村上原基、滋賀県安曇川の山中20年⇒麓の町の田中に一人暮らし人生

山中で20年一人暮し後71歳から麓の田舎町で暮している、断捨離し自然な生き様と山暮らし体験に基づく人生論及び写真を紹介

140.本物の豊かさとは『見かけの豊かさ=堕落』→人間の原点に戻り、物事の本質を見極めましょう

2008-02-06 18:22:19 | 人生
戦後日本は、ほとんどが焼土と化し、貧乏のどん底から「豊かさ」を追求して右肩上がりの経済成長をし、一時とは言え「世界一」なんて世界中から大絶賛されたこともありました。そして他国も羨むほどの豊かな国になったはずでしたが、しかしその後の流れは、ゆっくり豊かさを味わうこともできないうちに、アッという間に、今やあれもこれも不安を抱えるだらしない国になってしまったのです。まさに「奢れる者も久しからず」そのものだったのです。見かけの豊かさは、いつか自分自身をも裏切る、不安定なもの:幻(まぼろし)でしかないのですから。でもある意味良かったと思います。もしあのまま日本が世界一であり続けたとしたら、傲慢になり、日本人の堕落は、目を覆うばかりになったことでしょう。危ない・危ない、ダアッーと冷や汗が出ますねー。
第二次世界大戦後の日本は、食料や物質的には、とてつもなく貧しかったのですが、しかし反対に、心は随分豊かであったのを思い出します、一体何なんでしょうね、貧しいほうが心が豊かだなんて?そこで流石の日本人も、真剣に考え始めました「本当の豊かさって何なんだろう?」と。しかし一度手に入れた見せ掛けの豊かさを手放すだけの結論は出なかったようです。世界は、争い・エゴ・自堕落で満ちあふれています。本物の豊かさを目の前にぶる下ても一向に食いつかないが、一方、偽者の豊かさには目の色変えて飛びつくのです。
「目の色変えて、高額な本物の宝石や高価なスーツを買う人が、豊かさにおいては偽ものの豊かさのほうをより好む」のは不思議なことだが、要するにしんどい思いをするのはご免だ・嫌だということらしい。しんどい思いをしてまで、本物の豊かさなんか求めたくないということらしい。

典型的な例は、年々悪化している地球温暖化問題が示すように、豊かさはどんどん、あらぬ方向・進むべきでない方向へと進み続けているのです。奢る平家は今に必ず崩壊することがわかっているのに、人間というのは、しかたがないもので悪いことと知りながら、わかっちゃいるけど止められないのです。神様からなまじ知恵を授かった人間の浅ましい・小ポッケな心がそうさせているのです。
一見凄く豊かのように見えても、真の豊かさとは言えないものを幾つか次に掲げてみました。
現代の大都会で見られる、見せ掛けの豊かさとは幻(まぼろし)か蜃気楼みたいなものに過ぎません。

 ①足るを知らない、貪欲さ・強欲さによる豊かさ
 ②一代限り又は自分だけの狭い豊かさ
 ③心の底から満たされない上辺の豊かさ泡のような豊かさ
 ④他人と争い勝ったことによる豊かさ
 ⑤お金で得ただけの刹那の豊かさ
 ⑥物質的なものに依存する豊かさ
 ⑦些細な部分的な枝葉末節な豊かさ
 ⑧浅はかな人間の考えた不自然な豊かさ
 ⑨何かの犠牲によって得られた豊かさ
 ⑩あれこれ無理や無駄を生み出した上での豊かさ
 ⑪他人に自慢する見せびらかすような豊かさ
 ⑫人格・人徳からほど遠い下品・下劣な豊かさ

いかにも見かけだけ「これぞ豊かさ」みたいな一見豪華風の豊かさは、99%本物の豊かさなんかではありません。

『そんなもの、さっさと棄てなはれ』  『未練なんか、すすんで断ち切りなはれ』
『華美や贅沢を求めるの、止めなはれ』  『本物の豊かさを、追い求めなはれ』
『貴方が大事に抱えている豊かさはドクロか幽霊かはたまた糞かもしれませんね』

むしろ質素で日常的なことを日常的に真面目にやって、自然に交わり、ひっそり堅実に暮らしている人の得るもののほうが本当の意味で豊かなんですが、人間はそういう本物の豊かさをむしろ満足しないのです。テレビで貧しい国の暮らしの映像が流れますが、物質的には確かに貧しいですが、心の豊かさは羨むほどです。それに引き換え日本では、安っぽい下品な愚劣な豊かさを有難がっているようです。例えが悪くて恐縮ですが、”糞饅頭””毒饅頭”を有難がって美味しい美味しいと言って食べるているようなもんです。
自分自身が働き、稼ぎ出す豊かさなんかは知れています。多くの人の恩恵や自然の恩恵を受けているからこそ得られたものなんです。ところが有名スポーツ選手や俳優さんや成功した一部の企業家さんは、人の何千倍の豊かさを懐にいれるのです。自分の働きの何千倍のリターンを得ることはいけないのです、理由はともあれ、そんな人は詐欺です。自分だけの働きに見合った豊かさをだけの享受すべきなんであり、余分は社会に還元することです。そうしないと結局そういう人は不幸になるだけです。どうしても不幸になりたい人は、見かけの豊かさを独り占めにしたいのですね。

「5億円なんてそんな大金要りません。罰があたります。私は1億円で結構です。余分の4億円は、お客さんや何かに役立てて下さい」と言うべきなんですがね。

昔話しで:舌切り雀の意地悪御婆さんがお化けが沢山詰まった大きなつづらを大喜びで持ち帰ったようなものでしょう。一方御爺さんは小さいつづらを貰って帰るとその中から金銀財宝が出てきたのですが、そういう豊かさこそ本物なんですがね。舌きり雀の昔話が、豊かさの本質を説明しているような気がします。あんな大昔に、すでに本物の豊かさを正しく認識していたというのは、凄いことですね。逆に豊かになった現代人のほうが、全くわかっていないのはなんとも情けない、侘しい・寂しい話です。
私も、若い頃目の色変えて、つまらんものを必死になって集めたことがあり、子供としてはかなりお金をかけたことがあります。しかし大人になって、つくづくそういうものを眺めて見ると、全く見向きもしたくない我楽多であることに気付くのです。まさに意地悪婆さんが家帰る山の中で沢山のお化けが詰まった大きなつづらを空けたような感じがするんですが、皆さんもそういう経験がありませんか?
現代人の求める豊かさや有難がるような幸せなんて所詮そんなもんです。しかしどういう訳か、多くの人間は、麻薬患者やアル中患者みたいに、そういう安物の豊かさを目の色変えて追い求め、そういうことから脱出できないのです。
世の中には「見せかけ」のものがすこぶる多く蔓延り、見せ掛けの豊かさのほうが良いなんてこと思い、安心するのが、悲しいことですが浅はかな人間なのです。
最近アメリカのサブプライムローンの破綻は世界中を混乱させていますが、あんな恐ろしいことを、異常であると断言する人が長年現れなかったということですが、まあこういう事例は事欠くどころか、むしろ世界の歴史を紐解くとどんどん出てくるのであって、見せかけの繁栄を追い求めそのあげく、せいぜい長くても100~200年、やがて崩壊していってるのです。くだらん誤魔化しの豊かさを求めて戦った兵(つわ者)どもが夢の跡(凄まじき地獄絵)になるのですね。
何が本当の豊かさもわからず、都会のコンクリートジャングルの中で、目の色変えて、つまらん人造物や誤魔化しの楽しみを求めてさ迷い、心はかえって満たされずボロボロになり、生きがいを失い・やる気も薄れ・家族も社会も崩壊し・殺伐とした世の中になってしまったのです。

例をあげてみましょう。案外こんなものかもしれません。
 ①見かけは美しいが、中身は汚い
 ②見かけは裕福だが、中身は貧しい
 ③見かけは明るいが、中身は暗い
 ④見かけは楽しそうだが、中身は悩みいっぱい
 ⑤見かけは良い人だが、中身は悪人
 ⑥見かけはいいこと言うが、中身は最低
 ⑦見かけはきっちりしているが、中身はだらしない
 ⑧見かけは立派だが、中身は最低
 ⑨見かけは進歩しているが、中身は退歩している
 ⑩見かけは構築だが、中身は崩壊
 ⑪見かけは強いが、中身は脆弱
 ⑫見かけ賢いが、中身は愚か

私が最も嫌なことは、例えば、一見豪華そうな人間が、一見豪華な洋服を着て、一見豪華な宝石を身につけ、一見豪華な家に住み、一見豪華な家具や美術品、一見豪華な自動車に乗って、一見豪華な買い物に出かけるというような姿です。本人は結構得意満面で「私って豊かよ」みたいに、あれこれ見せびらかすのですが、すればするほど可哀想な人だなーと思うのは私だけでしょうか?貧乏が恥ずかしいのであれば、金持ちをみせびらかすのはそれ以上にもっと恥ずかしいはずなんですが、本人には気づかないようです。
アメリカでマイケルという男が450kgと肥満になり、ダイエットで100kgまで大幅に減量に成功したが、その後ある時油断して食べすぎリバウンドで500kgになったとか。歩けず寝たきりの暮らしになり、病院に行くにも家を出られなくなったとか。こんな異常な肥満児と大金持ちとはほとんど同類なんです。金持ちも少し金持ちのうちは良いのですが、そのうち本物の大金持になるにつれ、金に頼る暮らし・金を基準にした生き方になり、そうなるともう抜け出せなくなり、本来楽しいはずの暮らしが息が詰まり・苦痛にさえなっていくのです。「一にお金、二にお金、三四がなくて、五にもお金」お金づくし・お金漬けになってしまうのです。
多分大金持ちの人やその息子や娘は相当に嫌な、軽蔑に値するような人間だと思います。「そんなことない」と言う人は一度そういう息子や娘から金や物を一切奪って町に放り出してご覧なさい、そして貧乏な若者と比較してご覧なさい。多分金持ちの子供達は貧乏の子供に全く打ち勝つことはできないでしょう。
本人は得意げであるが、「裸の王様」のように、立派な人から見れば、滑稽又はみっともない醜態にしか見えない。
そういう贅沢なものは神仏に捧げてしまい、自分は神仏の僕として、真面目に働き、つましく暮らし生きれば良いのです。
しかし困ったことに中身がお粗末なので、ますます人間は華美を求め外見を飾ることで、立派な人間を演じたがるもんであります。
私が豊かな人と思う人というのは、
そう美人・美男でないが、すごく人間的に優れた人
 ・そう利口でないが、すごく賢い人
 ・そう裕福でないが、すごく豊かで大きな心を持っている人
 ・そう偉そうでないが、すごく偉い人
 ・そう有能でないが、すごくきちんと何でもできる人
 ・そう雄弁でないが、すごく楽しい会話のできる人
 ・そう目立たないが、すごくきらり光るものを持っている人
未だに反省なく、どんどん崩壊へと誘われる世界の人々の中で、せめて自分だけでも本来の人間としての真っ当な豊かさを追求することを諦めてはならないとつくづく思うのです。今の日本の政治家を見なさい主体性はなく国民やマスコミに誘導されるだけの”木偶の坊のロボット達”あんなのも本来の姿を失った抜け殻だけの人間ですよ。でも悲しいことに、そういうお粗末な人間が政治をやることを国民も許してしまっている。そんな怪しげな流れに、自分だけでも、巻き込まれ押し流されてはなるものかと思いませんか?

思いませんでしょうね。・・・・・・・・・・・・・・・

「豊かさとは何だろう?」是非、日々考えて下さい。そのために大事なことは、今の生き方を一度否定してみることです。頭の中のことですから、簡単に否定できますよね。それと暮らしや住む場所や職業を可能な範囲で変えてみることです。必要なことは人間としての誇りと勇気を持つこと、違いの分かる人間になることでしょうかね。でも私は、豊かさとは何ぞやの正しい答えは、意外と身近にあると思います、そんな遠くにはないはずだと思っています。
村上和隆の人生

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