村上和隆
京都事務所:京都市伏見区深草出羽屋敷町23ファミール伏見B905
滋賀支所:滋賀県高島市安曇川町長尾字上塚野1189-10
新:村上和隆総合支援&村上原基人生勉強会
新:関西ISOシニアコンサルタントネットワーク
台東区立育英小学校⇒台東中学校⇒都立白鴎高校⇒東工大⇒大阪松下電器⇒京都エンゼル工業⇒ローム⇒テクノ経営⇒関西ISOシニアコンサルタントネットワーク創業⇒人生勉強会創設
いつでも気軽に人生相談や人生談義にお越し下さい⇒滋賀人生勉強会・クリック
村上原基健康体操塾
山に来るようにお勧めするがあまり都会の人は来ない
でも、時々来る都会人と山で話すと、都会人の傾向が見えてくる
都会の人は何でも際限なく欲しがる
例えば「百円をあげます」当然答えは、「下さい」でしょう
しかし「百万円をあげます」でも答えは、「下さい」なんです
今の私であれば何かもらう必要があった場合に必要な金額だけ貰います
くれるなら、沢山のほうが良いとは思いません
くれるなら幾らでも欲しいという生き方は、結果的に自分を不幸にします
「足るを知る」という言葉がありますが、都会人は金額を指定できません
例えば「3000円欲しい」「3000円で十分です」ということを言えない
「面倒だから1万円持って行け」と言っても3000円だけ貰うべきなんです
足るを知るとは、必要なものと必要な量をきちんと言えることです
けっして「多ければ多いほど良い」「何でも欲しい」というようなことはいけません」
出来そうで、徹底してやろうとすると、案外かなり難しいことですよ
足るを知るというのは、自分にとって足るとはどういう状況かを明確にすることなんです
ある人には、百万円でも、自分は3000円でよいとすることです
ある人には、3000円でも、自分は百万円かもしれませんが、
金額の多い少ないではない、金額をはっきりさせることだと思います
自分にとって足る根拠のある額以上を求めないことです
山にひっそり、質素で地味に暮らしていると、足る基準がハッキリして来るような気がします
山の生き物は、食べ物はこれだけで良いという、足る感覚を身につけているように見えます
それにひきかえ人間は、足る基準が不明確、欲張り・業突張りなんです
無制限の欲望なんですから、逆に欲望は永遠に満たされないどころか、ますます不満がつのる
満足できない、幸福を実感するより、むしろますます不足感に苛まれるのです
山に来た人が私に「雨が降った日に何していますか?」という質問をよくします
山では、雨を幸いに普段できないこと:大工や片づけや室内清掃や執筆や読書やテレビやネット等やることは沢山ある
リタイアーしている私は基本的に暇なんですが、山ではあれこれやることで自然に一日が埋まるのです
忙しくはないがドタバタせんでも、一日は自然に無理なく埋まって行くという感じですね
都会の人は、都会的なもの例えば、買い物、娯楽、お出かけ。お食事みたいなことが頭にあるようです
都会では
家事や大工や野良作業はほとんどない、お金をかけ暇を都会的なもので埋める
都会的なもので埋められない場合、むしろ都会は暇で、その結果退屈・苦痛を感じる
山では
朝から晩まで、草むしり・木々や草花の手入れ・周辺の清掃・収穫・耕作・大工・・・肉体作業が沢山ある
だから雨で、暇ができると普段できない肉体作業以外のことをできるのです
こういうのを晴耕雨読とでも言うのでしょうかね
現実に、見ていると田舎の人はほとんど一日中身体をい使い、汗かき働いている
都会は常に、目いっぱい埋めることに汲々とする
せわしない、落着きがない、豊かで便利なはずなのに、何か退屈そうにしている
すごく快適で便利な環境で、あれこれ欲を満たしているのに、なぜか満足感がない
一体なぜ、あくせく働いて、暇を造り、結果的に、その暇を持て余しているのか
山はコンビニも喫茶店もレストランもない不便な環境でも、精神的には満たされている
まあ
足るを知っている、これくらいが俺の足る基準だ、みたいな感じがする
深刻に悩まない、せかせかしない、退屈なんてない、不満感もない
山の住人として私は、都会暮しでは致し方ないように思う
都会暮らしは、基本的に異常・無駄が多いですからね
都会の人が癒しを求めて田舎に来るというが、わかるような気がする
田舎が薬や注射みたいなもんですが、所詮は対処療法・一時しのぎなんです
しかも田舎で癒されている時でさえ、なにかもっと、もっとと、あれこれ求め続けるように見える
都会人の個人の心の問題ではなく、都会という環境に住む弊害・副作用なんだと思う
海の塩水に住む魚は、淡水には住めないのと同じだ
だから暇を楽しむとか、足るを知るとか、もっとゆったり癒されるには田舎できれば山に住むのが一番
「山って良いなー」なんて言う山の訪問者に「山に住んだら」と言うが答えは、きまってNO・嫌なんですね
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山に来るようにお勧めするがあまり都会の人は来ない
でも、時々来る都会人と山で話すと、都会人の傾向が見えてくる
都会の人は何でも際限なく欲しがる
例えば「百円をあげます」当然答えは、「下さい」でしょう
しかし「百万円をあげます」でも答えは、「下さい」なんです
今の私であれば何かもらう必要があった場合に必要な金額だけ貰います
くれるなら、沢山のほうが良いとは思いません
くれるなら幾らでも欲しいという生き方は、結果的に自分を不幸にします
「足るを知る」という言葉がありますが、都会人は金額を指定できません
例えば「3000円欲しい」「3000円で十分です」ということを言えない
「面倒だから1万円持って行け」と言っても3000円だけ貰うべきなんです
足るを知るとは、必要なものと必要な量をきちんと言えることです
けっして「多ければ多いほど良い」「何でも欲しい」というようなことはいけません」
出来そうで、徹底してやろうとすると、案外かなり難しいことですよ
足るを知るというのは、自分にとって足るとはどういう状況かを明確にすることなんです
ある人には、百万円でも、自分は3000円でよいとすることです
ある人には、3000円でも、自分は百万円かもしれませんが、
金額の多い少ないではない、金額をはっきりさせることだと思います
自分にとって足る根拠のある額以上を求めないことです
山にひっそり、質素で地味に暮らしていると、足る基準がハッキリして来るような気がします
山の生き物は、食べ物はこれだけで良いという、足る感覚を身につけているように見えます
それにひきかえ人間は、足る基準が不明確、欲張り・業突張りなんです
無制限の欲望なんですから、逆に欲望は永遠に満たされないどころか、ますます不満がつのる
満足できない、幸福を実感するより、むしろますます不足感に苛まれるのです
山に来た人が私に「雨が降った日に何していますか?」という質問をよくします
山では、雨を幸いに普段できないこと:大工や片づけや室内清掃や執筆や読書やテレビやネット等やることは沢山ある
リタイアーしている私は基本的に暇なんですが、山ではあれこれやることで自然に一日が埋まるのです
忙しくはないがドタバタせんでも、一日は自然に無理なく埋まって行くという感じですね
都会の人は、都会的なもの例えば、買い物、娯楽、お出かけ。お食事みたいなことが頭にあるようです
都会では
家事や大工や野良作業はほとんどない、お金をかけ暇を都会的なもので埋める
都会的なもので埋められない場合、むしろ都会は暇で、その結果退屈・苦痛を感じる
山では
朝から晩まで、草むしり・木々や草花の手入れ・周辺の清掃・収穫・耕作・大工・・・肉体作業が沢山ある
だから雨で、暇ができると普段できない肉体作業以外のことをできるのです
こういうのを晴耕雨読とでも言うのでしょうかね
現実に、見ていると田舎の人はほとんど一日中身体をい使い、汗かき働いている
都会は常に、目いっぱい埋めることに汲々とする
せわしない、落着きがない、豊かで便利なはずなのに、何か退屈そうにしている
すごく快適で便利な環境で、あれこれ欲を満たしているのに、なぜか満足感がない
一体なぜ、あくせく働いて、暇を造り、結果的に、その暇を持て余しているのか
山はコンビニも喫茶店もレストランもない不便な環境でも、精神的には満たされている
まあ
足るを知っている、これくらいが俺の足る基準だ、みたいな感じがする
深刻に悩まない、せかせかしない、退屈なんてない、不満感もない
山の住人として私は、都会暮しでは致し方ないように思う
都会暮らしは、基本的に異常・無駄が多いですからね
都会の人が癒しを求めて田舎に来るというが、わかるような気がする
田舎が薬や注射みたいなもんですが、所詮は対処療法・一時しのぎなんです
しかも田舎で癒されている時でさえ、なにかもっと、もっとと、あれこれ求め続けるように見える
都会人の個人の心の問題ではなく、都会という環境に住む弊害・副作用なんだと思う
海の塩水に住む魚は、淡水には住めないのと同じだ
だから暇を楽しむとか、足るを知るとか、もっとゆったり癒されるには田舎できれば山に住むのが一番
「山って良いなー」なんて言う山の訪問者に「山に住んだら」と言うが答えは、きまってNO・嫌なんですね