指導や講演を依頼出来ます 村上原基
講演例
・自分の人生論 ・山暮らし ・会話上達 ・素人大工 ・老後の暮らし ・自主防災 ・資産運用 ・
滋賀事務所: 滋賀県高島市安曇川町田中(通称:竹の里)
村上原基人生勉強会
台東区立育英小学校⇒台東中学校⇒都立白鴎高校⇒東工大⇒大阪松下電器⇒京都エンゼル工業⇒
ローム⇒テクノ経営⇒関西ISOシニアコンサルタントネットワーク創業⇒人生勉強会創設
いつでも気軽に人生相談にお越し下さい⇒滋賀支所又は京都事務所へ
出来た・出来ます
テーマ:都会を脱出し山奥で暮そう
山暮らし20年続けた私にとって、都会は、今や地獄か牢獄にしか見えない
そんな私の「都会は素晴らしくない論」だが当然のこと、他人には受け入れられない
しかし、少なくとも私は今、都会で自分の人生論を豊にする自信は全くない
時々京都の我が家に行くが、都会人は、私のそんな気持ちを全く知るよしもない
都会の人は「都会こそもっとも素晴らしい住処」と全く疑いの念を持たない
都会人は今や「田舎に住む経験もなく、都会に住むのが当前」と認識している
その都会人が私とは別世界の人のような、はたして人なのかと疑いさえする
表現が適切ではないが、都会人が「ゾンビ」のように怪し気に見えることも多い
私はかつて松下電器で10年目に、この会社は駄目とあっさり辞職してしまった
それは私は35歳、今から40年前松下電器が最盛期のことであった
親も周辺の人々も呆れていた、「阿保か」「何考えているんだ」「世間知らず」・・・・
その20年後以降、私のこの判断は正しかったとホットしている
同様に、都会についても、駄目を出し、そして私は60歳で都会を見捨ててしまった
(三大都市圏への人口集中が60%近く、特に関東圏への過度な集中の流れを
道州制などで何とか止めるべきだ)
大災害発生時のことを考えて、早めに高齢者だけでも田舎に誘導すべきだ
今後、私の判断は正しかったとなる恐れがあるが、早く都会を見捨てて欲しい
0~55年住んでいた都会が何故そんな悲惨な場所に変わり果ててしまったのか?
少なくとも私には「都会はもう限界だ」「限界は田舎の小集落ではなく、大都会だ」
都会人の思惑に関係なく、都会はどんどんひどくなり、かつ脱出する行先もない
東京に24、大阪4、京都27、すなわち都会に55年、滋賀(山と田舎)20年
もし危うくこの20年を都会で住み続けていたならば、碌な人生ではなかったろう
偶然とは言え、55歳で脱出先を見つけた私ほどの幸運者はいないと思っている
私に言わせれば、都会に住み続ける人は、何も得ずに一生を終える恐れもある
都会の高層ビル化はますます辞退を悪化させつつある、都会崩壊の予兆だ
不自然に異常に高い・大きい・速いものを作るのは、末期症状に近づいている
そんなにリスクを犯してまで無理をするのか?(第二次大戦突入の日本を思い出す)
田舎や山をどうするか以上に、せめてもっと都会にブレーキ・制限を課すべきなのだ
都会は
高層ビル・コンクリート化・巨大交通網・膨大な人・巨大汚染・巨大災害のリスクを増している
順調のうちはよいが、大変化や大災害が起きるととんでもない事態になるが平然としている
マンモスや恐竜が短期間に滅んだことを教訓にしなければならない
(もっと住みやすい魅力的な自然豊かな山や田舎モデルを作るべきだろう)
原点・基本は人生論にある、人としての原則や基本を都会人は忘れている
ちなみに人生論は、なかなか良い師匠との出会いや学ぶ環境が整っていない
誰から教えてもらうかは大事であり、必要な人生論を深く理解しないといけない
立派な人から人生論を聴かされるほどひどく楽しいことはないのだが
友人や先輩の多くが中途半端の偽者であって、本物の人は、ほとんど存在しない
私の場合は、引っ越しや転職や山暮らしの自然体験から人生論を少しづつだが蓄えて来た
元々、私は頭は悪い、人付き合いは下手、知識も乏しく、一人で篭りがちのタイプだったが
読書や講演を聴き、禅僧や偉人からも細々と人世論を長く学び続けて来た
世間では友人は宝だと言うが、さほどの友人もいなかったし、私はそうは思っていない
友人などというものは、さほど重要なことを与えてくれるものではないと思っている
友人とは何なのか未だに私にははっきりさせていないが、私が欲しいのはよき師である
むしろ、自然や異文化体験や古人から重要な教えを得るほうが大切だと考えている
人は堕落しているので師としては不適格であり、自然や古人に学ぶほうがずーっと良い
人のタイプは例えば”知者と仁者”の二つに分けられると言われている
つまらん分類より、自分は、どういう人間的な存在であるかを云々したいものだ
周囲の先輩や友人も、必しも程度の高い人ではないし、本物の知者・仁者もいない
自分と同等程度の友人が多いから、友人がいないと真剣に悔やむ必要もない
友人がいないのならば、それで良しとし本を読み、自分自身で考えるほうがずーと良い
くだらん友人とつまらん議論をするくらいならば、そんな縁は、さっさと断ち切るべきだ
貴方にとって付き合うほどのレベルの人が周辺にいないのだ。それだったら
いっそ私のように山奥で暮らしたり古人に学ぶほうが真の出合いが訪れるはずだ
間違いやすいのは、物や情報や人で溢れる都会にいるほうが何もない山に暮らすより
数倍早くかつ素晴らしい人生論を構築・人間完成できると思い違いしている
ところで少し脱線
65歳以降の私は全く旅行をしなくなった、老いたからかもしれないが
あちこち旅行し知識や見聞を広めるのは少年や若者のすること
旅行は、老人の私の人間的成長に貢献せず、むしろ無駄でしかない
それよりも老い先短い私にとっては、一か所にじっと静かに暮らして
自然と深く交わり自分を静かに見つめることで、仁者としての成長を選ぶべきだ
・旅行好きな人は多く知っているが、単なる物見遊山や買い物ツアー的だ
知者とは到底言えず、本等からの知識は死に知恵・ゴミ知恵になりがち
・多くの本を読み難しいことを言う人を多く知っているが、単なる頭でっかちだ
仁者とは到底言えず、俄か知者が単に仁者を装っているだけのこと
●参考までに(インターネットから抜粋):仁者と知者について、孔子がいう
・仁者は心に私欲がないので、まず自分の行いがたい義務をやり遂げて、
利益を考えることを後回しにする。このようであれば仁者ということができる
仁者は道理の上に安住してその心は山に或る
・知者は事物の道理に通じてその心は水の流れて滞ることのないように動くから、
その好む所は水に在る。
それゆえに、知者は常に快活であるが、仁者は静かに生きるので寿命を長らえる
知者は物に渋滞することがなくて心が活動し、仁者は内からも外からも物に煩わされる .
知者と仁者が合わさると理想的かもしれないが、まあ無理なことのようだ●
知者と仁者の話を出したのは、私も、かつてこんなことを考えたことがなかった
やれ優しいとか真面目とか明るいとか我慢強いとかそんな俗な分類は本質的でない
相手を選ぶような状況では、「仁者だから選んだ」みたいなことを思うべきだ
こういう人間の基本的な分類を当てはめて厳しく自分を分析する必要がある
やや大胆な分類で恐縮だが
・都会人はどちらかというと知者の集まり、頭でっかち
都会人は箱物・店・飲食・人・交通などしかも新しいものがないと耐えられない
何もないところでのんびり出来ない、落ち着きがない
・山や田舎の人は、どちらかというと仁者の集まり、ごく自然な生き方
田舎人は山と川と自然さえあればよい
私の体験から山暮らしを勧めているが、その効果をうまく伝えるのは至難だ
多分イエスも釈迦も孔子でさえも弟子を育てるのが最も難しかったことだろう
想像に過ぎないが、イエスも釈迦も孔子のような偉い人でも
後世に伝えられずに、無名のまま死んだ偉人も多くいただろうが、しかし
キリスト教も仏教も多くの人に伝わったが、世界が平和になっただろうか?
当時は伝わったとしても時代とともに廃れていくなり、歪曲されて行く
禅でも言う、不立文字教外別伝、文字を読めばわかるようなものではないのだ
私も子供や部下の教育が苦手だった、自分の思いを下に伝えるのは至難だ
伝わっているようで全く伝わっていないものだ
生まれてずーっと都会暮らしをして、都会の狭い小屋に篭って老いて行く
私は多くの人が山暮らしや田舎暮らしをすることを、すっかり諦めている
しばしば勧めても、前向きに反応する人が全くいない
山暮らしや田舎暮らしを人生論を高める大事な方法手段とは考えていない
「あまりに素晴らしいことほど他人には伝わり難い」とつくづく思う
世の中そんな程度のものだから、自分だけがあれこれ深刻に悩むことはない
例えばラーメンやグルメやお菓子やお洒落、ゴルフや野球や歌など
どうでもいいことは、多くの人に反応され、いとも簡単に伝わって行く
絵や美術工芸品などは案外、そこそこ後世に伝わっていく
あっという間に伝わるようなことは実は、どうでもよいくだらんことが多い
すごい人気のあることは、私は、実はくだらんことなのだと思っている
景気が良いとか株価が上がったなんてこともくだらんことなのだ
人が関心を示すことなんか、格別大事な事でも何でもないものだ
オリンピックで金メダルなんてのも、実にくだらない、典型である
国民栄誉賞を与えるなんて、政治家の程度の低さを世界に表明するだけだ
金メダルをとった本人も「なぜ国民栄誉賞なんだ」と戸惑っているに違いない
そんな賞を採った人から、私は何も学ぼうとはしないし、全く関心がない
人の考えることや、やることほど、つまらんことはない、最近の私は感動さえしない
心地良いこと・便利・享楽・物質的豊かさなどは人間を堕落する元
こういうものは雑草のように心に蔓延り、抜かずに放置するので生え放題になる
そんなものを次々に追い求める現代人は、どんどん堕落するばかり
現代の中途半端な有識者や宗教家は堕落している自分を自覚し悔いてない
都会で泥まみれ糞まみれの有識者や宗教家の言う事なんか何も信じない
大臣・政治家・先生・経営者・先輩・有識者皆100%信じられる存在ではない
今の自分を大きく変えるような本来望ましいことは、とびきり無理、難しい
安易なことには、人はすぐに飛びつく、難しいことは何だかんだと避ける
イエスも釈迦も孔子も自分だけ成長していることは気がひけただろう
仏陀や孔子レベルの人が身近に沢山いるなんてことはあり得ない
宝くじが当たる確率より低く、ごく稀に仏陀や孔子並みの人がいるだけ
キリストや仏陀や孔子が多くの完璧な弟子達に囲まれたということではない
貴方の周囲にもそんな立派な人がウヨウヨいるわけがないのだ
貴方の友人が何人いようと、いかに好きだろうと、本物の仁者でも知者でもない
もしより良き人生論を手に入れようとすれば、相応の心構えや覚悟が必要である
・孤独、独りぼっちは当たり前、寂しくはないし、何も問題ではない
・俗世間など相手にする必要もなく、友人がいなくても、さほど問題にしない
・孤独は悪くもないし、悲しくも寂しくもなく、むしろ充実している
・苦しみや悩みに打ち負かされず、喜びや励みにする
・暇ではないし、追われるほどの多忙にも陥らない
・他人と係わることが大事と言われているが、煩わしければさほど必要はない
・真剣に自分の人生論を磨かく日々
・人生論を磨くことだけにひたすら集中し努力する
・・・・・・・
人がやっていることは、大したことではなく、一時の享楽であることが多い
享楽的な暮らし・生き方から遠ざからなければ永遠に人生論には出会えない
ごくごく一部の僅かな人が、崇高なものと出会い、素晴らしい人生を体現する
・そういうごく一部の人が享受している格別なことは他に伝わり難い
・いくらテレビや雑誌や講演会や教育しても良いことほど伝わってない
・それは例え親子でも親友でも上司部下でも伝わらない
昔から日本では弟子に教えない、師のやっていることを盗めという
教えるから伝わらないという、一見逆説的な日本的教育方法なのだ
盗めないような程度の人間には素晴らしい人生論が身につくはずもない
素晴らしいことは教えない、教わりたい人間は必死に盗めということ
例えば腰痛を直すのは多分簡単なのだが、現実に真剣に腰痛にならないように
行動している人が少ない、普通の人には良いことが続けられないのだ
良いことほど人は続けられないのだが、続かない人に必死に教える愚かさ
私は60歳以降自分の子供にさえ、親の考えを伝える愚かさを悟った
日本では昔から弟子には手取り足取り教えなかったものらしい
弟子がそれこそ死ぬ覚悟で学ぼうとしたら、少しは目をかけてやる程度だ
私のように山に入って20年、そんな中で自分自身で学び取るものなのだ
山暮らしとか自然という師は、何も教えてはくれない、学び取るしかない
人や都会暮らしから一生懸命学んでも、俗ぽく、人世論を高めてはくれない
「自分がやっていることで素晴らしいと思うことがあれば」誰かに勧めてみなさい
多分相手の人は「そんなに良いことならば私もやってみる」とは言わない
良いことはポスターや張り紙で訴えても一向に良くなることはないものだが
ポスターや張り紙がやたらに貼ってあり、〇〇大会とか〇〇教育などと
賑やかな会社がある、そんな会社が良い会社と勘違いしている会社は多い
張り紙するのも良いが、他人向けはやめ、自分向けにするべきだと思う
貴方が良き師にも出会わず、漫然と、都会で自堕落な暮らしを続けて居れば、
腰痛が良くならないのと同様に、貴方の人生も決して良くはならない
そこで私も山暮らしの素晴らしい体験と結果をブログに掲載はして来たが
しつこく教えようなんてことは止めた、無駄なことを一生懸命やる愚かさに気づいた
「こんな良いことだから、さぞかし人々は気付くだろう」は単なる幻想に過ぎない
タバコを吸う人に、昔はさんざ禁煙を忠告したものだが、20年前から止めた
親や上司も同じような幻想を抱く愚か者・出来損ない、無駄骨折り者達よ
学校教育なんてのも、かろうじて進学テストという魔やかしによって
あたかもきちんと伝わっているような錯覚をしているだけなのだ
よくよく吟味してみると、あまり大したことは伝わていない、
非常に重要なことは学校教育程度のことでは、到底伝わるもんではない
学校教育の限界である、実は、学校教育は先生もシステムも限界教育なのだ
後進国に比較すれば、常識がない・読み書き計算出来ない人は少ない
そして、日本は学校教育によって経済発展して来たと信じられている
でも、多分それは違う、単なる勘違いに過ぎない
戦後の貧しさ、周囲の状況、日本の経済発展の勢いが経済発展をさせたのだ
そんなことを安易に信じていると、今に手痛い反撃に遭うだろう
元々高い教育レベルや日本人の勤勉性や真面目さや協調が主な理由だ
学校教育の貢献度は低く、日本の押し着せのテスト中心の学校教育はひどい
教育というのはもっと多様で教わる側の主体性が大事でかつ体験的であるべき
私の過去を振り返っても、学校教育自体の貢献は、読み書きや常識程度のもの
現代ではテレビやネットがあれば教育だけならば学校の必要はない
よく日本の品質管理、QC活動が日本の品質を上げたというがこれも嘘だろう
日本では、何かそれらしいものを勝手に理由付けにしてしまう傾向がある
何かというと「日本独自の〇〇」とやたらと誇示したがる
時代とともに物事の価値も減っているのに、減らさないよう無駄な努力をする
例えば文化財なども、保存に膨大なお金がかかる一方、観られない使われない
私も文化財や絵画などを観ようとも思わず、実際に観に行くことも全くない
わざわざ県や市が書画骨董を収集するが税金の無駄使い、実に愚かしいことだ
文化財もそろそろ考え直す時期だが、学校教育も大きな曲がり角なのだ
文化財も今の1/10に断捨離して、大半を民間に売却すべきだろうと考えている
日本の過去の学校教育はむしろ多くの弊害がある、副作用が大きい
都会人は幻想にはまり込んでいく、やがてその幻想から抜け出せなくなる
やや無理はあるが、都会暮らしもそろそろ大きな曲がり角に来ていると
真剣に見直す時期が来ている、単に限界集落対策どころではない
・技術革新
・新しい価値・現代人が求めるもの
・社会構造の変化
・個性的生き方
・環境の選択
・巨大災害リスク
・将来的に人口減少
そのような変化の時代に都会より田舎や山を選択する時期が来ると私は確信する
なぜ大都会が超過密で災害にも弱いとわかっていながら更に集まるのだろうか?
「都会は素晴らしいものを沢山与えてくれているだろうか?」多分そうではない
都会人の幻想から抜け出すには。私は強く思う「山暮らしを是非やって欲しい」
世界に冠たる山国日本を忘れてはいませんか?古人は多く山に篭ったものだ
都会が暮らすにふさわしい場所だと思うのも、ほんの束の間かもしれない
北朝鮮が核放棄をするように、都会人に都会を放棄させて欲しいものだ
「北朝鮮の金将軍様を観て、私がふり直せ」と言いたい、異常な姿は直さなければ
よくよく考えて欲しい、物事は時の流れとともに変わるもの・変えるべきものなのだ
というより、基本原点にいつも戻れと言うことなのだが
例はよくないかもしれないが、
お金は大事だ、お金がないと生活に困ってしまう。
しかし、そのお金を増やすことが目的になって必死に追い求めるようになる
お金は手段でなく目的になってしまうのだ
同様に都会に住むことは、単なる手段の一つであるはずが、目的化している
目的化すると、思考の自由度を失い、正しい選択が出来なくなってしまう
現代は錯覚・幻想・思い込み・便利さ偏重・楽追求、そういうものが
更にただでも異常なものを、更なる大きく複雑な異常さへと追いつめている
断捨離は難しい、でもやらなければならないのだが
それが都会暮らしの人にはなかなか出来ないと決めつけることも危ない
最近こんな話があった
・A:私は東京から大阪そして京都更に滋賀の山の中と変わって、
今は滋賀の田舎町に暮らしている。私はもう大都会には戻れない
・B:ある人が福井から京都そして今東京に変わって
今は東京がすごい気に入っていてそのまま住み続けたいそうだ
すなわち、どこで生まれ、その後どこへ移り住んだかは、単に”どこからどこへ”
では済まされない、180度人生論が違ってしまう可能性もあるようだ
更に、この話を少し考えてみよう
1.人によって考え方は180°違うということ(東京は良い/東京は最悪)
2.私Aのように大都会から限界集落に移り住む人は少ない
3.Bさんのように地方から都会に出て田舎に戻らない(戻れない)人は非常に多い
4.そして東京などの大都会の楽しさにどっぷりはまってしまう
5.私は逆にその東京的なものに対する嫌気がどんどん増して行った
都会は良いのではない、良さそうに見えるだけなのだ、
都会は嘘誤魔化し、幻想・蜃気楼に過ぎない、山にはそんなものはない
6.地方から都会に出ることは理解はできるが私としては逆だと思う
.地方から都会に出る人は、都会暮らしの劣悪さや怖さを認識しない
8.劣悪さや怖さより便利さや楽しさに目を奪われて抜けだせなくなる
その結果都会に人が集中してしまう
9.人は、田舎という不便で刺激もなく面白くない場所に戻ろうとはしない
10.私としては大都会から山や田舎に移る人が増えて欲しい
11.政治家が地方再生のために田舎に都会を持ち込むはずだが、大きな間違いだ
12.田舎を観光客目当てにいじらず、田舎は田舎らしくを維持して欲しい
・赤ん坊としてどこで生まれ育ったかは、まず重要だ(出発点)
・その後正反対の場所に移り住んだかが次に重要だ(変革)
・その結果、新しい土地に馴染むか、元の土地に戻るかが鍵だ(評価)
・どこに戻ったか、都会か田舎や山かが結果的に重要だ(結論)
これは住む場所についてだけのことではない。何についても応用できるから
やってみることだ、必ず自分の生き方を深く考え良い結果に導いてくれるだろう
ところで言いにくいが、Bさんのケースは私的には実は不幸なケースなのだ
何もない所に生まれて、東京のように世界一何でもある所に移り住むと
無・空・捨どころか抑えられていた欲望が一挙に爆発してしまう
それに対して私は、
何でもある東京から何もない山に移り住んだが、その差はお分かりだろう
東京に生まれてよかったと思っている。そして関西に単身赴任してよかった
20年の歳月によって、あれこれ実に淡々と捨てられたのだから
実は、AとB以外にもう一タイプあるUターンというやつです
C:田舎生れで東京に出て、最後に田舎にUターンする人もかなりいる
だけどこのCタイプの人がはたしてどうなるかは私にもよく分からない
Aタイプの私は、さんざ都会で暮らした後に山奥にたどり着いたが
Cタイプの人は、
C1:大都会で長く暮らしたが絶望し、田舎にもどる人
C2:大都会の暮らしに耐えられなかった人で、かなり多い
それでは、単に田舎に逃げ帰っただけのことで人生論的には不完全だ
何事も一度暮らし始めたら、すぐに逃げてしまうのは私としては駄目だと思う
だから、山奥に高齢になるまで住んでいるご老人は尊敬に値する
田舎から東京に出てきて、出世して大金持ちになり大きな家や高級車を持つ
それがその人の人生論なのだろうが、そんな人は世界に沢山いるが、
私はそんな人生が素晴らしなどと微塵も思わない今日である
イチローや松井選手をはじめ、所謂成功物語を人生論の中核に据えてはならない
そんな人間は、その程度と考えて勝手にやらせ・威張らせておけばよいのだ
世の中競技や金儲けには必ず何人か成功者が出るので、彼らが素晴らしいのではない
宝くじもなかなか当たらないが、当選者は誰か100%必ず存在するようなものだ
「一生何も変わらずに生まれた状態のままだった」という人もあろうが
一度も会社を転職をしなかった人も同様であるが
そのような人生論は非常に浅く、起伏のない、つまらんものになる恐れがある
圧倒的に都会派が多いので田舎も都会的になっていくのだろうが、残念だ
都会と言うところは、私の実感であるが、退廃的・自堕落にする風呂みたいなもの
自然以外なにもない山奥では退廃的・自堕落にする風呂はない
限界なのは、むしろ大都会、それを田舎に導入するのはわざわざ悪くするようなもの
例の賭博場を作るという話も退廃的・自堕落を増やすだけのことだ
都会とはそういうものだが、砂糖に群がる蟻みたいに人は都会に密集していく
人間は便利さ・楽・贅沢を求めバカ殿様や金持ちのバカ息子のようになっていく
しかしそんなものを幾ら手に入れたところで、人間は成長するどころか衰退していく
私が、若くて元気だったら、本格的な山奥に入り静かに暮らしてみたかった
ざんねーん
都会は庭のない家が多くピント来ないかもしれないが、田舎では庭や空き地がある
ところがアジサイなどは、買って来た時は小さいが、庭植えし数年する巨大化する
近所の玄関横の庭にアジサイが巨大化していた。抜こうとトライしたが2時間かかった
講演例
・自分の人生論 ・山暮らし ・会話上達 ・素人大工 ・老後の暮らし ・自主防災 ・資産運用 ・
滋賀事務所: 滋賀県高島市安曇川町田中(通称:竹の里)
村上原基人生勉強会
台東区立育英小学校⇒台東中学校⇒都立白鴎高校⇒東工大⇒大阪松下電器⇒京都エンゼル工業⇒
ローム⇒テクノ経営⇒関西ISOシニアコンサルタントネットワーク創業⇒人生勉強会創設
いつでも気軽に人生相談にお越し下さい⇒滋賀支所又は京都事務所へ
出来た・出来ます
テーマ:都会を脱出し山奥で暮そう
山暮らし20年続けた私にとって、都会は、今や地獄か牢獄にしか見えない
そんな私の「都会は素晴らしくない論」だが当然のこと、他人には受け入れられない
しかし、少なくとも私は今、都会で自分の人生論を豊にする自信は全くない
時々京都の我が家に行くが、都会人は、私のそんな気持ちを全く知るよしもない
都会の人は「都会こそもっとも素晴らしい住処」と全く疑いの念を持たない
都会人は今や「田舎に住む経験もなく、都会に住むのが当前」と認識している
その都会人が私とは別世界の人のような、はたして人なのかと疑いさえする
表現が適切ではないが、都会人が「ゾンビ」のように怪し気に見えることも多い
私はかつて松下電器で10年目に、この会社は駄目とあっさり辞職してしまった
それは私は35歳、今から40年前松下電器が最盛期のことであった
親も周辺の人々も呆れていた、「阿保か」「何考えているんだ」「世間知らず」・・・・
その20年後以降、私のこの判断は正しかったとホットしている
同様に、都会についても、駄目を出し、そして私は60歳で都会を見捨ててしまった
(三大都市圏への人口集中が60%近く、特に関東圏への過度な集中の流れを
道州制などで何とか止めるべきだ)
大災害発生時のことを考えて、早めに高齢者だけでも田舎に誘導すべきだ
今後、私の判断は正しかったとなる恐れがあるが、早く都会を見捨てて欲しい
0~55年住んでいた都会が何故そんな悲惨な場所に変わり果ててしまったのか?
少なくとも私には「都会はもう限界だ」「限界は田舎の小集落ではなく、大都会だ」
都会人の思惑に関係なく、都会はどんどんひどくなり、かつ脱出する行先もない
東京に24、大阪4、京都27、すなわち都会に55年、滋賀(山と田舎)20年
もし危うくこの20年を都会で住み続けていたならば、碌な人生ではなかったろう
偶然とは言え、55歳で脱出先を見つけた私ほどの幸運者はいないと思っている
私に言わせれば、都会に住み続ける人は、何も得ずに一生を終える恐れもある
都会の高層ビル化はますます辞退を悪化させつつある、都会崩壊の予兆だ
不自然に異常に高い・大きい・速いものを作るのは、末期症状に近づいている
そんなにリスクを犯してまで無理をするのか?(第二次大戦突入の日本を思い出す)
田舎や山をどうするか以上に、せめてもっと都会にブレーキ・制限を課すべきなのだ
都会は
高層ビル・コンクリート化・巨大交通網・膨大な人・巨大汚染・巨大災害のリスクを増している
順調のうちはよいが、大変化や大災害が起きるととんでもない事態になるが平然としている
マンモスや恐竜が短期間に滅んだことを教訓にしなければならない
(もっと住みやすい魅力的な自然豊かな山や田舎モデルを作るべきだろう)
原点・基本は人生論にある、人としての原則や基本を都会人は忘れている
ちなみに人生論は、なかなか良い師匠との出会いや学ぶ環境が整っていない
誰から教えてもらうかは大事であり、必要な人生論を深く理解しないといけない
立派な人から人生論を聴かされるほどひどく楽しいことはないのだが
友人や先輩の多くが中途半端の偽者であって、本物の人は、ほとんど存在しない
私の場合は、引っ越しや転職や山暮らしの自然体験から人生論を少しづつだが蓄えて来た
元々、私は頭は悪い、人付き合いは下手、知識も乏しく、一人で篭りがちのタイプだったが
読書や講演を聴き、禅僧や偉人からも細々と人世論を長く学び続けて来た
世間では友人は宝だと言うが、さほどの友人もいなかったし、私はそうは思っていない
友人などというものは、さほど重要なことを与えてくれるものではないと思っている
友人とは何なのか未だに私にははっきりさせていないが、私が欲しいのはよき師である
むしろ、自然や異文化体験や古人から重要な教えを得るほうが大切だと考えている
人は堕落しているので師としては不適格であり、自然や古人に学ぶほうがずーっと良い
人のタイプは例えば”知者と仁者”の二つに分けられると言われている
つまらん分類より、自分は、どういう人間的な存在であるかを云々したいものだ
周囲の先輩や友人も、必しも程度の高い人ではないし、本物の知者・仁者もいない
自分と同等程度の友人が多いから、友人がいないと真剣に悔やむ必要もない
友人がいないのならば、それで良しとし本を読み、自分自身で考えるほうがずーと良い
くだらん友人とつまらん議論をするくらいならば、そんな縁は、さっさと断ち切るべきだ
貴方にとって付き合うほどのレベルの人が周辺にいないのだ。それだったら
いっそ私のように山奥で暮らしたり古人に学ぶほうが真の出合いが訪れるはずだ
間違いやすいのは、物や情報や人で溢れる都会にいるほうが何もない山に暮らすより
数倍早くかつ素晴らしい人生論を構築・人間完成できると思い違いしている
ところで少し脱線
65歳以降の私は全く旅行をしなくなった、老いたからかもしれないが
あちこち旅行し知識や見聞を広めるのは少年や若者のすること
旅行は、老人の私の人間的成長に貢献せず、むしろ無駄でしかない
それよりも老い先短い私にとっては、一か所にじっと静かに暮らして
自然と深く交わり自分を静かに見つめることで、仁者としての成長を選ぶべきだ
・旅行好きな人は多く知っているが、単なる物見遊山や買い物ツアー的だ
知者とは到底言えず、本等からの知識は死に知恵・ゴミ知恵になりがち
・多くの本を読み難しいことを言う人を多く知っているが、単なる頭でっかちだ
仁者とは到底言えず、俄か知者が単に仁者を装っているだけのこと
●参考までに(インターネットから抜粋):仁者と知者について、孔子がいう
・仁者は心に私欲がないので、まず自分の行いがたい義務をやり遂げて、
利益を考えることを後回しにする。このようであれば仁者ということができる
仁者は道理の上に安住してその心は山に或る
・知者は事物の道理に通じてその心は水の流れて滞ることのないように動くから、
その好む所は水に在る。
それゆえに、知者は常に快活であるが、仁者は静かに生きるので寿命を長らえる
知者は物に渋滞することがなくて心が活動し、仁者は内からも外からも物に煩わされる .
知者と仁者が合わさると理想的かもしれないが、まあ無理なことのようだ●
知者と仁者の話を出したのは、私も、かつてこんなことを考えたことがなかった
やれ優しいとか真面目とか明るいとか我慢強いとかそんな俗な分類は本質的でない
相手を選ぶような状況では、「仁者だから選んだ」みたいなことを思うべきだ
こういう人間の基本的な分類を当てはめて厳しく自分を分析する必要がある
やや大胆な分類で恐縮だが
・都会人はどちらかというと知者の集まり、頭でっかち
都会人は箱物・店・飲食・人・交通などしかも新しいものがないと耐えられない
何もないところでのんびり出来ない、落ち着きがない
・山や田舎の人は、どちらかというと仁者の集まり、ごく自然な生き方
田舎人は山と川と自然さえあればよい
私の体験から山暮らしを勧めているが、その効果をうまく伝えるのは至難だ
多分イエスも釈迦も孔子でさえも弟子を育てるのが最も難しかったことだろう
想像に過ぎないが、イエスも釈迦も孔子のような偉い人でも
後世に伝えられずに、無名のまま死んだ偉人も多くいただろうが、しかし
キリスト教も仏教も多くの人に伝わったが、世界が平和になっただろうか?
当時は伝わったとしても時代とともに廃れていくなり、歪曲されて行く
禅でも言う、不立文字教外別伝、文字を読めばわかるようなものではないのだ
私も子供や部下の教育が苦手だった、自分の思いを下に伝えるのは至難だ
伝わっているようで全く伝わっていないものだ
生まれてずーっと都会暮らしをして、都会の狭い小屋に篭って老いて行く
私は多くの人が山暮らしや田舎暮らしをすることを、すっかり諦めている
しばしば勧めても、前向きに反応する人が全くいない
山暮らしや田舎暮らしを人生論を高める大事な方法手段とは考えていない
「あまりに素晴らしいことほど他人には伝わり難い」とつくづく思う
世の中そんな程度のものだから、自分だけがあれこれ深刻に悩むことはない
例えばラーメンやグルメやお菓子やお洒落、ゴルフや野球や歌など
どうでもいいことは、多くの人に反応され、いとも簡単に伝わって行く
絵や美術工芸品などは案外、そこそこ後世に伝わっていく
あっという間に伝わるようなことは実は、どうでもよいくだらんことが多い
すごい人気のあることは、私は、実はくだらんことなのだと思っている
景気が良いとか株価が上がったなんてこともくだらんことなのだ
人が関心を示すことなんか、格別大事な事でも何でもないものだ
オリンピックで金メダルなんてのも、実にくだらない、典型である
国民栄誉賞を与えるなんて、政治家の程度の低さを世界に表明するだけだ
金メダルをとった本人も「なぜ国民栄誉賞なんだ」と戸惑っているに違いない
そんな賞を採った人から、私は何も学ぼうとはしないし、全く関心がない
人の考えることや、やることほど、つまらんことはない、最近の私は感動さえしない
心地良いこと・便利・享楽・物質的豊かさなどは人間を堕落する元
こういうものは雑草のように心に蔓延り、抜かずに放置するので生え放題になる
そんなものを次々に追い求める現代人は、どんどん堕落するばかり
現代の中途半端な有識者や宗教家は堕落している自分を自覚し悔いてない
都会で泥まみれ糞まみれの有識者や宗教家の言う事なんか何も信じない
大臣・政治家・先生・経営者・先輩・有識者皆100%信じられる存在ではない
今の自分を大きく変えるような本来望ましいことは、とびきり無理、難しい
安易なことには、人はすぐに飛びつく、難しいことは何だかんだと避ける
イエスも釈迦も孔子も自分だけ成長していることは気がひけただろう
仏陀や孔子レベルの人が身近に沢山いるなんてことはあり得ない
宝くじが当たる確率より低く、ごく稀に仏陀や孔子並みの人がいるだけ
キリストや仏陀や孔子が多くの完璧な弟子達に囲まれたということではない
貴方の周囲にもそんな立派な人がウヨウヨいるわけがないのだ
貴方の友人が何人いようと、いかに好きだろうと、本物の仁者でも知者でもない
もしより良き人生論を手に入れようとすれば、相応の心構えや覚悟が必要である
・孤独、独りぼっちは当たり前、寂しくはないし、何も問題ではない
・俗世間など相手にする必要もなく、友人がいなくても、さほど問題にしない
・孤独は悪くもないし、悲しくも寂しくもなく、むしろ充実している
・苦しみや悩みに打ち負かされず、喜びや励みにする
・暇ではないし、追われるほどの多忙にも陥らない
・他人と係わることが大事と言われているが、煩わしければさほど必要はない
・真剣に自分の人生論を磨かく日々
・人生論を磨くことだけにひたすら集中し努力する
・・・・・・・
人がやっていることは、大したことではなく、一時の享楽であることが多い
享楽的な暮らし・生き方から遠ざからなければ永遠に人生論には出会えない
ごくごく一部の僅かな人が、崇高なものと出会い、素晴らしい人生を体現する
・そういうごく一部の人が享受している格別なことは他に伝わり難い
・いくらテレビや雑誌や講演会や教育しても良いことほど伝わってない
・それは例え親子でも親友でも上司部下でも伝わらない
昔から日本では弟子に教えない、師のやっていることを盗めという
教えるから伝わらないという、一見逆説的な日本的教育方法なのだ
盗めないような程度の人間には素晴らしい人生論が身につくはずもない
素晴らしいことは教えない、教わりたい人間は必死に盗めということ
例えば腰痛を直すのは多分簡単なのだが、現実に真剣に腰痛にならないように
行動している人が少ない、普通の人には良いことが続けられないのだ
良いことほど人は続けられないのだが、続かない人に必死に教える愚かさ
私は60歳以降自分の子供にさえ、親の考えを伝える愚かさを悟った
日本では昔から弟子には手取り足取り教えなかったものらしい
弟子がそれこそ死ぬ覚悟で学ぼうとしたら、少しは目をかけてやる程度だ
私のように山に入って20年、そんな中で自分自身で学び取るものなのだ
山暮らしとか自然という師は、何も教えてはくれない、学び取るしかない
人や都会暮らしから一生懸命学んでも、俗ぽく、人世論を高めてはくれない
「自分がやっていることで素晴らしいと思うことがあれば」誰かに勧めてみなさい
多分相手の人は「そんなに良いことならば私もやってみる」とは言わない
良いことはポスターや張り紙で訴えても一向に良くなることはないものだが
ポスターや張り紙がやたらに貼ってあり、〇〇大会とか〇〇教育などと
賑やかな会社がある、そんな会社が良い会社と勘違いしている会社は多い
張り紙するのも良いが、他人向けはやめ、自分向けにするべきだと思う
貴方が良き師にも出会わず、漫然と、都会で自堕落な暮らしを続けて居れば、
腰痛が良くならないのと同様に、貴方の人生も決して良くはならない
そこで私も山暮らしの素晴らしい体験と結果をブログに掲載はして来たが
しつこく教えようなんてことは止めた、無駄なことを一生懸命やる愚かさに気づいた
「こんな良いことだから、さぞかし人々は気付くだろう」は単なる幻想に過ぎない
タバコを吸う人に、昔はさんざ禁煙を忠告したものだが、20年前から止めた
親や上司も同じような幻想を抱く愚か者・出来損ない、無駄骨折り者達よ
学校教育なんてのも、かろうじて進学テストという魔やかしによって
あたかもきちんと伝わっているような錯覚をしているだけなのだ
よくよく吟味してみると、あまり大したことは伝わていない、
非常に重要なことは学校教育程度のことでは、到底伝わるもんではない
学校教育の限界である、実は、学校教育は先生もシステムも限界教育なのだ
後進国に比較すれば、常識がない・読み書き計算出来ない人は少ない
そして、日本は学校教育によって経済発展して来たと信じられている
でも、多分それは違う、単なる勘違いに過ぎない
戦後の貧しさ、周囲の状況、日本の経済発展の勢いが経済発展をさせたのだ
そんなことを安易に信じていると、今に手痛い反撃に遭うだろう
元々高い教育レベルや日本人の勤勉性や真面目さや協調が主な理由だ
学校教育の貢献度は低く、日本の押し着せのテスト中心の学校教育はひどい
教育というのはもっと多様で教わる側の主体性が大事でかつ体験的であるべき
私の過去を振り返っても、学校教育自体の貢献は、読み書きや常識程度のもの
現代ではテレビやネットがあれば教育だけならば学校の必要はない
よく日本の品質管理、QC活動が日本の品質を上げたというがこれも嘘だろう
日本では、何かそれらしいものを勝手に理由付けにしてしまう傾向がある
何かというと「日本独自の〇〇」とやたらと誇示したがる
時代とともに物事の価値も減っているのに、減らさないよう無駄な努力をする
例えば文化財なども、保存に膨大なお金がかかる一方、観られない使われない
私も文化財や絵画などを観ようとも思わず、実際に観に行くことも全くない
わざわざ県や市が書画骨董を収集するが税金の無駄使い、実に愚かしいことだ
文化財もそろそろ考え直す時期だが、学校教育も大きな曲がり角なのだ
文化財も今の1/10に断捨離して、大半を民間に売却すべきだろうと考えている
日本の過去の学校教育はむしろ多くの弊害がある、副作用が大きい
都会人は幻想にはまり込んでいく、やがてその幻想から抜け出せなくなる
やや無理はあるが、都会暮らしもそろそろ大きな曲がり角に来ていると
真剣に見直す時期が来ている、単に限界集落対策どころではない
・技術革新
・新しい価値・現代人が求めるもの
・社会構造の変化
・個性的生き方
・環境の選択
・巨大災害リスク
・将来的に人口減少
そのような変化の時代に都会より田舎や山を選択する時期が来ると私は確信する
なぜ大都会が超過密で災害にも弱いとわかっていながら更に集まるのだろうか?
「都会は素晴らしいものを沢山与えてくれているだろうか?」多分そうではない
都会人の幻想から抜け出すには。私は強く思う「山暮らしを是非やって欲しい」
世界に冠たる山国日本を忘れてはいませんか?古人は多く山に篭ったものだ
都会が暮らすにふさわしい場所だと思うのも、ほんの束の間かもしれない
北朝鮮が核放棄をするように、都会人に都会を放棄させて欲しいものだ
「北朝鮮の金将軍様を観て、私がふり直せ」と言いたい、異常な姿は直さなければ
よくよく考えて欲しい、物事は時の流れとともに変わるもの・変えるべきものなのだ
というより、基本原点にいつも戻れと言うことなのだが
例はよくないかもしれないが、
お金は大事だ、お金がないと生活に困ってしまう。
しかし、そのお金を増やすことが目的になって必死に追い求めるようになる
お金は手段でなく目的になってしまうのだ
同様に都会に住むことは、単なる手段の一つであるはずが、目的化している
目的化すると、思考の自由度を失い、正しい選択が出来なくなってしまう
現代は錯覚・幻想・思い込み・便利さ偏重・楽追求、そういうものが
更にただでも異常なものを、更なる大きく複雑な異常さへと追いつめている
断捨離は難しい、でもやらなければならないのだが
それが都会暮らしの人にはなかなか出来ないと決めつけることも危ない
最近こんな話があった
・A:私は東京から大阪そして京都更に滋賀の山の中と変わって、
今は滋賀の田舎町に暮らしている。私はもう大都会には戻れない
・B:ある人が福井から京都そして今東京に変わって
今は東京がすごい気に入っていてそのまま住み続けたいそうだ
すなわち、どこで生まれ、その後どこへ移り住んだかは、単に”どこからどこへ”
では済まされない、180度人生論が違ってしまう可能性もあるようだ
更に、この話を少し考えてみよう
1.人によって考え方は180°違うということ(東京は良い/東京は最悪)
2.私Aのように大都会から限界集落に移り住む人は少ない
3.Bさんのように地方から都会に出て田舎に戻らない(戻れない)人は非常に多い
4.そして東京などの大都会の楽しさにどっぷりはまってしまう
5.私は逆にその東京的なものに対する嫌気がどんどん増して行った
都会は良いのではない、良さそうに見えるだけなのだ、
都会は嘘誤魔化し、幻想・蜃気楼に過ぎない、山にはそんなものはない
6.地方から都会に出ることは理解はできるが私としては逆だと思う
.地方から都会に出る人は、都会暮らしの劣悪さや怖さを認識しない
8.劣悪さや怖さより便利さや楽しさに目を奪われて抜けだせなくなる
その結果都会に人が集中してしまう
9.人は、田舎という不便で刺激もなく面白くない場所に戻ろうとはしない
10.私としては大都会から山や田舎に移る人が増えて欲しい
11.政治家が地方再生のために田舎に都会を持ち込むはずだが、大きな間違いだ
12.田舎を観光客目当てにいじらず、田舎は田舎らしくを維持して欲しい
・赤ん坊としてどこで生まれ育ったかは、まず重要だ(出発点)
・その後正反対の場所に移り住んだかが次に重要だ(変革)
・その結果、新しい土地に馴染むか、元の土地に戻るかが鍵だ(評価)
・どこに戻ったか、都会か田舎や山かが結果的に重要だ(結論)
これは住む場所についてだけのことではない。何についても応用できるから
やってみることだ、必ず自分の生き方を深く考え良い結果に導いてくれるだろう
ところで言いにくいが、Bさんのケースは私的には実は不幸なケースなのだ
何もない所に生まれて、東京のように世界一何でもある所に移り住むと
無・空・捨どころか抑えられていた欲望が一挙に爆発してしまう
それに対して私は、
何でもある東京から何もない山に移り住んだが、その差はお分かりだろう
東京に生まれてよかったと思っている。そして関西に単身赴任してよかった
20年の歳月によって、あれこれ実に淡々と捨てられたのだから
実は、AとB以外にもう一タイプあるUターンというやつです
C:田舎生れで東京に出て、最後に田舎にUターンする人もかなりいる
だけどこのCタイプの人がはたしてどうなるかは私にもよく分からない
Aタイプの私は、さんざ都会で暮らした後に山奥にたどり着いたが
Cタイプの人は、
C1:大都会で長く暮らしたが絶望し、田舎にもどる人
C2:大都会の暮らしに耐えられなかった人で、かなり多い
それでは、単に田舎に逃げ帰っただけのことで人生論的には不完全だ
何事も一度暮らし始めたら、すぐに逃げてしまうのは私としては駄目だと思う
だから、山奥に高齢になるまで住んでいるご老人は尊敬に値する
田舎から東京に出てきて、出世して大金持ちになり大きな家や高級車を持つ
それがその人の人生論なのだろうが、そんな人は世界に沢山いるが、
私はそんな人生が素晴らしなどと微塵も思わない今日である
イチローや松井選手をはじめ、所謂成功物語を人生論の中核に据えてはならない
そんな人間は、その程度と考えて勝手にやらせ・威張らせておけばよいのだ
世の中競技や金儲けには必ず何人か成功者が出るので、彼らが素晴らしいのではない
宝くじもなかなか当たらないが、当選者は誰か100%必ず存在するようなものだ
「一生何も変わらずに生まれた状態のままだった」という人もあろうが
一度も会社を転職をしなかった人も同様であるが
そのような人生論は非常に浅く、起伏のない、つまらんものになる恐れがある
圧倒的に都会派が多いので田舎も都会的になっていくのだろうが、残念だ
都会と言うところは、私の実感であるが、退廃的・自堕落にする風呂みたいなもの
自然以外なにもない山奥では退廃的・自堕落にする風呂はない
限界なのは、むしろ大都会、それを田舎に導入するのはわざわざ悪くするようなもの
例の賭博場を作るという話も退廃的・自堕落を増やすだけのことだ
都会とはそういうものだが、砂糖に群がる蟻みたいに人は都会に密集していく
人間は便利さ・楽・贅沢を求めバカ殿様や金持ちのバカ息子のようになっていく
しかしそんなものを幾ら手に入れたところで、人間は成長するどころか衰退していく
私が、若くて元気だったら、本格的な山奥に入り静かに暮らしてみたかった
ざんねーん
都会は庭のない家が多くピント来ないかもしれないが、田舎では庭や空き地がある
ところがアジサイなどは、買って来た時は小さいが、庭植えし数年する巨大化する
近所の玄関横の庭にアジサイが巨大化していた。抜こうとトライしたが2時間かかった