5月24日 おはよう日本
ロサンゼルス近郊の美しいビーチで知られる町 マリブ。
海沿いにあるカフェは連日多くの客でにぎわっている。
このカフェでは4月からプラスチック製のストローの使用をやめて
真ん中が空洞になっているパスタをそのままストローとして使っている。
なぜストローが問題になっているのか。
カメの鼻に刺さっているのはプラスチック製のストロー。
YouTubeの動画をもとに禁止を求める声が広がったのである。
カリフォルニア州マリブ市は
6月1日から
飲食店がプラスチック製ストローを提供することを全面禁止する。
主要都市では全米で初めてとなる。
(マリブ市 リック・ムレン市長)
「海はマリブを美しくしている最大の要素。
知名度の高いマリブがプラスチック製ストローを禁止すれば
皆がこの問題に注目する。」
プラスチック製に代わって使われ始めているのが紙製のストローである。
スターバックスは
マリブと7月からプラスチック製を禁止するシアトルの全店舗で
6月 紙ストローに切り替える。
マクドナルドも対応するよう株主から求められている。
この動きに困惑しているのがスムージーの専門店。
シャーベット状の飲み物を飲むには太いストローが欠かせない。
紙のストローをスムージー向けに丈夫にする位はコストがかかると反発している。
(スムージー店の店主)
「年間で数千ドルの追加コストとなり
非常に残念な思いだ。」
一方 紙ストローを扱っている会社は殺到する注文に嬉しい悲鳴をあげている。
隣国カナダにある貿易会社にはアメリカの飲食店からの注文が急増。
中国のメーカーに発注しているが供給が追い付かないと言う。
(紙ストローを扱う貿易会社オーナー)
「売れ行き好調で本当にうれしい。
6週間で6か月分の紙ストローが売れたんだ。」
5月23日 国際報道2018
近く世界遺産に登録される見通しの
長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産。
国民の90%がキリスト教徒のフィリピンに
5月 現地には長崎県観光連盟の担当者の姿が。
この国にいま熱い視線を注いでいる。
(長崎県観光連盟)
「フィリピンからのお客様を誘致するために力を入れている。
つながりも多いので
長脇に来ていただければと思う。」
長崎とフィリピンのつながり。
それを物語る絵が
教会のステンドグラスに描かれている。
日本にキリスト教が広まった400年余前
フィリピンはアジアでの布教活動の拠点だった。
しかし江戸幕府などはキリスト教の信仰を禁止。
長崎で多くの宣教師や信者が命を落としても信仰を守り続けられた歴史が
フィリピンでも伝え継がれているのである。
さらに祭壇に置かれた聖人の像。
フィリピン人だけでなく
殉教した長崎の人の像も作られ
地元の人たちに尊ばれている。
(信者)
「長崎の修道女がフィリピンの聖人とともに殉教したことは知っています。
神の思し召しがあれば長崎に行きたいわ。」
キリスト教つながりで観光客を呼び込もうと
長崎県観光連盟はあるツアーに注目している。
フィリピンの富裕層などで人気なのが“巡礼ツアー”。
エルサレムやバチカンなどキリスト教ゆかりの地を訪れる信仰の旅で
専門の代理店もあるほどである。
さっそく長崎を新たな巡礼地にと売り込む。
ツアーを組んでもらうため要望も細かく聴き取っていく。
(旅行代理店)
「フィリピン人旅行者がミサに参加できますか?」
(長崎県観光連盟)
「日程を担当者にアレンジしてもらいます。」
この日売り込みが功を奏し
長崎への巡礼ツアーを取り扱ってもらえることになった。
(旅行代理店代表)
「長崎への巡礼ツアーはやりがいがあります。
フィリピンでウケると思うわ。」
(長崎県観光連盟)
「世界遺産の追い風に乗って
1人でも多くの方に
1度だけじゃなく2度3度訪れていただける長崎をPRしていきたいと思う。」
キリスト教を通じた歴史でつながる長崎とフィリピン。
世界遺産の登録が近づき
観光を通じてその結びつきを強めようという動きが活発化している。
5月23日 キャッチ!ワールドEYES
2009年に巨額の財政赤字が発覚しヨーロッパを揺るがす金融危機へと発展したギリシャ。
ギリシャは財政の立て直しのためユーロ圏各国などからの金融支援を受け
8年にわたって緊縮策を進めてきた。
公務員を減らし
年金の削減や退職年齢の引き上げ
国営企業の民営化や増税などを実施し
去年は経済成長がプラスに転じて
政府の財政は2年連続の黒字となった。
夏を控えたギリシャの首都アテネ。
早くも多くの観光客でにぎわっている。
去年は過去最高となる3,000万人以上の観光客が訪れた。
(オランダ人観光客)
「リラックスできるし
食べ物もおいしいし
人もいいね。」
(アメリカ人観光客)
「初めてきたけど
街は美しいし
金融危機の影響は感じないね。」
主要産業の観光業や船舶業が好調で
去年は1,3%の経済成長を記録したギリシャ。
財政黒字もGDP比で4%と目標を超え
政府は危機からの脱出に自信を深めている。
(ギリシャ政府報道官 ジャナコプロス氏)
「今年8月以降 再び市場で資金を調達し
独り立ちできるようになります。
ギリシャが戻ってきたことを世界に示す象徴的な証しとなるでしょう。」
しかし政府の税制の改善が進む一方で
その実感を感じられないのが多くの自治体である。
アテネ近郊のマンドライディリア。
人口1万3,000人の町である。
緊縮策で超職員は20%近く削減された。
国からの補助金も約60%減少し
最低限の行政サービスを行なうので精一杯になっている。
苦境が浮き彫りになったのが去年11月の洪水被害である。
集中豪雨で河川が氾濫。
25人が死亡したほか
多くの住宅や公共施設が壊滅的な被害を受けた。
町で教育や広報を担当するコンスタスさん。
洪水から半年近くたった今も
被害を受けた学校や公民館など公共施設のほとんどを修復できないと言う。
(町議会 教育・広報担当 コンスタス議員)
「ここは劇場です。
地域にとって宝石のような存在でした。」
学校の劇や映画が上映され市民の憩いの場となっていた町の唯一の屋内劇場である。
しかし土泥が流れ込み今も修復のめどはたっていない。
国が管理している施設も同じ状況である。
暖房施設や電気系統などに大きな被害が出た幼稚園。
廃墟のような状態で放置され
子どもたちは別の幼稚園に通わざるを得なくなっている。
(町議会 教育・広報担当 コンスタス議員)
「町としてはすぐに再開させたいです。
しかし施設の管理を担当している国の教育省が修復できないのです。」
コンスタスさんをやり切れない気持ちにさせるのは修復できない実態だけではない。
実は町は前から“河川が氾濫する危険がある”として洪水対策を企画していた。
別の水路を建設し町の中心を流れる河川の水量を減らすというものである。
計画は2014年にまとまり
地方政府に提案。
しかし財政不足を理由に実現されなかった。
(町議会 教育・広報担当 コンスタスさん)
「失望しています。
何もしていないのではなくやりたくてもできないのです。
大きな違いです。」
町はいまも洪水対策が実施されないことに抗議を続けている。
ギリシャの自治体組織のトップは
“国から財源を減らされ続けた結果自治体の能力は危機的な状況に陥っている”と指摘する。
(ギリシャ自治体連合 パトゥリス会長)
「校庭も歩道も道路も建設できなくなりました。
自治体は十分に役割を果たせず
かつての質もなくなったのです。」
緊縮策は市民の命にかかわる医療にも影響を与えてきた。
政府は健康保険の支出を抑えるため
市民が負担する薬代を増やした。
これが年金生活者など低所得者にとって大きな打撃となっている。
(年金生活者)
「月330ユーロの年金をもらっていますが
私と夫の薬代は300ユーロにもなるのです。」
追い込まれた人々を支援しようと医薬品を無償で提供する団体がギリシャ各地で活動している。
6年前に起ち上げ今も毎月500~600人の人に利用されている団体。
働くのはボランティアの人たち。
医薬品は国内外からの寄付である。
ありとあらゆる種類の医薬品をそろえている。
今ギリシャでは市民が一致団結して苦境を乗り越えようとしている。
(利用者)
「糖尿病で発作も出るので
ここがなければ私は死んでいます。」
(団体の運営責任者 ビハス医師)
「今の社会の状況が良くなる兆候はまったくありません。
物理的にも精神的にも踏みとどまっていられるのは
ギリシャで強まった連帯感のおかげです。」
6月4日 国際報道2018
2016年の冬の五輪の開催地の候補が今年10月に出揃う。
名乗りをあげている都市の1つがスイスのシオンだが
いまそのシオンが立候補をめぐって大きく揺れている。
スイス南部バレー州の州都シオン。
アルプス山脈に囲まれた観光地で
冬には多くのスキー客が訪れる。
絶好の立地を生かし過去に3度冬の五輪の招致レースに立候補したが
いずれも他の都市に敗れた。
今回4回目の挑戦に踏み切るかどうかを決めるのが
6月10日の住民投票である。
2016年の冬の五輪の招致に向けて
州政府の予算から日本円にして約110億円を支出するかどうか
住民の判断を迫っている。
街なかでよく見かけるのが五輪の招致をめぐるポスターである。
“OUI”
賛成を呼びかけるもの。
“NON”
反対を呼びかけるもの。
賛成派は
五輪は観光客の増加や地域の活性化につながるとPRに力を入れている。
ポスターには地元出身の平昌オリンピックのメダリストを起用した。
賛成派の1人 シオンの元市長のドゥボンさん。
市長として五輪の招致に関わったこともあり
今回こそ悲願を実現したいと言う。
(賛成派 元シオン市長 ドゥボンさん)
「冬のオリンピックの開催はスイスにとってとても重要なことなんです。」
一方の反対派。
五輪は税金の無駄使いだと厳しく批判。
地道な活動を続けながらも支持を広げている。
5月下旬に行われた世論調査では反対は60%近くに。
その理由の多くが費用負担である。
(反対派 市民)
「最も大きな問題はお金がかかり過ぎるということです。」
「僕はこの街に大金があるとは思っていません。」
(反対派 バレー州 緑の党 フルニエ党首)
「賛成派はお金をかけずに開催できるというが
そんなことはありえないです。」
危機感を強める賛成派。
(賛成派)
「反対派を説得するにはどうすればいいのか。」
集会では費用負担の懸念を払しょくするよう巻き返しを求める声が相次いだ。
(賛成派 元シオン市長 ドゥボンさん)
「諦めないのが我々バレー州住民の心意気です。
2026年の招致は必ず成功すると思います。」
招致の賛否をめぐり激しさを増す活動。
住民たちの決断が注目される。
5月23日 おはよう日本
多くの野生動物が生息するアフリカで
象牙や角などを目的にゾウやサイなどの密猟が後を絶たない。
そしていま新たな危機にさらされているのが
家畜として飼われているロバである。
ケニアの農村。
ロバをは水を運んだり移動に使ったり
アフリカの人たちにとって欠かせない労働力となっている。
そんなロバにいま異変が起きている。
ロバがいまアフリカ各地で次々にいなくなっている。
ケニアではこの3年で30%以上
実に60万頭ほどのロバが姿を消した。
各地で見つかっているロバの死体。
その多くはなぜか皮をはがれた状態で見つかっている。
ロバたちにいま何が起きているのか。
ケニアの首都ナイロビ近郊にあるロバの食肉処理場。
2年前に作られたこの処理場の中にあったのは
中国語で書かれた肉の部位の対照表。
そして中国人とみられる人の姿もあった。
奥の倉庫にはロバの皮が山積みになっていた。
ロバの取引価格は3年前の3倍。
日本円で1頭約1万5,000円ほどに高騰していると言う。
工場は「扱っているのはすべて合法的に処理したロバの皮」だとしたうえで
「行先は全て中国だ」と話した。
(食肉処理場の責任者)
「モンバサ港からベトナム経由で中国へ輸出しています。」
ロバの皮が大量に送られているという中国。
見えてきたのはある生薬の存在である。
ロバの皮からゼラチンを抽出して作った“あきょう”と呼ばれる生薬。
近年 中国では女性を中心に美容や健康食品として注目されるようになっている。
そこで中国の業者が目をつけたのがアフリカだった。
中国国内のロバが半減したため新たな調達先を求めたのである。
“ロバの皮は金になる”と
ケニアではロバの盗難が相次ぐようになっている。
ロバで水や木材を運ぶ仕事を請け負うムワンギさん(24)。
飼っていた15頭のロバのうち10頭を盗まれ
収入は5分の1に落ち込んだ。
幼い娘を学校に通わせるのも難しくなっていると言う。
(ムワンギさん)
「ロバが奪われ生活は苦しくなる一方です。
とてもつらいです。」
警察は取り締まりを強化しているが
盗難やロバを殺される事件は後を絶たない。
ロバの保護に取り組むNGOなどは
象牙やサイの角などの密輸にも関与する犯罪組織などがあると指摘する。
(ロバの保護に取り組むNGO)
「ロバの皮がどこから来ているのか特定するのは困難です。
簡単に鞄に入れて運ぶことも可能です。
私たちは犯罪組織が関与してロバを入手しているとみています。」
5月18日 おはよう日本
京丹後市峰山町にある木島神社。
参拝客が頭をなでているのは
こま犬ならぬ“こまねこ”。
「織物と養蚕の神様」を祭る木島神社を約200年にわたって見守り続けている。
丹後ちりめん発祥の地の1つと言われる京丹後市。
原料の絹を生産するため
かつて養蚕が盛んに行われていた。
しかし天敵のネズミの被害に悩まされてきた。
そのネズミを退治し
守ってくれたのがネコ。
まさに神様のような存在だったと言われている。
(木島神社を管理する金刀比羅神社 脇坂宮司)
「昔の養蚕業者さんはネズミから大切な蚕やちりめんを守るために猫を飼われていた。
こまねこを見るために来ました
なんて人もおいでになりますし。」
地元ではその猫に着目した町おこしが進められている。
ホテルや飲食店で作る実行委員会が起ち上がり
毎月アイデアを出し合ってきた。
これまでに猫にちなんだ数々のオリジナル商品を開発してきた。
マカロンならぬ“ネコロン”。
饅頭は丸くなった猫である。
特産のばら寿司のパッケージにはこまねこを起用した。
(まちおこしの実行委員会 田中智子実行委員長)
「猫をモチーフにして
猫好きな人も含めて
丹後ってどこ?と見てもらえるきっかけになればと思って。」
さらにこの春
新たな所品開発が本格化した。
実行委員会のメンバーの廣瀬啓子さんは
大の猫好きで13匹と暮らしている。
猫と触れ合うなかで新たな商品として思いついたのが
“人も猫も一緒に食べられる缶詰”づくりである。
猫と心を通わせて特別なひとときにしてもらおうというのである。
(廣瀬啓子さん)
「観光客が丹後で買ってきたお土産を
帰ってからお留守番させていた猫と一緒に食べられたらと。」
選んだのが地元でよく獲れるサワラの幼魚サゴシである。
猫の愛好家たちの意見を聞きながら試作を重ねてきた。
クセが少なく淡白な味わいを生かして
水煮で素材そのものの味を人も猫も楽しめるようにした。
口に広がるのは繊細な味。
猫との一体感も生まれる。
京都府の補助も得られて新たな商品として売り込んでいくことが決定。
京都市内の食品工場で始めの300缶を製造した。
(廣瀬啓子さん)
「やっとできるなと思い感慨深いです。
キャッチコピー的なものは
“ちりめんの里から猫に恩返し”というので。」
(まちおこしの実行委員会 田中智子実行委員長)
「私たちもこれやろう
あれやろうということが増えてきて
こんなに楽しいところなんだという賑わいが創出できるような
やっていかないとという気持ち。」
かつては“ちりめんの里”として栄えた京丹後市峰山町。
あの手この手
そしてねこの手も借りて
賑わいを取り戻そうという取り組みが続いている。
5月16日 国際報道2018
ベルギー北部の町メへレン。
町のシンボルは
世界遺産にも登録されている高さ約100mの聖ロンバウツ大聖堂である。
塔から響き渡るのはカリヨンの音色。
(市民)
「雰囲気が良いし
落ち着くわ。
BGMとしてとてもいい。」
この大聖堂のカリヨンは
49の鐘から成り
最も大きな鐘は高さが3mほどある。
メへレンの街に400年以上にわたって時を告げてきた。
日中 7分半ごとに鳴るカリヨン。
奏でるのは18世紀に作られた自動演奏の巨大オルゴールである。
取り付けられたピンがワイヤーを動かし鐘を鳴らす。
この音色を代々守ってきたのは“タワーキーパー”と呼ばれる職人である。
職人歴10年のタワーキーパー。
(タワーキーパー)
「ピンが折れることもあるんです。
私が音を聞けばすぐ分かります。
これは交換しなければなりませんね。」
美しい和音を響かせるにはメンテナンスが欠かせない。
鐘を鳴らすワイヤーがその日の天候によって伸び縮みするためである。
微調整を繰り返し
世界遺産のメロディーを守り続けている。
カリヨンは人の手で演奏することもある。
カリヨンの演奏家カリヨニスト トム・ファン・ペールさん。
子どものころ視力を失ったが
ふと耳にしたカリヨンの音色に衝撃を受けた。
16歳でメへレンにある公立カリヨン学校の門をたたいた。
(カリヨニスト トム・ファン・ペールさん)
「ガールフレンドと歩いていた時にカリヨンの音を聞いたんです。
塔の上から街の皆に演奏したいと思い
その瞬間 私のカリヨン人生が始まったのです。」
演奏は鍵盤をこぶしでたたいて巨大な鐘を打ち鳴らす。
力強さとともに美しいメロディーを奏でる繊細さも必要である。
ファン・ペールさんは聴いた曲を覚えて即興で演奏する技術を磨き
コンクールで世界一になった。
いまファン・ペールさんは母校でカリヨンの指導にあたっている。
ここでは世界の14カ国から集まった58人が学んでいる。
ファン・ペールさんが伝えているのは演奏に込める思いの大切さである。
(ベラルーシ出身の生徒)
「とてもいい先生です。
カリヨンや音楽について彼から多く学べますし
私は幸運だと思います。」
(日本人の生徒)
「すばらしいのひと言です。
魔法のように音が広がっていく。」
500年の歴史を持つ楽器カリヨン。
ファン・ペールさんはその音色を次の世代にも伝えていきたいと考えている。
(カリヨニスト トム・ファン・ペールさん)
「塔の上にあるカリヨンなら街全体に向け演奏できます。
自分が持っている感情を街全体に表現できるんです。
これは特別なことです。
そのことを若い世代にも伝えていきたいです。」
思いを込めたメロディーを街の人に届けるファン・ペールさん。
メへレンの街にはきょうもカリヨンの音色が響き渡る。
5月16日 国際報道2018
オスタルギーは造語で
Ostalgie = Osten(東)+ Nostalgie(郷愁)
ドイツでは旧東ドイツを懐かしむ人々が増えている。
ベルリンではあちこちで旧東ドイツの思い出に遭遇することができる。
国民車だったトラバント
東西冷戦の象徴だった壁の一部
当時の市民生活を象徴する博物館。
観光用ではあるが
特に旧東ドイツ出身者の間で大人気。
いまオスタルギーが大ブームとなっている。
旧東ドイツの国旗とホーネッカー議長の写真が飾られているレストラン。
(レストランのオーナー)
「客は全員 旧東ドイツ出身。
あの頃に戻りたいのです。」
店内の料理も旧東ドイツ風で
ベルリンの壁は崩壊しなかったのかと錯覚するほどである。
(客)
「仕事も住むところもあった。
みんな元気でしたよ。」
「あの頃は助け合いの精神がありました。」
オスタルギーは思いがけない効果ももたらしている。
ドレスデンの旧東ドイツ出身者が入居する老人ホームではインテリアも職員の服装も旧東ドイツ風。
スーパーを模した棚で買い物ごっこをしたり
「これは誰でしょう?」
「ホーネッカー。」
こうした試みが功を奏し寝たきりだった女性が元気になった例も。
(老人ホーム職員)
「思い出によって力が引き出されたと
家族も驚いています。」
旧東ドイツは人々の心の中に今も息づいているのである。
6月1日 編集手帳
川柳は時が過ぎて見返すと、
何のことやら不明なものが多い。
<岡ちゃんが慣れぬジョークのミスキック>。
8年前の5月末、
本紙に載った投稿である。
察するに「蠅(はえ)」発言だろうか。
サッカーのワールドカップ(W杯)日本代表選手の発表のおり、
当時の岡田武史監督の口から出た。
「蠅がたかるように何度もボールを奪いにいく運動量がチームの長所だ」。
よりによって蠅とは…世の中に若干どよめきが広がったのを覚えている。
先の句はいかにも期待値の低さを物語るが、
ひと月後に一転、
川柳欄にこんな一句が載る。
<岡ちゃんへ活字が急に踊りだす>
連戦連敗のチームが本番に入ると、
まさかの躍進。
ふだんは迷惑な蠅があれほど歓喜の使者のように思えた6月はなかったろう。
W杯ロシア大会の代表23人が発表された。
西野朗監督の心境はいかがだろう。
前日にガーナ戦に完敗し、
評論家やファンから厳しい批評が飛び交うタイミングでの発表となった。
期待値という点では岡田監督の頃に似ていよう。
ちなみにその年の流行語の一つは「岡ちゃん、ごめんね」だった。
笑顔で懺悔(ざんげ)の6月を、もう一度。
5月14日 編集手帳
天界で桃園の管理を任された孫悟空は、
何千年もかけて育てられた桃を一人で食べつくした。
欲望や思いつきで行動し、
全く悪びれない。
「西遊記」の登場人物はみな本音で生きている。
読書家で知られるライフネット生命創業者の出口治明さんの見方である。
『教養は児童書で学べ』(光文社)によると、
その魅力をひと言で言えば「なんでもあり」だ。
孫悟空も猪八戒も好き勝手して失敗ばかりだが、
どこか飄々(ひょうひょう)としている。
旅の途中でしょっちゅう仲間割れし、
美しい友情だけではない。
「自分さえよければ良い」というおもしろさ、
中国独特の大げさな表現が子供心を捉えるのだという。
とはいえ、
「自分勝手」や「大げさ」では困るのが外交だ。
中国の李克強首相が来日し、
安倍首相との会談で全面的な関係改善を約束した。
防衛当局間のホットライン設置や映画共同製作、
トキ譲渡など10もの協定や覚書を交わした。
平和友好条約締結40周年の節目だ。
東シナ海で再び対立の火種をあおることがないよう願いたい。
孫悟空は芭蕉扇を手に入れ、
燃えさかる火焔山(かえんざん)を消し止めた。
そんな扇を双方が携えておきたい。
5月16日 おはよう日本
電池を使わない手巻きの一眼レフカメラ。
今はほとんど見られない二眼レフのカメラ。
去年オープンした都内にある中古のフィルムカメラの専門店は
来店客の8割は中高生や20代の若者である。
デジタルカメラに比べ撮影に手間がかかるが
かえって“レトロでかっこいい”と人気を集めている。
(来店客)
「金属が重くて
わあ機械だみたいな。」
「形が好きで
フィルムだということを知って買ったんですけど
はまっちゃいました。」
(カメラ店)
「巻き上げの感覚とかシャッター音とか
デジタルカメラにはないところもありますから
レトロなものが人気があります。」
高校3年生の藤巻さん(17)はフィルムカメラに興味を持ったのは2年前。
物置で祖父のカメラを見つけたのがきっかけである。
写真好きの祖父を先生役に腕を磨いている。
お小遣いをやりくりして1万2千円で中古のカメラを購入した。
1970年代に作られたカメラ。
銀色のボディーと皮のデザインに一目ぼれした。
(藤巻さん)
「買った時ずーっと眺めていて
かわいいなって。」
写真を撮る楽しみにも目覚めた藤巻さん。
どこへでもカメラを持ち歩き何気ない日常をおさめている。
自宅前の桜
妹の笑顔
デジタルカメラとは違う柔らかな風合いを出せるところも気に入っていると言う。
(藤巻さん)
「スマホとかデジタルは何度でも押せたり
後から画像を消したり出来るんですけど
フィルムは1枚1枚ていねいに撮る分1枚1枚が大切に思える。
記憶に残ると思う。」
この日 現像に出していた写真ができ上がった。
どんなふうに撮れているのか
藤巻さんが一番楽しみにしている瞬間である。
1枚1枚から撮影した時の気持ちが鮮やかによみがえる。
(藤巻さん)
「現像に出すまで中身がわからないので
私はタイムカプセルみたいだなと思ってて
現像に出して戻ってきて
誕生日プレゼントを開けるみたいなわくわく感とか
こんなの写ってたなというのが楽しい。」
最近ではフィルムカメラに限定して風景などを捕る撮影会も開かれていて
若い人たちの参加が多いということである。
便利なデジタル製品に囲まれて育った若い人たちには
レコードやラジカセも人気で
昔の製品が持つデザインや温かみが新鮮にうつっているようである。
5月15日 キャッチ!ワールドEYES
太平洋戦争が終わった1945年
それまで統治していた日本に代わって
台湾に入ってきたのは
蒋介石をリーダーとする国民党だった。
しかし人々が国民党の統治のあり方に不満を持つと
1949年に発令した戒厳令のもと
集会や結社
言論の自由は厳しく制限され
体制に批判的だとされた人々は政治犯として次々と収容所に送られた。
30年にわたる戒厳令が解除されたあと
不当な取り締まりや冤罪があったことが明らかになったが
被害の全容はいまだ解明されていない。
台湾北部桃園市にある蒋介石ゆかりの公園。
4ヘクタールの広さの公園にずらりと並ぶ250体余の像。
その9割近くにあたる226体が蒋介石のものである。
近年撤去した像を持ち込みたいという依頼が後を絶たず
1年に10体ほどが運び込まれていると言う。
(公園の係員)
「もう少しで満杯です。」
台湾の偉大な指導者として敬意の対象とされてきた蒋介石。
その像が各地で撤去されている背景には
戦後1党支配のもとに行われた弾圧の実態がある。
初代総統 蒋介石は
戦後国民党の1党体制によて台湾の発展の礎を築いた。
一方で全域に戒厳令を敷き
言論や集会の自由を厳しく制限。
民主化を求める市民を弾圧する独裁政治を行なった。
1987年
38年続いた戒厳令がほぼ解除されると
政治犯として収容された多くの人が
冤罪だったり不当な取り締まりを受けていたことが次々に判明。
1党体制が終わったあと1998年には
当時の国民党政権によって被害者の保証制度も設けられた。
約8、000人の被害者はすでに保証を受け取ったが
いまだ調査が行われていない部分も多く
被害者の総数は現在も分かっていない。
この歴史の闇に光を当てようとしてるのが
一昨年政権交代を果たした
民進党の蔡英文総統である。
71年前に国民党が市民を弾圧した2、28事件。
その犠牲者の追悼式典に参加した際
近く専門の省庁を設立することを明言。
1945年から
戒厳令が完全に解除された1992年の間に行われた
不当な取り締まりの実態の調査を本格化させる方針を示した。
(台湾民進党 蔡英文総統)
「資料と照らし合わせながらさらに調べを続け
過去に起こった出来事の真相を徹底的に明らかにしていく。」
蔡英文政権が実態調査を急ぐ理由に
弾圧の被害者の高齢化がある。
被害者団体の名誉会長を務める蔡さん(85)。
1960年ごろ教師をしていた蔡さんは生徒や友人たちに日本で知り合った人物について話した。
その人物が蒋介石政権から独立を目指す運動家だったと言う。
(被害者 蔡さん)
「当時 若者が台湾人としての意識を持って将来を考えるのは大切だと思いました。
組織を作ったり政治活動を行なったりはしていません。」
しかし蔡さんが話した内容を友人の1人が
「台湾民族独立運動」としたビラに掲載。
この友人とともに蔡さんは反乱罪で逮捕されたのである。
「当時はビラを見るだけで懲役10年でした。
ビラを作った友人は懲役10年
私は思想に影響を与えたとして懲役10年です。」
蔡さんは当初冤罪だとして最新を訴えたものの拒否された。
収監中に当局が求める思想に改めなかったため
刑期がさらに3年延びたという。
釈放後同じく不当に逮捕された1人と被害者の会を結成。
当時の取り調べの実態について調査し
世の中に明らかにすることが必要だと訴え続けてきた。
「20,000人が逮捕
2,000人が射殺されました。
生きて戻った人たちももう2割しか残っていません。
蔡さんは国民党による弾圧の真相が明らかになれば
この問題をめぐる政治的対立は解消され
台湾社会の分断が緩和されるのではと期待している。
(被害者 蔡さん)
「台湾では選挙があるたびにこの歴史問題を取り上げて
国民党と民進党が対立してきました。
このままでは社会は平和になりません。
弾圧の責任を明らかにする必要があります。」
5月14日 国際報道2018
ヨーロッパでは
過激な思想に感化された移民などによるテロがたびたび起こっていて
移民や難民を社会にどう受け入れていくかが大きな問題となっている。
こうしたなか
ベルギーの小さな町が
“移民と共生”に成功した町として注目されている。
ベルギー北部のメへレン市。
人口8万人余の町である。
人口の3割はイスラム系などの移民で
一昨年にも約180人の難民を受け入れた。
さまざまな国の出身者が住み
多くの地元の人が移民を歓迎している。
(市民)
「誰でもこの町では歓迎よ。」
いまでは“寛容な町”として知られるメへレンだが
かつては移民をめぐって試練も経験した。
ベルギーでは1960年代ごろから
安い労働力としてモロッコなどから移民が急増。
メへレンにも炭鉱労働者として大勢の移民が住むようになった。
その後 炭鉱の閉鎖にともなって
こうした移民の多くが失業。
90年代には治安が急速に悪化し
警察と移民との間で衝突が起きるなど混乱が広がった。
当時移民は社会の中で孤立し
メへレンは“ベルギー最悪の町”とも呼ばれていたのである。
(市民)
「午後6時以降は外を歩けませんでした。
モロッコなどから来た人たちが怖かった。」
こうした状況を変えたのが
2001年から市長を務めるバルト・ソーメルス氏である。
(メへレン市 ソーメルス市長)
「当時メへレンは病気になっていたと言えます。
移民の市の一員だと考え
共に未来を作らなければ状況は変わらないと感じました。」
ソーメルス市長が重視したのが2つの政策である。
1つ目は徹底した治安対策である。
町のあちこちに防犯カメラを設置。
どんなに小さな犯罪も見逃さない姿勢を示したもので
犯罪は激減した。
2つ目に取り組んだのは
孤立しがちな移民と住民との理解を進めることである。
移民と住民に2人1組で交流を続けてもらう「バディ制度」は2012年から取り入れた。
バディ制度では市は移民と住民の間を取り持つ。
担当者は移民から家族構成や趣味などを聞き取る。
そのうえでボランティアとして登録している住民の情報と照らし合わせ
相性が合いそうな人を紹介しバディとなる。
夫婦の場合でも家族単位で交流するのではなく
1人1人にその人の相性に合ったバディを持つことができる。
一昨年シリアを逃れてきた難民のメイ・ハリルさん。
この日家族と一緒にバディ制度で知り合った住民のカロリーン・ブラウニングスさんを訪問した。
2人は好きに数回お互いの家を訪問し一緒に食事をするなど
半年間交流を続けた。
ハリルさんはブラウニングスさんとの交流を通して
地元で話されるオランダ語を覚え
子どもの学校や病院の手続きなどでもブラウニングスさんが支えてくれたと言う。
(シリア難民 メイ・ハリルさん)
「彼女のおかげで友人が増え
町のことも知ることができました。
子どもたちも慣れてくれて
とても良かったです。」
一方ブラウニングスさんにとっても移民への見方が変わるきっかけになった。
(ブラウニングスさん)
「“移民は泥棒で社会の役に立たない”という考えが広がっていました。
私自身 バディを経験して
間違った考えだと気づきました。
相手の文化を知ることで心を開くことができました。」
周辺の町では移民などの若者が過激思想に染まりシリアへ向かったことが大きな問題となったが
社会の結束が強まったメへレンからは1人も出なかったと言う。
ソーメルス市長はその功績が評価され
2016年イギリスのシンクタンクによって
“世界一の市長”に選ばれた。
(メへレン市 ソーメルス市長)
「住民の間で心を開いて一緒に住むという意識が大きく芽生えました。
“移民の受け入れは失敗する 共生は不可能だ”と言いますが
私たちはそれが可能だということを証明していきたいと思っています。」
移民や難民の流入が大きな課題となっているヨーロッパで
新たな共生の可能性を示したメへレン。
いま各国自治体からの視察が相次ぐなど注目されている。