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ネタバレ必至で読み解く主観的映画批評の日々!

マトリックス・レボリューションズ

2008-05-11 11:57:43 | 映画(ま)
評価点:57点/2003年/アメリカ

監督:アンディ・ウォシャウスキー、ラリー・ウォシャウスキー

ついにシリーズ完結編。

眠ったままのネオ(キアヌリーブス)は、マトリックス世界と現実世界との狭間に迷い込んだまま戻れないでいた。
それをオラクルに聞かされたモーフィアス(ローレンス・フィッシュバーン)とトリニティ(キャリー=アン・モス)は、その行き来を操るトレインマンを支配する、メロビンジアン(ランバート・ウィルソン)に取引を持ちかける。
取引の代償として「預言者の目」を要求するメロビンジアンに対し、トリニティは力尽くでネオをマトリックスに戻させる。
マトリックスに戻れたネオは、オラクルが敵であるのか見方であるのかを確かめるために、もう一度彼女に会う。
彼女は、アーキテクトに対抗するため、肉体を捨てネオの側につくことを明言する。
一方で、現実でも肉体を手に入れた元エージェントのスミス(ヒューゴ・ウィービング)は、着々とネオを追い詰めていく。

なにかと話題の「マトリックス」シリーズの完結編。
監督のウォシャウスキー兄弟が完結であることを明言しているため、おそらくこれで「本当」の完結であろうと思われる。
日本のアニメやゲームに影響された監督が、CGの力を得て、その世界観を具現化したこのシリーズ。
しかも、二作目では非常に中途半端なところで終わっていたために、いい意味でも悪い意味でも、観客を引っ張った。
このせいで、明らかに作り手としては不利な状況に立たされたわけだが、この期待をいい意味で裏切れるかどうか。

▼以下はネタバレあり▼

二作目の時に書いたが、一作目で現実の「ひっくり返し」をみせ、二作目では、現実世界での人間の希望の星だった、
レジスタンスの「ザイオン」までもが、実はマトリックスのコントロール下に置かれていたという「ひっくり返し」をみせた。
それゆえ、本作でも「ひっくり返し」があるのかと身構えていたが、それはなかったようだ。

今回最大の問題は「いかに終わらせるか」である。
三部作の最後の作品であり、完結すると公言するからには、どういう結末であるかということが三部作全体の評価に大きくかかわってくる。
ではその肝心の結末はどのようなものであったのか。

マトリックス(機械)とザイオン(人間)との戦いが起こっている最中、マトリックス内部では大きな変化が起きていた。
それは、スミスというマトリックスのプログラミングから抜けてしまった因子が、マトリックス内のプログラムや、人間を取り込み増殖していくというものだった。

そもそも、この映画の世界観は、すべてにおいて二項対立によって成り立っているといっていい。
たとえば、マトリックスと現実。
センチネルと人間。
オラクルとアーキテクト。
ザイオンとマシン・シティ。
ある意味で、コンピュータ的なデジタルの世界である。
オール・オア・ナッシング、0か1かの世界である。
その意味において、スミスに対立するものは、ネオであり、ネオが敵対するべきは、マトリックスではなく、この「スミス」だったのである。

つまり、ネオ、マトリックス、スミスという三すくみの対立ではなく、マトリックス、現実で一つの対立で、スミス、ネオで一つの対立となっている。
要するに、スミスに対抗できるのはネオだけであり、よって、スミスと対峙することを取引材料にして、コンピュータにザイオン侵攻をやめさせるという結末を用意したわけである。

これは平たく言えば、ヘーゲルの弁証法である。
「正」(ザイオン)⇔「反」(コンピュータ)の対立をスミスの抹殺という「合」によって解決を試みたのである。
スミスという共通の敵が現れたことにより、両者は対立をやめ、「共存」を目指すということだ。
アメリカの中東に対する一連の問題への、製作者側の「答え」を出したとも思えるこの結末には一見、ハッピー・エンド的な綺麗さがある。
しかし、この結末は「課題」に対しての解決策にはなっていない。

一作目で、ネオは救世主として全ての人間を、マトリックスから解放することを胸に「飛び立つ」。
換言すれば、一作目から続くこのシリーズのテーマは、「人間の開放」である。
しかし、この完結編でみせた回答は、共存である。
その共存とは、コンピュータとザイオンの共存であり、つながれた人との共存ではない。
つながれた人はそのままつながれたままに残され、とりあえずザイオンは残りました、という答えだ。
アーキテクトは最後に、「人間とは違う」と、約束の締結を示すが、もし仮に、またコンピュータがセンチネルを率いてザイオンを攻撃すれば、たちまち人間は滅んでしまうだろう。
すなわち、全く力関係は変化していないのである。
「生かされている」という状況になんら変化はない。
はっきり言ってしまえば、ネオとスミスが相殺しただけで、「課題」は残され続け、一連の戦いは、人間開放には全く意味がない。

これは憶測でしかないが、ネオとスミスはおそらく相殺という形で決着をつけたと思われる。
スミスとはコンピュータや現実世界で言うところの「ウイルス」であり、ウイルスというのは、増えすぎると犯している宿主(ホスト)との共存を選ぶ。
スミスの場合、増えすぎた彼は、対峙する者であるネオまで取り込もうとする。
しかし、スミスとネオはちょうどあわせ鏡のようなものであり、対峙できなくなると存在することができなくなってしまう。
それは、ネオが救世主となった一作目で、「プラグが抜けた」というスミスの変化が同時的に覚醒していることからもわかる。
彼らは対立しあうことで、劇中でスミスが言うように、まさに「存在理由」をもつことができるのである。

ネオが生きていようといまいと、いずれにせよ、課題が解決されたということはありえない。
マトリックスが存在していることと、人間を解放することとが「共存」できるはずがないのだ。
もし、ザイオンがこの事態に対し、手放しで喜んでいるとしたら、それは他の人間を犠牲にして生きるという、エゴイスティックな幸福だ。

このシリーズにはこの疑問をはじめ、「破綻」が相次いでいる。
その破綻とは、映画として成立しないというような種類の破綻ではないにしても、一作目と、二作目、三作目というつながりを破壊してしまうような「破綻」である。
一作目では、「デジャヴュ」がマトリックスの「書き換え」であることを設定として置いているが、それが二作目以降、全く死んでしまっている。
「人間」を赤いピル、青いピルで図るという儀式も、二作目以降には登場しない。
サイファーがマトリックスと取引するが、そういったエージェントと人間との関係は、それ以後みたことがない(メロビンジアンとトリニティとのやりとりは全く意味が違う)。
エージェントにいたっては、スミス以外、殆んど存在感がないほどだ。

このように、一作目でマトリックスという世界を形成してきた設定が、それ以降では全く見られない。
これは、先ほどまでに問題にしていた「課題(テーマと呼称しても良いだろう)」が全く変更されたことによる「破綻」がうんでいる断絶だ。
何度も言うようだが、一作目でのテーマは「人間を解放する」であり、二作目三作目は、「スミスを倒す」あるいは、「ザイオンを救う」なのである。

くどくなっているが、僕が言いたいことは、全く違う映画になってしまったということだ。
「マトリックス」という世界観が、「リローデッド」「レボリューションズ」になり、完全に再構築されなおしてしまった。
リローデッド」にも書いたが、明らかに一作目と二作目で大きな溝がある。
僕に言わせれば、ここまで違う映画になってしまうと、三部作と称することはもはや不可能に近い。

確かに、映像は綺麗だ。
ザイオンでの、センチネルとの戦いは、圧巻の一言だ。
しかし、その映像が効果的に活かされているとはとても思えない。
それは、今まで言ってきたようなストーリーだけの問題ではない。
演出としての問題もそこにはある。
平たく言えば、長すぎるのだ。
戦争のシーンであるため、長くなるのは仕方がないかもしれないが、どんなにすばらしい映像であっても、長すぎては効果は半減してしまう。
同じだけの時間、戦闘シーンをみせるなら、ひとつの長いシーンではなく、効果的にいくつかに分けて見せ場を分割するべきだった。

こういったアクション・シーンは、観客の集中や興味を引っ張るため、いくつかに分けて見せるのが常套手段だ。
どれだけすごい映像でも、この表現媒体は「映画」である。
二時間観客を引っ張るためには、それなりの工夫が必要だ。
また、「ドラゴンボール」のようなネオとスミスとの戦いは、正直、全然見せ場になっていない。
明らかにザイオンでの戦闘の方がすごい。
さあ、いよいよクライマックスだ、という時に、この程度のアクションでは物足りない。
しかもあからさまに不自然な動きをするために、「もうどうにでもなってください」というような戦いに見え、観客がネオに同化して、スミスと戦うことを不可能にしている。

戦闘シーンの演出だけではない。
映画としてツライ見せ方が多すぎる。
そもそも、伏線も何もない状態で、いきなり設定を打ち出してくる展開では、三作目になると観客はついていけない。
トレインマンという設定や、マトリックスにあるものを現実世界にもっていく云々は、もっと早い段階で示すべき設定だ。
三部作の三作目の冒頭で話す内容ではない。
どんどん人間染みていく「プログラム」なるものも、全く解せない。
マトリックスはコンピュータでできているはずなのに、削除を免れるために奔走する彼らは、滑稽であり、違和感たっぷりだ。
特にネオと取引し始めるマトリックスにはもはやデジタル思考のかけらもない。

設定をみせるのが遅すぎるため、全てが製作者の都合によって設けられているようにさえ感じられる。
オラクルの肉体にしても、役者が死んだという苦しさはわかるが、肉体を入れ替えるという設定ならば、劇的(白人になるなど)に変化すべきだった。

また、これは一作目からそうだが、いきなりあらわれた設定を思わせぶりな専門用語で説明をまくし立てるため、理解できない。
それはまったくもって表層的であり、「意味」がない。
ただの言葉遊びで、中身がない。
それを三作目までしていくから、ついていけない観客はどんどん興味を失っていく。

タランティーノの「キル・ビル」が自己満足映画なら、この映画も自己満足映画だ。
しかし、このウォシャウスキー兄弟は、まったく観客を意識していない。
好きな人はのめりこむほどのカリスマ性を発揮するが、観客をどんどん取り残していこうとするメガホンの態度は解せない。

ふと思うことは、「この人、映画撮るの下手」

一作目でやめとけばよかったのに、と思われて仕方がない。
ちなみに点数は、シリーズ全体の総合評価と考えてもらっていい。

(2003/11/7執筆)

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