評価点:62点/2015年/アメリカ/130分
監督:アダム・マッケイ
二重の意味で、笑えない。
2005年、マイケル・バーリ(クリスチャン・ベール)はサブプライムに関するデータを収集しはじめた。
住宅関係の相場は上がり続けていたが、あきらかに実態のない状況であることを見抜いたからだ。
同じ頃、ジャレド・ベネット(ライアン・コズリング)は、住宅金融関係についてのマイケルの戦略を見抜き、同じように、その保険としてかけられていたクレジット・デフォルト・スワップという商品を買いあろうとする。
またそのジャレドが間違えて電話をかけたフロントポイントという会社のマーク(スティーヴ・カレル)は、この話の真相をジャレド聞き出そうと動き出す。
ブラッド・ピットもそのクレジットに名前を連ねることから、日本でも話題になった。
私が見にいった平日では、かなりの客足だった。
サブプライム問題については、当時様々な解説者たちが熱心に解説していた。
アメリカの金融問題でありながら、日本にも大きな影響を与えたからだろう。
だから、この客足はキャスティングだけの問題ではないだろう。
多くの人は「あの有名な事件の裏話を明かしてくれるのだろう」とすこし期待しながら映画館に向かったことだろう。
だが、多くの人は、映画館を後にするとき、首をかしげたに違いない。
いや、私は少なくとも首をかしげて去って行った。
この映画を今から観ようと思っている人は少ないかも知れないが、忠告するなら、「勉強してからいったほうがいい」ということだ。
池上彰さんが解説してくれる程度のわかりやすい予備知識をもっていないと、たぶん全く話しについていけない。
それがあっても、たぶん、なぜこの映画がこんなに「おもしろいのか」がわからないと思う。
▼以下はネタバレあり▼
かく言う私も、正直よくわからない。
ある程度の仕組みは知っているつもりだったが、映画の展開はそういうところに焦点は置かれない。
つまり、なぜこのサブプライム問題が起こったかという点ではなく、この世界的な金融危機にあって、さらに儲けた奴らがいる、ということを解き明かしているからだ。
だから、知識があることは前提で、その知識をひっくり返すことに重きが置かれている。
なぜなら、サブプライム問題についてはアメリカ人は痛いほど当時解説されていたし、もはや「常識」だからだ。
それについて、なぜ起こったかなんていう説明はほとんどない。
少なくともそこには焦点が置かれない。
だから、予備知識が無ければ、完全に映画においていかれることになる。
いや、私だけならそれでいい。
たぶんこの状況は私だけではなかった。
なぜそう言い切れるのか。
コメディ映画なのに、誰も映画館で笑っていなかったからだ。
笑えなかった理由は二つある。
一つは、「どこがおもしろいのか」文化性が違うという点だ。
話はどんどんエスカレートして、どんどん深刻化する。
その決定的なところは、ストリップ嬢なのに家を5軒所有していると告白されるところあたりだろう。
しかし、その前後であっても、テンポは非常に速く、そしてポップだ。
そのギャップについていけない。
日本なら、ことさら深刻に、ことさらドラマチックに描くところだ。
だが、アメリカはそんなことはしない。
そんなこと「常識」だからだ。
だれもが浮かれて、だれもが多額のローンを背負わされてもどうにかなると思い込んでいた。
その熱を感じていた彼らは、それを深刻そうには描かない。
その温度差が、スクリーンと観客席の温度差だっただろう。
それはストーリーが追えないということではないだろう。
おそらく文化性の違いだ。
そこに、さらに予備知識の頼りなさが加わって、さらに不可解(いや理解はできるが共感はできない)な笑いが展開される。
だから、「楽しむ」ことが難しい。
もう一つ、この映画が本当にコメディ映画に値する題材なのかという点だ。
まだ十年足らずしか経っていない、この話題を、アメリカ人はほんとうに「笑える裏話」として描いて大丈夫なのかという点に私は疑問を禁じ得ない。
100軒あって、住んでいるのは4人だけ、という深刻なバブルを経て、多くのアメリカ人は家と職を失った。
アメリカ経済はシェールオイルをはじめとして立ち直りつつあることは間違いない。
だが、この深刻な事件から10年も経たないうちに、このような映画にして「おもしろい」と言えるのかはなはだ疑問だ。
しかもそれは人の欲望(あるいは無責任)によって引き起こされた人為的な問題なのだ。
深刻に描くべきだとは思わない。
だが、笑えるかといえば笑えない。
この映画は世界を揺るがす経済的破滅を描いている。
しかし、この映画はどこまでも密室劇だ。
ベールのインタビューに「共演者たちとどのようなやりとりがあったのか」という質問に対して、「映画のシーンと同じ一人芝居だった」と答えている。
つまり、この映画はどれだけ豪華な(桁外れな)俳優達(金融商品)を使っていても、結局狭い世界での話だったということだ。
私にはこの映画があまりにもアメリカ人のエゴイスティックな部分が出過ぎているような気がしてならない。
密室で世界を動かしてしまえるという高度金融社会を示しているし、そのことによって「悲しみを抱きながらも勝者となる」という強者の理論を描いている。
それによってたくさんの人を死に追いやった(あるいは実質的に死に追いやった)出来事をコメディにしてしまった。
なんとなく、テロリストを生み出す世界を招いた「自負」が垣間見える。
監督:アダム・マッケイ
二重の意味で、笑えない。
2005年、マイケル・バーリ(クリスチャン・ベール)はサブプライムに関するデータを収集しはじめた。
住宅関係の相場は上がり続けていたが、あきらかに実態のない状況であることを見抜いたからだ。
同じ頃、ジャレド・ベネット(ライアン・コズリング)は、住宅金融関係についてのマイケルの戦略を見抜き、同じように、その保険としてかけられていたクレジット・デフォルト・スワップという商品を買いあろうとする。
またそのジャレドが間違えて電話をかけたフロントポイントという会社のマーク(スティーヴ・カレル)は、この話の真相をジャレド聞き出そうと動き出す。
ブラッド・ピットもそのクレジットに名前を連ねることから、日本でも話題になった。
私が見にいった平日では、かなりの客足だった。
サブプライム問題については、当時様々な解説者たちが熱心に解説していた。
アメリカの金融問題でありながら、日本にも大きな影響を与えたからだろう。
だから、この客足はキャスティングだけの問題ではないだろう。
多くの人は「あの有名な事件の裏話を明かしてくれるのだろう」とすこし期待しながら映画館に向かったことだろう。
だが、多くの人は、映画館を後にするとき、首をかしげたに違いない。
いや、私は少なくとも首をかしげて去って行った。
この映画を今から観ようと思っている人は少ないかも知れないが、忠告するなら、「勉強してからいったほうがいい」ということだ。
池上彰さんが解説してくれる程度のわかりやすい予備知識をもっていないと、たぶん全く話しについていけない。
それがあっても、たぶん、なぜこの映画がこんなに「おもしろいのか」がわからないと思う。
▼以下はネタバレあり▼
かく言う私も、正直よくわからない。
ある程度の仕組みは知っているつもりだったが、映画の展開はそういうところに焦点は置かれない。
つまり、なぜこのサブプライム問題が起こったかという点ではなく、この世界的な金融危機にあって、さらに儲けた奴らがいる、ということを解き明かしているからだ。
だから、知識があることは前提で、その知識をひっくり返すことに重きが置かれている。
なぜなら、サブプライム問題についてはアメリカ人は痛いほど当時解説されていたし、もはや「常識」だからだ。
それについて、なぜ起こったかなんていう説明はほとんどない。
少なくともそこには焦点が置かれない。
だから、予備知識が無ければ、完全に映画においていかれることになる。
いや、私だけならそれでいい。
たぶんこの状況は私だけではなかった。
なぜそう言い切れるのか。
コメディ映画なのに、誰も映画館で笑っていなかったからだ。
笑えなかった理由は二つある。
一つは、「どこがおもしろいのか」文化性が違うという点だ。
話はどんどんエスカレートして、どんどん深刻化する。
その決定的なところは、ストリップ嬢なのに家を5軒所有していると告白されるところあたりだろう。
しかし、その前後であっても、テンポは非常に速く、そしてポップだ。
そのギャップについていけない。
日本なら、ことさら深刻に、ことさらドラマチックに描くところだ。
だが、アメリカはそんなことはしない。
そんなこと「常識」だからだ。
だれもが浮かれて、だれもが多額のローンを背負わされてもどうにかなると思い込んでいた。
その熱を感じていた彼らは、それを深刻そうには描かない。
その温度差が、スクリーンと観客席の温度差だっただろう。
それはストーリーが追えないということではないだろう。
おそらく文化性の違いだ。
そこに、さらに予備知識の頼りなさが加わって、さらに不可解(いや理解はできるが共感はできない)な笑いが展開される。
だから、「楽しむ」ことが難しい。
もう一つ、この映画が本当にコメディ映画に値する題材なのかという点だ。
まだ十年足らずしか経っていない、この話題を、アメリカ人はほんとうに「笑える裏話」として描いて大丈夫なのかという点に私は疑問を禁じ得ない。
100軒あって、住んでいるのは4人だけ、という深刻なバブルを経て、多くのアメリカ人は家と職を失った。
アメリカ経済はシェールオイルをはじめとして立ち直りつつあることは間違いない。
だが、この深刻な事件から10年も経たないうちに、このような映画にして「おもしろい」と言えるのかはなはだ疑問だ。
しかもそれは人の欲望(あるいは無責任)によって引き起こされた人為的な問題なのだ。
深刻に描くべきだとは思わない。
だが、笑えるかといえば笑えない。
この映画は世界を揺るがす経済的破滅を描いている。
しかし、この映画はどこまでも密室劇だ。
ベールのインタビューに「共演者たちとどのようなやりとりがあったのか」という質問に対して、「映画のシーンと同じ一人芝居だった」と答えている。
つまり、この映画はどれだけ豪華な(桁外れな)俳優達(金融商品)を使っていても、結局狭い世界での話だったということだ。
私にはこの映画があまりにもアメリカ人のエゴイスティックな部分が出過ぎているような気がしてならない。
密室で世界を動かしてしまえるという高度金融社会を示しているし、そのことによって「悲しみを抱きながらも勝者となる」という強者の理論を描いている。
それによってたくさんの人を死に追いやった(あるいは実質的に死に追いやった)出来事をコメディにしてしまった。
なんとなく、テロリストを生み出す世界を招いた「自負」が垣間見える。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます