ななきたのご隠居~野崎 幸治

千葉市美浜区で行政書士をしています。
地元では「ななきた(磯辺7丁目北自治会)のご隠居」と言われています。

鎌倉界隈(江の島駅のスズメ)

2017年07月09日 | 旅行

7月になったばかりというのの滅茶苦茶暑いのですがどうなっているのでしょうか。

九州の豪雨で被害にあった方々にはお見舞い申し上げます。

ブログを見てくださっている皆様は体調を崩さないように日々の暮しを頑張ってください。

さて最近TVのニュースでも取り上げられている江の島駅のスズメです。

と言っても「ピコリーノ」(小鳥着きアーチ)です。

車止めのポールが二つ、4羽づつ8羽が止まっています。

洋服が着せてあり毎月着せ替えるそうです。ネットでも話題になり台湾あたりからわざわざこの写真を撮るために来る人がいるそうです。

6月に行ったのでアジサイ模様の服が着せられていました。

駅の右にある江ノ電の売店に勤務していた石川カツコさんという女性が(6年前に定年退職)作成しているそうです。

13年前に冬になると目の前のスズメが寒そうに見えたので何か着せてあげたいと思ったのが始まりだそうです。

ボランテァでみんなを楽しませてくれて偉いなと思いました。

江の島駅。午前中だと何とか来た電車に乗れます(休祝日)

せっかく江の島駅まで来たのでこのブログではまだ紹介していない極楽寺から極楽寺坂切り通しを歩いてみました。

今年の梅雨は雨が降らなくて出かけるのには都合がいいけどとにかく歩いていると暑い。

「極楽寺駅」です。

昔のドラマで「おれたちの朝」という番組を覚えているでしょうか。勝野洋、長谷直美が主演した青春ドラマです。

当時モータリゼーションの影響で江ノ電も利用者が減り廃線の危機にありましたがこのドラマで沢山の人が押しかけて何とかなったそうです。

テレビの影響はすごい。そして今の混雑ぶりが信じられません。

会社も人間も将来どうなるかわからないので今状況が悪くても悲観しないのがいいでしょう。

駅の前に極楽とんぼという店がありました。混んでいるので入りませんでしたが、ご隠居の若い時のあだ名がトンボさんと言われていた頃があったのでなんだか親しみを感じました。

ご隠居自体がみんなから、ごくらくとんぼと見られていました。

極楽寺の山門前ではアジサイが綺麗に咲いていました。

入場無料ですが境内は撮影禁止です。 山門を入ると桜並木が続いていて春はきれいだろうなと思いました。

北条義時の三男、重時の建立。そして僧忍性が開山。最盛期は七堂伽藍を備えた大寺院だったそうですが現在では昔の面影はありません。

忍性は貧民救済や病人の治療に力を注いだそうです。後醍醐天皇より菩薩の称号をいただいています。

忍性がこの井戸の水でかゆを焚いて庶民を救済したそうです。

いつの時代にも困っている人を助ける人がいて世の中続いているのですね。

渡る世間に鬼はなし、人生いたるところ青山ありですね。

 

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いきいき茨城(水郷潮来あやめまつり)

2017年06月25日 | 旅行

さて嫁入り舟のイベントも終わりましたが折角ですからアヤメでも観賞しましょう。

毎年写真教室であっちこっちのショウブやアヤメを撮りに行きます。ちょっと飽きていますが・・・。

水雲橋をいれるとやはり潮来水郷らしいですね。

アヤメとショウブは漢字で書くと同じ「菖蒲」です。

ショウブと言われているもので我々が花を楽しむのが「ハナショウブ」で黄色の目型模様です。

アヤメは網目模様。これにカキツバタなどが加わると訳わからないですね。

結構手入れも大変ですよね。

もうちょっとこっち向いて・・・。はずかしそうでいいですね。

紫もいいですが黄色も鮮やか。ご隠居は黄色が大好きなのでそう思ってしまいます。

日曜日なのでいろいろイベントもありました。

踊りもあります。

何はともあれ「手で漕ぐ船(ろ舟)」に乗ろうと乗り場にやって来ました。

1000円ですから花嫁さんみたいに貸切ではありません。8人の定員です。

エンジン付きの舟も沢山営業していますがやっぱり手動の方が人気ありそうです。午前中は長蛇の列でした。

乗り場の前には綺麗どころが・・・・・・いましたよ。

パンフレットには「あやめ娘が笑顔満開のおもてなし」と書いてあります。

まずは切符を買って乗船しましょう。

ただ乗りすると途中で川におっぽり投げられると困ります。

乗船場の全景です。

無料で笠は貸してくれます。

一時間に一本あるかないかのJR鹿島線が走って行きました。ラッキー。

水鳥も今日は賑やかだなぁと思ているかも。美味しいエサでもくれないかな?

エンジン付きの舟です。

嫁入り船で囃したてていた船がまだいます。

女性の船頭さんは少ないのですが乗り合わせて幸運です。

どのくらい練習すると営業に出られるのかと訊いたら「人それぞですが私は2か月間位でした」

やっぱり運動神経にも依るのかな。

「一日10回以上乗って家に帰ると滅茶苦茶疲れてビールの美味しいこと言葉に表わせられないくらいです」

身体を使う仕事は大変だけど感激もあるんですね。

これは陸運局の免許はいるのかうっかり訊くのを忘れました。

こちらがエンジン付き船(テントが張ってある)の発着場です。

さて30分ばかり川の心地よい風にあったって下船です。

観光ボランテァの男性に長勝寺もいいから行ってみてくださいとのことで寄ってみました。

源頼朝が武運長久を祈願して1182年に創建。鎌倉幕府創設の10年前ですね。その後水戸光圀公が再建したそうです。

禅寺ですね。

頼朝は伊豆で挙兵したものの破れ房総半島に上陸。そしてこの地で再び兵を集めてへ平家追討の戦いを始めたという由緒ある場所です。

この本堂と本尊の阿弥陀三尊は県指定文化財になっています。

ご隠居にとってはご機嫌な休日でした。

 

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いきいき茨城(潮来花嫁さん)

2017年06月21日 | 旅行

水郷潮来(いたこ)あやめまつりに行ってみました。(6月11日)

あやめ園に着くとちょうど満開でした。

水、土、日のイベントとして嫁入り船の運行がありますがちょうどその時間なのでまずは冷やかし半分に見学です。

潮来花嫁さん記念碑

「潮来花嫁さん」という歌がありましたね。

まずこの辺から花嫁の登場です。

長持、両親と共に木の下に花嫁さん。

ろ舟乗り場から乗船。水運橋をくぐります。

舟に乗って花婿さんの待っている場所に行くという設定です。

船は花婿さんの待っている前川水門橋まで向かいます。

前川の両岸には沢山の観光客です。こんなに見られてこっぱずかしくないのかなぁ?

ご隠居はマイナーな人だからみんなに注目されるのは大嫌いです。

おまえみたいな爺さんだれも見ていないよと言われそう。これでもネクタイ絞めてスーツ着て宴会なんかでスピーチなんかするとそこそこなんですよ。

信じられないでしょうけど。

花嫁さんの親戚の人達。

一行は思案橋を通過です。

橋の上から見るととても優雅な感じがします。水も穏やかです。

花嫁さんとご両親。最高に幸せな気分でしょうか?

舟は一度川幅の広い北利根川へ漕ぎ出します。

波も少し大きくなりちょっとなにか不安を感じる時にお婿さんお出迎えという演出でしょうか。

お婿さんが首を長くして出迎えです。

花嫁さんはNHK水戸放送局の女子アナだそうです。

期間中20組の花嫁舟が運行されますが応募者は100組以上あり抽選だそうです。

なんだかんだ言っても良い思い出はなりますよね。

観光客の男性の一人が

「私の女房は隣にいるんですがこれが死んで再婚する場合も嫁入り舟に申し込めますかねぇ?」

役場の人が

「毎回同じような質問される方がいますよ」

何処にもご隠居と同じような口の軽い男がいるんだなあと安心しました。

両親と共に披露宴会場にと向かいます。

末永くお幸せに・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。

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横須賀界隈(観音崎)

2017年06月18日 | 旅行

以前に横須賀市内を歩きましたが浦賀駅に着いたのは夕方だったのでそこで撤収しました。

今回は鶴見駅から京急に乗って再度浦賀駅にやって来ました。

前回撮影した浦賀駅の写真を再度利用しました。

駅からバスで約20分観音崎のバス停に到着です。

観音崎灯台に向かう遊歩道。気候が温暖なんでしょうね。

茂っている木々も常緑樹で暖かい地域にに繁殖しているものが多いようです。

観音洞

昔この洞窟には大蛇が住みつき漁民や海運関係の人々を苦しめていたそうです。

諸国修行の途中でこの地に立ち寄られた行基菩薩は、大蛇を退治してその霊を鵜羽山権現として祀ったと伝えられています。

退治しただけでなく霊を祭ったなんて仏教国だな思います。

丘の上に観音崎灯台が見えてきました。

島国日本、何処に行っても白い灯台と青い海は旅に出たなという感じですよね。

液化天然ガスを運ぶ船舶でしょうか。

毎日電気、ガスを当たり前のように使っていますが海運に頼っているのですね。

灯台の構内に入りました。

ライトのモニュメントがありました。

早速中に入ってみましょう。灯台の内部はどこでも同じようですが来たついでです。

このライトでとんでもないほど遠い海まで照らして海のの安全を守っていたのでしょうか?

最近はレーダーの性能も良くなり、GPSもあり、ありがたみがちょっと薄れているのでしょうか。

日常生活でも車で知らない場所に行くのに地図も持たずろくすっぽ調べもせずナビをつけて出かけます。

途中でナビが使えなくなったらどうしようかなどと思うこともあります。このさき地図を見るなどという頭脳も使わなくなっていいのでしょうか。

なんだかんだ言ってもテラスに出ると風が気持ちがいい。

なんか露出不足で暗い写真になっていますが海が輝いていました。

海だなぁ!

海に囲まれた日本。地震が多くて嫌な部分もありますが美味しい魚が食べられてまあいいか。

 

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東海道(総持寺)

2017年06月15日 | 旅行

鶴見駅に戻り西口を出て、ガード下に並んでいる居酒屋を見ながら夜になると賑やかだろうなと考えながら10分ぐらい歩くと総持寺の参道です。

綺麗に掃除の行き届いた参道を歩きます。

大きな大きな三門が見えてきました。

曹洞宗大本山総持寺、末寺は約15000。50万平方メートルの広大な庭には鳥がさえずり木々の葉が風に騒ぎます。

海側の京浜工業地帯とは全く別の景色です。

百間廊下

ピカピカに磨かれています。

昔小学校の時、放課後木造校舎(いつの話だ?)の教室や廊下を雑巾がけしたのを思い出しました。

バケツの水をみんなぶん撒けて足でぞうきん掛けしたりしてろくなことしていなかった。

世界では学校の掃除は外部の業者に委託しているそうですが日本とか韓国?はいまだに自分たちで掃除しているのでしょうか。

学校には時々用事があって出かけるので今度訊いてみましょう。

儒教の影響があるのでしょうか?

仏殿

能登に開かれた総持寺は1898年火災で焼失しました。

その後能登に再建するか東京近郊に移転するかもめたそうです。

京浜急行電鉄の初代社長の雨宮敬次郎が「寺を東京近郊に持ってこられれば、すぐに金が出来、立派なお寺が出来る」と助言し鶴見の地に建立したそうです。

青い銅葺の屋根の「大祖堂」

総持寺は福井県の永平寺と並ぶ曹洞宗の二大本山です。

歴史が好きな人なら曹洞宗は鎌倉時代に「道元禅師(どうげんぜんじ)」が正伝の仏法を中国から日本に伝えたなんて言うことはよく御存じですよね。

格調高いお寺ですが「座禅会」や「盆踊り」など町の人達との交流も心がけているそうです。

鶴見沖縄県人会会館(一階はおきなわ物産センター)に行ってみました。

ゴーヤチャンプルや沖縄そばなどの店が並んでいて中華街のようになっているのかと思いましたがポチポチあるぐらいでちょっとがっかりしました。

 

明治時代に沖縄からハワイへと移民に向かった人たちが横浜での審査に落ちてしまい帰るに帰れず、横浜で職に就いた。

その後鶴見に工場が増えるとその人たちが住み着いたそうです。敗戦後は占領下の沖縄に戻れず、引揚者の多くは鶴見にとどまった。

そして戦後ブラジル、ボリビアなどへ移民した沖縄の二世、三世が今鶴見に戻ってきているそうです。

 

鶴見の街角の歴史を教えてもらって鶴見の旅は終わりです。

 

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東海道(生麦)

2017年06月09日 | 旅行

鶴見駅から一つ目の国道駅で下車しました。電車は鶴見駅を出てしばらくすると大きく左にカーブして東海道線や京浜急行電鉄の線路を渡ります。

これは上りの鶴見行き電車です。

国道駅は京浜国道(国道15号線)をよこぎっているのでつけられた名前とか。

心霊スポットのような階段を下りて改札を出ます。もちろんこじゃれたエスカレーターなどありません。横浜市鶴見区内の駅です。

改札を出ると高架下のドーム型の洋風建築です。かつては商店や住居が並んでいたようです。

古い古い、不動産屋さんの看板がありました。

さて少し旧東海道を歩いてみましょうか。

あまり海の近くとも感じません。

通りの奥に瑠璃光寺正泉院というお寺がありました。赤い幟がたなびいています。武相不動尊28か所の一つで御開帳の期間だそうです。

街を歩いていると何処に行ってもこんなお寺がすぐあるのがうれしいですね。

「鶴見のえびすさま」といわれて七福神のひとつ、地元で愛されているのでしょう。

戎さんと言われているのでやっぱり海が近いというか漁師さんの神様かな。でもご本尊は薬師如来だそうです。

道念稲荷神社

毎年6月第一日曜日に開催される「蛇も蚊も」祭は有名です。

約300年前に悪疫が流行してカヤで作った蛇体に悪霊を封じ込めて海に流したと言います。

現在も全長20mの大蛇をかついで街を練り歩くそうです。市の指定無形民俗文化財。

今でもアフリカではエボラ熱とか先進国でもインフルエンザのウイルスと闘っています。

人類はパスツールや志賀潔など偉大な人たちが感染症の予防を研究していたんですね。

ご隠居は子供の頃読んだパスツールの伝記が大好きでした。

生麦事件発生現場

1862年8月21日島津久光公の行列に乱入した騎馬のイギリス人たちを供回りの藩士が殺傷(1名死亡、2名重傷)した事件です。

歴史の好きな人なら良く知っているよと言われそうです。

幕府もそれまでもいざこざが多かったので外国人に大名行列にあった際の注意を英文で注意徹底していたそうです。

また島津藩の人達も大きな事件にしたくないので早く馬を降りろと手振り身振りで指示したのでしょう。

しかしそれでかえってパニックに陥った英国人は馬を引き返そうとして行列を乱してしまいます。

小さな事件でも大きな戦争でも偶然の衝突というのは思わぬところから置きそうです。

生麦事件碑(仮移転中)

斬りつけられて逃げ出したチャールズ・レノックス・リチャードソンはこの地で落馬してとどめを刺されました。

リチャードソンは親日家で日本が大好きでこの時も川崎大師に参拝途中で悲劇となってしまいました。

一方的に好意を持っていても結果はひどいことになるなんてあっちこっちにありますよね。

「どんな事があっちこっちにあるんだ」と訊かれると困っちゃいますが。

先日もライオンが大好きな飼育員の女性がどういうわけかこのライオンにかまれて大けがをしました。TVでみたライオンは穏やかな顔をしたメスのライオンでしたよね。

そうそう好きで好きで大好きな女性と結婚したのち、夫婦げんかで蹴飛ばされて骨を折ったなどと言うのもこのたぐいかもしれません。

ようするにね。世の中うまくいかないことが多いんですよ。

 

さらに歩くとおなじみのキリンビールの横浜工場がありました。

千葉から所属する団体のバス旅行で箱根方面に行く途中、とりあえずキリンビールにでも寄ってただのビールでも飲んでいくかという感じの気の毒な工場です。

何回も来ていますが今回は時間もあるので中をぶらぶらしたら公園も奇麗に整備されていてくつろげる所だなと思いました。

生麦という地名に麦酒工場があるのも洒落ていますよね。

京浜急行電鉄の生麦駅に向かいます。(生麦の商店街)

商店街をちょっと横に入ると生麦事件の参考館がありました。行ってみたら事前の予約が必要とのことで入館を断念。

生麦駅。隣の花月園駅が見えるくらい近い距離です。

ご隠居の大好きな1000系電車が来ました。エァポート急行なのでホームへの退避線に入らず本線を轟音と共に疾走していきました。

このあと1000系電車で浦賀まで行って観音崎に足を延ばそうと思いました。

 

東海道中膝栗毛です。

弥次さん北八さんは六郷の渡し(多摩川)をこえて川崎に入り奈良茶漬けで有名な万年屋に腰を掛ける。

(現在では川崎グランドホテルで昼の予約メニューとして奈良茶漬け弁当を用意しているそうです)

勘定をすませ万年屋をあとにすると生麦事件ではないが大名行列に遭います。

先払「下あに下あに。冠り物をとりましょうぞう」

北八「駆落者は、土下座しなくてもいいらしいねぇ」

弥次「なぜ」

北八「耳をほじくってきけよ。冠り物は通りましょうと、言ってらあね」

(冠り者は駆落ちしている人だから?)

先払「馬士(まご)、馬の口をとりましょうぞ」

北八「馬の口も取り外しができるのかい。ははは」

先払「あとの人、背が高いぞ」

弥次「おいらの事ですかい。高いはずよ、愛宕の坂で九文竜どんと背比べした、おあにいさんだ」(九文竜は大関の名前?)

北八「洒落なさんな。ひどい目にあわされるぜ」

弥次「ちょいと見ろ。粒選りの上等の奴ぞろいだ。裾もきりりと端折って、豪勢に尻が並んでらあ。なんのことはねえ、葭町新道、男娼の土用干しってとこだ」

北八「おや、おや、弓をかついでいる人の陣笠を見ねえ。お頭と延引仕り候だ」(笠が高いので首が延びているよう)

弥次「そのうえ、羽織も長すぎるよ。まるで暖簾から金玉がのぞいている、ってかっこうか」

(だんだん品が悪くなるのでこの辺で)

 

 

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東海道(鶴見線に乗って)

2017年06月04日 | 旅行

横浜と川崎にサンドイッチされた鶴見です。東京近郊に住んでいる人でもわざわざ観光に行ってみるという人も少ないのではないでしょうか。

駅前ローターリーは広々として京浜急行の駅もあり大都会です。

まずは鉄道ファンに人気のある鶴見線に乗ってみましょうかね。

東海道線や京浜東北線がバンバン走る一階ホームから2階へ。そして改めてもう一度改札で切符を通します(まだ駅構内です)。

木のベンチもなにかレトロな感じがします。

鶴見線

鶴見ー扇町(7.0km)

浅野ー海芝浦(1.7km)海芝浦支線

武蔵白石ー大川(1.0km)大川支線

という短い路線で鶴見駅から櫛の歯のように先端で枝分かれしたいます。

それでは鶴見駅から乗車です。扇町行きが停車していますが次の大川駅に乗ります。

朝は7時10分と7時55分発の2本だけあとは夕方になります。しかし海芝浦行きや扇町行きは本数があります。

武蔵白石駅から分かれ1kmで終点です。大川駅が見えてきました。

草が生い茂っているのもいいですね。

鶴見線の中でも人気のある大川駅です。

朝の上りも2本だけ。7時55分鶴見駅発に乗車してきたので8時17分で慌ただしく帰ります。

浅野駅まで戻りました。1時間近く待って海芝浦行きに乗ります。

ここから約1.7kmです。

この辺りは東芝の工場群が立ち並んでいます。

海芝浦駅に到着です。

左側は京浜運河です。休日でも乗客が結構いるのは鉄道好きが増えているのでしょうか。

警察が運河をパトロールしています。かつては重工業地帯だったのでしょうが現在は海外に工場を移転してがらすき状態?

首都高速湾岸線鶴見つばさ橋、この先横浜ベイブリッジへと続きます。道路はどんどん整備されていきますね。

海芝浦駅は東芝京浜事業所の敷地内にあるので一般の人は外に出られません。

プラットホームから運河を見るだけです。

TOSHIBAの看板もなんだか寂しそうです。

テレビ朝日の報道ステーションで稲垣編集委員が以前に解説していました。

「東芝、シャープ、豊洲移転問題、どれをとっても日本人の悪い面が出てしまいました。

みんながどこかおかしいと腹の中では思いながらもついつい問題点の指摘に手をあげられなかった。(悪役になるのが嫌で)そしてどうしようもなくなってから大騒ぎになる」

何処の国民も長所、短所があるわけです。

最近「日本人は素晴らしい、日本のここがすごい」とか日本を賞賛する番組も多いようですが冷静に日本人の性格を見ないと次世代に誤ったメーセジを伝えるような気がしますがどうでしょう。

さてもう一度鶴見駅に戻ります。

鶴見大野駅、駅舎全体が昭和ですよね。

安善駅。海側に石油精製工場があるので時間帯によっては石油輸送のタンク車が目一杯停車していることもあります。

終着の扇町駅です。右側には旧日本鋼管の工場群が並んでいます。

撮り鉄、乗り鉄、音鉄のみんなで混んでいます。

休日の過ごし方はいろいろあります。趣味を楽しむのは翌日からの仕事に良い結果が出るでしょう。

たいして目的もなく一日フリー切符で鉄道旅なんていうのも楽しいものです。

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真岡鉄道の旅(益子陶器市)

2017年05月21日 | 旅行

真岡駅より気動車に乗り益子駅にて下車しました。

第99回益子陶器市が開催されていました。5月のゴールデンウィークはどこでも陶器市が盛んなようです。

ご隠居が博多に住んでいた頃、有田の陶器市に行って珈琲カップを買ってきたのを思い出しました。

益子駅には大きなモニュメントがありました。連休のわりには電車が空いているなと思っていたらここから秋葉原行きの高速バス「関東やきものライナー」が出ていてバス停はすごい人でした。

身内が経営しているバス会社かもしれませんが庭先からお客とられているようで鉄道会社の人は気分悪いでしょうね。

駅から広い道幅の「城内坂通」を1kmぐらい歩くと会場である益子焼窯元共販センターに着きました。

大きな大きなタヌキのお出迎いです。

さすがにすごい人です。

いろいろ並んでいますが車で来ないといいものがあっても買う気が出ませんね。重いのでぶら下げて帰るのはちょっと・・・。です。

古本市なんかだと無理して買ってしまうのですが。

地元ばかりではなくて各地から出品されているようです

旧濱田邸にやって来ました。

濱田庄司氏は陶芸家で昭和5年からこの地で数々の作品を制作しました。

陶芸家というとご隠居なんかはすぐに頑固おやじを思い浮かべてしまいます。

しかし濱田氏は現日比谷高校を卒業後、現東京工業大学をへてバーナード・リーチと英国に渡り共同で築窯しています。

ものすごい経歴のエリートです。

人間国宝、紫綬褒章、文化勲章を受章。

この家は江戸時代市貝町で建築されたものを移築、濱田氏が実際に住んでいた萱葺き屋根の邸宅です。町の文化財。

登り窯

山の斜面に造ることで炎の余熱を余すことなく利用できる窯の構造になっているそうです。

つまり少ない薪の数で多くの作品を焼き上げることのできる構造になっています。

時間もないので展示品を見ながら益子駅に戻りましょう。

真岡鉄道の終点茂木駅(もてぎ)にやってきました。

駅舎を出ると広い通りになっていますが人出はまばらです。

途中車窓から見えた道の駅は満車ですごい人でした。

水戸はわかりますが、「那珂川町」「那須烏山町」「常陸大宮町」など地名は知っていますが現在いる立ち位置がぴんときません。

とりあえずSLに乗るのが目的だったのでこのへんで撤収しましょう。

茂木駅構内です。

「SLもおか」も、もうひと頑張りです。気のせいか朝ほど元気がなさそうです。疲れちゃったかな。

医者なんかでも年よりが一日暇なくせに朝早いうちが滅茶苦茶混んでいるのは先生が元気なうちに診てもらうという気持ちでしょうか。

ご隠居なんかは看護師さんに「午後の方が空いていていいよね」と言われるので「先着10名様診察料半額」とかない限り午前中は来ないとか言って威張っています。馬鹿。

失礼して内部をパチリ。蒸気機関車もオートマがあればいいのにと石炭くべている人は思っているかも。

レトロ感ありますね。

あっちこっちでSLが走っているせいか空いていました。午前中の下りの方が混んでいるようです。

乗車記念証

JR各駅であらかじめ整理券を購入しておくと車内で車掌さんがこの切符と替えてくれます。

真岡鉄道各駅でSL乗車券を購入すると写真入った綺麗な切符が貰えます。

さようなら。真岡鉄道。

 

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真岡鉄道の旅(C1266)

2017年05月18日 | 旅行

真岡鉄道(下館~茂木 41.9km)を乗りに5月の連休に出かけました。

 

下館駅に着くと10時35発「SLもおか」が待機していました。

ご老体が休日出勤でも盛んに蒸気をはいています。

「きあいだぁ きあいだぁ きあいだぁぁぁぁーーー」とお客も多そうなので自分に気力を集中させているようです。

これから煙突に鉢巻でもして出発でしょうか。

ご隠居は茂木駅(もてぎ)14時26分発の上りの整理券を購入してあるのでひとまず先発の気動車で出発します。

水戸線の方を振り向くと常磐線からの直通臨時列車が疾走していきます。

おそらく足利フラワーパークに行くのでしょう。連休は列車もたくさん走っていて楽しいですね。

「SLもおか」を撮る人たち。

2016.4.10真岡鉄道は公式Facebookdeでマナーの悪い撮り鉄にもう来ないでと警告して話題になりましたね。

このようにホームで撮っているのはいいのですが他人の住宅に入り勝手に庭の木を切ったり、違法駐車、立ちションとやりたい放題が問題になりました。

久下田駅(くげた)にて下車。

初夏の光の中綺麗に花壇の花が咲いていました。駅員もいないし、乗降客も少ない、駅前に商店街もないのに花好きの人ってどこにもいるんだなと思いました。

さてこの先の跨線橋が撮影ポイントとなっています。あと15分もすると「SLもおか」がやって来ます。

ご隠居走りで急ぎましょう。ご隠居も口は達者ですがまだ石原慎太郎のよなヨタヨタ歩きではありません。

息を切りながら跨線橋の上にやって来ました。遠くに久下田駅が見えます。

あの林間から真っ黒な「SLもおか」がやって来ます。わくわくしますね。

なに?何も感じないですか。趣味が違うとそんなものですね。

ご隠居は乗り物好きですから飛行機の離陸場面、大型船の接岸の瞬間、また車庫証明手続きを長いこと生業にしていたので新車が出たなどと言うとそれぞれ興味がわきます。

しかし友人にヘラブナ釣りの好きな人がいて一日釣れても釣れなくても川だか沼の脇でボーっとしているのは楽しいと言います。

その上せっかく釣れた魚をキャッチアンド何とかでまた放流などと言う話を聞くと考えただけでご隠居は気が狂いそうです。

能書きこいていたらやって来ました待ち人ではなく待ち機関車。

駅にも撮り鉄の人達がチラホラ見えます。

少し上り坂です。

黒煙をあげながらシュッポ、シュポ、ボッーと音が聞こえるような写真になるといいのですが。

跨線橋の上でまともに下から煙を浴びました。昔と違って良質な(高価)石炭を燃しているせいかちょっぴり枯草の香りがしました。

15分ばかり、あっという間の物語でした。このために自宅を7時ごろ出てきました。シャカシャカシャカとシリンダーの音と共に真岡駅方面に向かいます。

SLが去ると今迄通り青空と栃木の爽やかな風が吹いていました。

海や山をじっくり撮るのもいいですがこんなせわしないのも緊張感があっていいですね。

帰りはゆっくり駅に戻るとモオカ14系が交換で停車していました。

この車輌は最初は富士重工で製作されましたがその後同社が鉄道車両の製造から撤退したため最後の車輌です。

現在は日本車両製造で製作しています。

真岡線は沿線がかつて木綿(コットン)の生産地あったことから「コットンウエイ」という愛称になっています。

真岡駅にやって来ました。駅のデザインもSLです。

一応「SLきゅーろく館」が目当てです。12時の運行に合わせています。安・近・短の旅ですが結構忙しい。

正面のシャッターが開いてSL49671のお出ましです。

ヘッドライトが切れてしまった。ヘボアマチュア写真家。モニターには入っていたんだけどと言い訳。

しかし凛々しいお姿です。ご隠居は思わず観音様でも現れたのではないかと「なんまんだ、なんまんだ、なんまんだ」と手を合わせるたくなりました。

この4-9671(キューロク)は1920年川崎造船所で生まれました。94.35t 256万km走行(地球64周)

以来北海道の機関区で活躍しました。1976年廃車その後

真岡駅まで回送、井之頭公園にて静態保存。

2013年圧縮空気を動力源として走行させるようになりました。

石炭で動いているわけではなさそうです。

車掌車に連結。

300円払って車掌車に乗っての体験。子供達には連休の楽しい思い出になりますね。

キューロク館の中からの後ろ姿です。

動輪もピッカピカ。こんな子供だましではなくてまだ営業運転できるぞと言っているみたいです。

 

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奥の細道旅行譚(白石川堤一目千本桜)

2017年05月09日 | 旅行

今回の旅の最後に東北地方屈指の桜の名所に立ち寄りました。大河原町と柴田町にまたがる白石川堤千本桜(しろいしがわづつみいちめせんぼんさくら)です。

芭蕉一行も残念ながら季節が過ぎていたのでこの光景は見られなっかたでしょう。見物したらどんな俳句になったでしょう)桜が咲いたころ新幹線でさっと来られる現代人は幸せです。(4月15日)

JR大河原駅から徒歩約5分大河原橋に出ると白石川沿いに桜また桜です。

なんて表現して良いのかわかりませんが上野公園のお花見のように大騒ぎしている酒飲みばかりが目だつのとは違ったのどかさみたいなものがあります。

東北地方のみんなが心から桜、そして春の訪れを楽しんでいるようです。

しばし桜を楽しみましょう。

大正12年、および昭和2年大河原町出身で東京に出て成功した高山開治郎が白石川沿いに桜の苗木1200本を寄贈したことから始まります。

白石川の桜の品種は殆どがソメイヨシノだそうです。

ご存知のように「オオシマザクラ」と「エドヒガン」の交配種で葉の出る前に咲くのでよけい綺麗です。

乗船時間約30分ですが川からの眺めもまたいいでしょうね。

貰ったパンフレットと同じ場所で撮りました。

蔵王連峰の残雪が見えないのは残念としても迫力がないですよね。縦のアングルで手前の桜をもっと入れるかな。

同じ場所で人間が考え出したカメラという機械で同じように操作しているのに桜の色が出ません。写真教室の先生に今度の授業の時に訊いてみましょう。

長い堤です。柴田町の方にやって来ました。

さて桜絶景ポイントの「しばた千桜橋」に出ました。

カメラを三脚に装着した写真家で一杯でした。何となく入り込む隙間もありません。朝からずうっと来ているのでしょうか。

(すみません、すみません、すみません。千葉から来たこきたねぇじいさんです。一枚撮ったら帰りますので割り込ませてください)

とは言いませんでしたが背の高い青年の隣が少し空いていたので

「ここで一枚撮らせてもらっていいですか」とお願いしたらだまって頷いてくれました。

やれやれ一枚と言わずに2,3枚撮っていくかと(ずうずうしいじいさんです)持ってきた時刻表のコピー見ていました。

その時青年がスマホから目を離して「情報によると下り普通列車は駅が混雑していて15分ぐらい遅れているらしい。上りの貨物は定時運行なのでうまくするとこのへんですれ違うかも」

なんだなんだ不愛想でも気持ちのいい青年じゃん。今どきコピーなんか持ってきてるようじゃどうしようもない、情報はスマホなのだと思いました。

ご隠居みたいに(ヘラヘラ、ペコペコ、ニコニコ)しているようなのは腹の中では何考えているかわからない。

世の中の女性諸君結婚するなら多少とっつきが悪くても気持ちの暖かい人がいいですよ。

とか思っているうちに下りJR719系普通列車がやって行きました。

えらそうに三脚なんか、なくてもそこそこ撮れるじゃん!その安易さが究極を求められないのです。わかっていますよ。

青年の教えてくれたとおり上りの貨物列車がやって来ました。機関車は「桃太郎」かな。

機関車はあっというまに関東地方の操車場目指して行ってしまいました。

下りはその先に船岡駅が見えてきました。

旅の最後に気持ちのよい青年と出会って終わりにしましょう。

 

おまけ

船岡駅です。鯱ほこが立派です。東北本線が特急や急行ががんがん走っていた頃は格調高い駅が沢山あったのでしょう。

大河原駅・船岡駅間3.5kmを桜を見ながら苦も無く歩きました。ここから仙台まで普通列車で行って「やまびこ」で帰途につきました

 

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奥の細道旅行譚(白石城)

2017年05月07日 | 旅行

今回の旅行は本当に桜の綺麗な季節でした。(4月15日)

そこで奥州街道をもう少し北上しました。

白石市です。

白石市は人口約35000人、かつては18000石の城下町です。

伊達62万石の業績と繁栄の影に名参謀「片倉小十郎」の名声があり、明治維新までの260年間の居城となりました。

伊達藩最南端の守りの地「しろいし」です。

公園内に入るとお城が見えてきました。ご隠居の好きな城下町です。ここも桜が満開です。

緩やかな坂を登って城内へと向かいます。お花見のムードが一杯です。

天守閣のある小高い丘の上に出ました。

大手二階門から中に入ります。

お城の(天守閣)全容が見えました。

入場料を払って中に入りましょう。

平成7年、三階櫓(天守閣)と大手門が忠実に木造で復元されました。

以前に紹介した白河城も木造でした。静岡の掛川城なんかも木造とのことです。

大きなお城でもコンクリート造りで中に入るとデパートみたいにいろいろ展示してあるとちょっとがっかりしますよね。

 

以下最上部からの眺めです。

ここから入って来ました。

白石は白石温麺(うーめん)が名物です。

白石市商家資料館に隣接しているやまぶき亭で食べられるそうです。

この時はすごく混んでいて先を急ぐのであきらめました。もともと食にはこだわらない方ですがさすがにここではいつものように牛丼は食べませんでした。

市内には結構おしゃれな店があってパスタが美味しい店に入りました。

白石温麺の由来

今から400年ほど昔(元禄年間、芭蕉の頃です)城下に鈴木味右衛門という人がいました。

味右衛門の父は胃を病んで床に伏し何日も絶食することがありました。

麺ずきの父のため、胃に優しい麺を探し求めていたところ、旅の僧から油を一切使わない麺の製法を教わりました。

これを温めて父にすすめてところ、小麦粉と塩水だけで作られた麺は口触りがなめらかで消化が良く、長年患っていた胃病もたちまち回復に向かったそうです。

殿様がみちのくの人の温かい思いやりを賞で「温麺」と名付けました。

 

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奥の細道旅行譚(甲冑堂)

2017年05月05日 | 旅行

2017年5月の連休、穏やかな日が続いていますが皆様は自宅でのんびり?はたまた観光地ではしゃいでいるでしょうか。

ご隠居は自宅で朝からゆっくりしています。

さて4月に行った奥の細道の紹介が残っていますのでもう少しおつきあいくださいね。

 

芭蕉一行は飯坂温泉を出発して奥州街道を下るわけですが本文には「鐙摺(あぶみずり)・白石の城をすぎ・・」と簡単に記しています。

国見峠、伊達の大木戸をすぎて宮城県に入ってきました。

斎川宿にある甲冑堂です。桜が綺麗でした。

斎川宿も宿場町でしたが寂しそうで見るべき場所もありませんでした。

4号線もバイパスの方に車は行ってしまうので静かです。

ここに佐藤継信、忠信兄弟の妻、楓と初音の木像があります。

鳥居をくぐって振り返るとこんな感じです。

田村神社の境内に甲冑堂はありました。

田村神社は坂上田村麻呂が東征した機会にこの地で斎川沐浴し、鈴鹿大明神の力を借りて村の人達を苦しめていた悪路王、赤頭、青頭の鬼を退治しました。

その徳をしたって村人がこのお寺を建立したそうです。

坂上田村麻呂は日本中どこでもというか東北地方には武勇伝が沢山伝わっています。

日本がもし大陸と繋がっていたらローマ帝国のシーザーみたいにこの御仁も大帝国をつくっていたかもしれませんね。

甲冑堂です。木像は撮影禁止でしたが・・・・

ちょうど扉が開いていたので遠くから写させていただきました。

何となく凛々しい姿が見えます。

芭蕉は医王寺で義経の家来で二人の兄弟の末路に涙を流し、飯坂温泉でのんびり温泉に入り甲冑堂では二人の嫁の哀れさを感じ・・・では筋書きがちぐはぐだなと思ったのでしょうか。

医王寺で一気に世の儚さを盛り上げ、飯坂温泉では自分たちも旅の辛さを感じたように話をもって行ったのでしょうね。

今回の旅はもう少し続きます。

 

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奥の細道旅行譚(飯坂温泉)

2017年04月27日 | 旅行

飯坂温泉駅に着きました。

医王寺駅からは1000系電車(東急電鉄1000系)に乗って来ました。

車内も賑やかなペイントです。

 

さて夕方になったので駅前の観光案内所で温泉旅館を紹介してもらいました。

ご隠居は旅行ではだいたい東横インとかルートインなどビジネスホテルが多くて温泉はどうでもいい人です。

いつもはあっちこっち見て回って遅く着くので温泉旅館だと夕食は最後になっていて、せわしなくお客はもう卓球などやってくつろいでいます。

しかし今回は久しぶりで露天風呂など入りゆっくりしました。

 

翌朝温泉街を少し散策しました。

やっぱり芭蕉さんの像がありました。

駅のわきを流れる摺上川には砂防ダムらしきものがあったりしてかなり山の中なのかなと思いました。

十綱橋から見た温泉街。

川沿いに温泉宿が立ち並んで典型的な日本の温泉地という感じです。左の建物が波来湯(はこゆ)です。1200年の歴史がありますが老朽化していたので2011年に立て替えて日帰り温泉になっています。

川沿いに少し歩いて行くと花水館があります。

「俳聖芭蕉ゆかりの地入り口」の標柱の脇の小道の石段を降りていきます。

小さな公園があり碑には「・・・・芭蕉は5月2日に飯坂に泊まりました。

その頃はすでに温泉地として栄えていましたが芭蕉は土間にむしろを敷いたような、貧しい家に一夜を過ごしました。

その場所が滝の湯であったと伝えられています。

今この滝の湯跡に記念碑を建て・・・・」と書いてあります。

少し戻り鯖湖神社の方に歩きます。

道路が綺麗に整備されていて散策しやすいようになっています。

昔はどこの温泉地でも射的場や古い台を置いたパチンコ屋、ストリップ小屋などゴチャゴチャしていましたが最近は温泉リゾートという感じです。

土産物屋さんなんかも少なくなりました。巨大なホテルの中の売店で買ってしまうのでしょうか?

ちょっと昔が懐かしい感じもします。温泉入った後、ほろ酔い気分で浴衣に下駄をはいてカラコロカラコロ・・・・。

今や夜散歩するにもシャネルの浴衣でも着て(あればの話ですが)出かけるようでしょうか。

鯖湖神社(さばこじんじゃ)。この辺が飯坂の古い元湯があったといわれています。

左側にお湯かけ薬師如来像が立っています。

鯖湖の碑の由来を記した説明板です。

この頃どこでも足湯がありますね。朝早いので誰もいません。

鯖湖湯(さばこゆ)、共同浴場になっています。日本最古の木造建築共同浴場だそうです。

平成5年に改築され御影石の湯船とヒバの香りが素晴らしいそうです。朝っぱらから温泉に入ると疲れそうなので入るのは止めました。

芭蕉も元禄二年にここで入湯したそうですがどんな感じだったのかな?

 

更には「旧堀切邸」に寄ってみました。

立派な屋敷ですが入館無料です。ボランテァの案内する人もいました。

旧堀切邸は江戸時代から続いた豪農・豪商の旧家です。

邸内はきれいに整備されていて掃除なども行き届き気持ちのよい空間です。

主屋。

近代国家に尽くした堀切家の人々。

堀切善兵衛(衆議院議長、イタリア大使)は我国の近代政治史に名を残しました。

堀切善次郎は(東京市長、内務大臣)は関東大震災後の東京復興に尽力しました。

堀切久五郎(衆議院議員)は福島経済界に大きな役割を果たしました。

1775年建築の県内で現存する最大最古の土蔵(十間蔵)。(外壁はリニュアルしています)

中の蔵。道具蔵。

ここにも足湯がありました。

維持費が大変そうですがどこから予算が出ているのかガイドの人に訊くのを忘れました。

 

気持ちのよい町です。もう少し歩いてみました。

町中桜が綺麗です。

芭蕉は「雷が鳴り、雨が降り、寝ている上から漏れ、蚤や蚊がつつき回り眠るどころではない」と書いています。

医王寺で感動した後なので贅沢なことは表現できなかったのでしょうがそれにしても飯坂温泉の人達には気の毒です。

ご隠居が飯坂温泉を褒めてあげたいのですが世間に影響力のない爺さんなのでしょうがないですね。

八幡神社。ちょっと写真がまがってしまいました。

この神社の秋の例大祭は、その激しさから「けんか祭り」と言われています。

神輿を先頭に入り乱れると、神輿の宮入りをはばむ屋台が激しくぶつかりあうそうです。

(飯坂温泉のパンフレットから)

境内に堀切家をたたえる碑がありました。桜によく合っています。

なんだか懐かしい看板です。栄川は福島の銘酒ですよね。ネットの広告より暖かい感じです。

こちらは古い伝統に新しい感覚です。

楽しい街歩きでした。旅は楽しいですね。

 

飯塚の里(後半)

その夜、飯塚に泊まる。

飯塚は飯坂温泉のこと

温泉あれば湯に入りて宿を借るに土坐にむしろを敷きて、あやしき貧家なり。

灯なければ、囲炉裏の火かげに寝所を設けて臥す。

夜に入りて雷鳴り、雨しきりに降りて、臥せる上より漏り、蚤・蚊せせられて眠らず、持病さえ起こりて、消え入るばかりになん。

短夜(みじかよ)の空もやうやう明くればまた旅たちぬ。

なほ夜のなごり心進まず。

まだ昨夜の苦痛が尾を引いて気分も進まない

馬借りて桑折の駅を出づる。

遥かなる行く末をかかへて、かかる病おぼつかなしといへど、羈旅辺土の行脚、捨身無常の観念、道路に死なん、これ天の命なりと、気力いささかとり直し、道縦横に踏んで、伊達の大木戸を越す。

はるかなる前途を控えて心もとないが元来が苦しい旅、田舎道を歩き、代を捨てて無常を観念しているから路上で死んでも本望です。気を取り直して頑張ろう。

 

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奥の細道旅行譚(医王寺)

2017年04月23日 | 旅行

さて福島駅より福島交通飯坂線(福島~飯坂温泉 9.2km)に乗って医王寺に行きました。

賑やかにペイントされた7000系電車(東急電鉄7000系)が入って来ました。

あなたはかつて東京と横浜間の華やかな路線を10輌編成で走っていたのですね。

全線が単線です。笹谷駅で交換です。朝のラッシュ時は3両編成になるとのことで地方の私鉄としては頑張っている方でしょう。

ワンマンではなく女性の車掌さんも乗務していましたよ。

運転席の上に「社会を明るくする運動」のポスターがありました。

今年も7月1日には安倍晋三内閣総理大臣閣下の号令のもと、「社会を明るくする運動」の全国キャンペーンがスタートします。

一年がたつのが早いなと思います。

とか感慨にふけっていると「医王寺駅」に到着です。

駅を降りると案内板の「→」にそって住宅や果樹園の中を歩いて行くと医王寺です。春の陽が暮れかかってきました。

奥の細道では古寺と書いてありますが大木もありなかなか立派です。

芭蕉はここに奉られている佐藤兄弟の墓の前で涙を流し、負け組応援団の俳句を詠みました。

佐藤継信、忠信は源義経の忠臣です。

継信は壇ノ浦で平家の能登の守、教経の引き絞った強弓が義経に向けられたとき、みずからの胸板を以って義経をかばい戦死しました。

忠信は居残って吉野落ちする義経を助けて京の館で討たれました。

本堂です。

二人が義経の元に馳せ参じる日、父親の佐藤元治が近くの館で別れの酒宴を張り桜の杖を地面にさして、もしお前たちが凱旋するようならこの杖は根づいて桜となって咲くだろうと言って戻りました。

桜は根付きましたが二人は戦死しました。元治みずからも頼朝の攻めにあって福島の石那坂で討ち死にします。

判官びいきの日本人にとってはいい話ですね。

さらに話の続きがあります。

古淨瑠璃「八島」四段目です。話を短くすると

義経の立派な家臣として討ち死にした二人の奥さんが(楓と若桜)老母、乙和御前の悲嘆を察し、気丈にも自身の悲しみをこらえて甲冑を身に着けて兄弟の凱旋の勇姿を装い、姑の心を癒したという故事です。

芭蕉の「笈(おい)も太刀も 五月にかざれ 紙幟(かみのぼり)」の句碑

奥の細道では「二人の嫁がしるし」とありますが実際にはこれから行く白石市の甲冑堂にある二人の嫁の軍(いくさ)出立ちの木像から受けた感銘を編集段階で医王寺の項にもってきて一気に話を盛り上げたということになっています。

旅行記でも「川の水は清く、山の木々の緑が輝いてい」たなどと書くだけでは読者は飽きてしまうので編集が必要ですよね。ビデオでも同じです。撮りっぱなしのは観ていてもちっとも面白くない。

宝物殿。 弁慶自筆の下馬札弁慶の笈、義経所要の直垂など展示。 

本文には「寺に入って茶を所望すると、義経の太刀と弁慶の笈があった」とあります。

一方曽良の旅日記では「寺には入らず、西の方を廻って兄弟の墓に行く」となっています。

実際に義経の太刀はここにはなく、芭蕉が見ないで噂だけで文章を書いたみたいですね。

ご隠居も時間が遅くて中に入れなかったのですが、義の太刀がピカピカ光っていて感動したなどと書くと後でばれるので止めておきます。

忠信公、義経公、継信公

継信公・忠信公 墓

本堂の門を出て右に折れると長い杉並木がありますがその奥にあります。うっかりすると見落とします。

春の闇が迫る時間に忠臣の墓の横に桜が見事に咲いていました。

崖の向こうの丸山(二人の育った館)を見ているようです。

時代はどんどん過ぎていきますが花の美しさは変わらないですね。

 

飯塚の里(前半)

月の輪の渡しを超えて、瀬の上という宿に出づ。佐藤庄司が旧跡は、左の山際一里半ばかりにあり。

佐藤庄司は佐藤元治のこと

飯塚の里鯖野(さばの)と聞きて、尋ねたづね行くに、丸山というに尋ねあたる。

これ、庄司が館なり。麓に大手の跡など、人の数ふるにまかせて涙を落とし、またかたわらの古寺に一家の石碑を残す。

人の教えてくれるのに従って、あれこれと懐旧の涙を催した

中にも、二人の嫁のしるし、まずあわれなり。

女なれどもかいがいしき名の世に聞こえつるものかなと、袂をぬらしぬ。

堕涙の石碑も遠きにあらず。

堕涙の石碑とは中国の故事で太守を慕う碑。遠く中国まで求めることもなくここにある。

寺に入りて茶を乞へば、ここに義経の太刀、弁慶の笈をとどめて什物とす。

 

笈も太刀も 五月に飾れ 紙幟

五月の薫風のなかに紙幟が勇ましくひるがえっている。

この寺の寺宝とする弁慶の笈も義経の太刀も、端午の飾り物として晴れ晴れしく飾り、その紙の武勇の歴史を伝えるのが良い。

 

五月朔日のことや

5月1日の事です。

 

「翁の大好きな義経主従の物語のあるお寺に来ましたね」

「うむ。山門には入った時から涙が出そうです」

「みんな主君のために討ち死にしたんですよね。負け組だから弔慰金も出なかったんでしょうね」

「くだらないこというねぇ。勲章や金なんかもらわなくても佐藤兄弟、そして父君、奥方も偉かったのです」

「2人の奥方の木像はこれから行く甲冑堂にあるとガイドに書いてあります」

「いや。物語前半のクライマックスにするためここで見学したことにして読者の涙を誘うことにしよう。そして余韻を残して飯坂温泉に行くのだからかの地で酒飲んで馬鹿騒ぎしたなどと君の旅日記には書くなよ」

「翁、ねつ造記事はだめですよ」

「バカ!本が売れなかったら旅費さえ出なくなる。書生みたいなこと言っているんじゃない」

「馬鹿はないでしょう。だいたい本文で(女なれどもかいがいしき)なんて書くと将来に禍根を残しますよ。これから男女雇用均等法案とか再婚期間の平等とかやかましくなりますよ」

「うるさい!ついでにお寺に寄ってお茶でもご馳走になり義経の太刀も見たと書いておこう。何かの本に説明があったな」

「ますますいい加減。ところで佐藤兄弟の奥方は偉いのが分かりましたが江戸おもての方が騒がしくなっています」

「また幕府の祭りごとがうまくいっていないのかな?」

「老中の奥方の昭恵夫人ですよ」

「昭恵夫人が甲冑でも着て騒いでいるのかね。まさかミニスカってことはないよね」

「違うんです。老中の威を借りてあっちこっちで口利きしているそうです」

「あの人は飲み屋をやったり旅籠を経営したり気さくな人みたいだね」

「気さくなのはいいんですがね。子供の頃から勉強が大嫌いで親がせっかく最高の学問所にだまっていても入れるようにしたのに途中でやめたそうです。

今や元禄もバブルの様相ですが昭恵夫人も扇子打ち開いて遊びまわっていたそうです。若い頃」

「君は古文書とかには弱いけど世間話は好きですね」

「ところで翁、忖度(そんたく)という言葉をご存知ですか」

「人の気持ちを思いやるということなのかな」

「よく言えばそうですけど。役人は昭恵夫人の何げない言葉でも命令に聞こえるそうです」

「私は君に何か言ってもうわの空で空気の読めない男だと思っていますよ」

「そりぁ翁がのどが渇いたといえば酒でも少し飲みたいのかなとも思いますがね。金がもったいないからとぼけているだけです」

「こまった男だねぇ」

「今年の流行語大賞は忖度で決まりですね」

「ご老中は暮れまでもつかね?」

「しぶといから・・・・・・」

 

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奥の細道旅行譚(花見山公園)

2017年04月21日 | 旅行

一度福島駅まで戻り、芭蕉一行の旅には関係ありませんが花見山公園に行ってみました。

東北屈指の桜の名所です。

福島駅から臨時バスが10~15分間隔で運行していますがバス待ちの観光客が長蛇の列です。(午前中)

山全体に桜が咲いています。

平成29年4月12日に日本経済新聞の朝刊に掲載された河野恵夫さん(ふくしま花案内人会長)の記事を一部お借りして紹介します。

「花見山公園は年間に25万人以上が訪れる東北きっての花の名所だ。

だが花よりももっと美しいものがある。そのことを私たちに教えてくれた人物をお話しします」

皆について山裾の方に歩いて行きましょう。

 

「この花見山公園は私有地です。持ち主は阿部さんさんという花卉農家で公園の入ったところにお宅があります」

「山を人々が安らげる場所にしようと考えたのが先代の阿部一郎氏です。この人が花見山公園を今の形にした人で、公園は彼の人生そのものでした」

「一郎氏は1919年に生まれで実家は養蚕農家でした。そのころ世界恐慌の影響で生糸が売れなくなり田畑はおろか家まで手放さなくなりませんでした。

家族は山で摘んだ花を町に売りに行くその日暮らし。だが少しずつ借金を返済して山林を買い戻すことが出来ました」

所々に休憩する場所があります。やっぱり美しい花をたくさん見ても口が淋しいのは何処に行っても同じです。写真が露出不足かな?未熟だなぁ。

 

「一郎は信夫農学校に進学して当時の校長が唱えた言葉に心を打たれました。

それは商人が商魂があるように、農民には「信農魂」が大切。農業は苦しいことの連続だが、どんな時にもなにくそと頑張ることだ。

農家は下肥を使う仕事といわれたが一郎氏は「堂々と胸を張って馬鹿にされない仕事をしたい」と決意したそうです」

「卒業後は家族と共に雑木林を耕し、花を植えた。機械はなく一日に1~3坪しか耕せない。

それでも「苦しみの先には必ず幸せがある」とへこたれなかった」

「戦争で中国に渡り多くの戦友を亡くしました。

戦死した仲間とその家族に申し訳ないという割り切れない気持ちだった。

復員後は以前にもまして農業に打ち込んだのは、平和を強く希求する心があったためだ」

「戦後復興が進むのと足並みをそろえるように農園は発展しました。

花は四季折々に美しい姿を見せるようになりました。

「山を見せてほしい」という人が出てきて、59年には農園を無償で一般開放しました。一郎氏は来園者のためにトイレを設置し、つえを貸出した。

坂道で滑って服を汚した人にはジャージを差し出しました」

「一文の得にもならないのになぜそこまでやるのか。

農業は草花を育てるだけでなく、人の心も育てるもの。だから花を見たいという人には心置きなく見てほしいと話しました」

「花見山が桃源郷にたとえられるのは、一郎氏の人柄が花のように人を引き付けたからだと思う。

13年に93歳で一郎氏は世を去ったがその思いを知ることで、花を見に来た人々の心にも春風が吹いてくれたらうれしい」

 

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