なスタンプ用紙も置いてあってさすがに東京都は気配りがあります。

次は松陰神社前駅で下車です。

駅名で分かるように5分も歩くと松陰神社です。

安政の大獄で刑死した吉田松陰は南千住の回向院に葬られた後、門下生であった高杉晋作、伊藤博文らによって若林の毛利家屋敷内に移されました。

松下村塾を模した建物もあります。

明治に入るとこの地に社殿が建てられ、松陰神社となりました。

谷を挟んだ向こう側には豪徳寺があります。松陰を刑死させた安政の大獄を起こした井伊直弼の墓があるのであまり居心地はよくないのでは・・・。

さて若林駅を過ぎると電車は環状七号線を横切ることになります。

電車とはいえ信号待ちの事もあります。このへんがちょっと楽しい所です。

やがて電車は終点三軒茶屋駅に到着です。

三軒茶屋は東京でもお洒落な町ですが「すずらん通り」という飲み屋街もありました。

ちょっと一杯飲みたくなる雰囲気ですね。

 

さて2016年の当ブログの旅の紹介はこれで終わりです。

29日、30日、31日と一年でも最も時間がゆっくり流れる時ではないでしょうか。(やることは多くてもやらなくてもだれかに怒られるわけではありませ。面倒くさいことは来年にしましょう)

ということで走ってきた一年間をちょっぴり振り返ってみましょうかね。

 

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鎌倉界隈(大仏さん)

2016年12月18日 | 旅行

日本人、ご隠居もですが大仏、大福、大名とか大のつくものってなんか愛着がありますよね。

鎌倉といえば第一はやっぱり大仏(高徳院)、鎌倉の顔です。いつ行っても混んでいますが最近は外国人も多いようです。

仁王門をくぐって大仏さんとご対面です。

平成28年1月13日から3月10日迄55年ぶりの大修理に入っていました。

修理が終わってますます美男になったかな?

鎌倉大仏、国宝鋼造阿弥陀如来坐像です。

台座を含めた像高13.35m、重さ121tです。

造営当時は金箔で覆われていたそうですよ。

目の周りとかきれいになったような気がしますが・・・。

後ろに回ってみると肩のあたりがかなり太っている感じもします。ついでにイチョウの木の黄葉がすばらしい。

なんだかお笑い芸人の渡辺直美の後ろ姿を思い出しました。

余談ながら彼女は眉サロン「アナスタシア」主催の2016年ベスト眉ニストに選ばれました。

いろいろ賞があるんですね。

さて最後に鎌倉に来たらやっぱり八幡様にお参りして帰りましょうか。

若宮大路二の鳥居

鶴岡八幡宮から由比ヶ浜まで一直線にのびる1.8kmの道が若宮大路です。

その八幡宮よりに500mぐらい作られているのが石塁をつみあげた段葛です。

段葛は「神様が通る道、他には将軍かその後の北条執権に限られていました」

ご隠居なんぞがヘラヘラ歩いているのは恐れ多いことです。

若宮大路と段葛はその昔頼朝の妻、北条政子が懐妊してその安産祈願のために突貫工事で造られたといわれています。

北条政子です。(以下間違っていたらごめんなさい)

簡略すれば政子は流人の身である源頼朝を好きになってしまいます。

それを知った父の北条時政は驚き、平家の仕返しを恐れて娘を「山木判官」(平家一門、平兼隆)に嫁に出そうとします。

しかし政子はそれを嫌って雨降る夜陰に「山木の館」を抜けだし(街灯ひとつない夜道)伊豆の脊梁山脈を越えて増水のため腰までつかりながら川を押し渡って頼朝さんをめざします。

その後

頼朝が死んで43歳の時に尼の姿になります。世からは尼将軍と言われます。

1221年承久の乱がおきます(政子65歳)

関東の武士は後鳥羽上皇に背くことなど思ってもいなかった(京への畏怖があった)

この時政子は幕府の屋内や庭に詰めかけた武士に高々と演説をぶちあげます。

「オメェラ!昔のみじめさや、つらさをわすれたか、そこからオメェラを救い出した幕府の恩をわわすれたか!この馬鹿者」

というようなことをぶちあげ、叱咤された関東武士は大挙西上しました。

なんだかヒラリークリントンみたいです。

ご隠居もだらしない人生を過ごしてきましたがこういうやる気満々の女性と結婚して尻をはたかれながら仕事していればひと財産残せたかもしれません。

今頃言っても遅いけど。

八幡宮の本宮が見えてきました。

なんだか疲れました。今回はここから参拝して撤収します。

 

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