評価点:90点/1995年/アメリカ
監督:デヴィッド・フィンチャー(「ベンジャミン・バトン」、「ゾディアック」他)
あと七日で定年退職となるサマセット(モーガン・フリーマン)のもとへ、一人の男(ブラッド・ピット)と一つの事件が舞い込む。
刑事になったばかりの新米ミルズと、ベテラン刑事は、拘束帯をつけながら、スパゲティに顔を突っ込んでいる男の死体を捜査し始める。
翌日の火曜日、今度は敏腕弁護士が「強欲」と血で書かれた自室で殺されているのが発見される。
同じ日、スパゲティ男の体から出てきたプラスティック片から、「大食」と書かれた犯人のメッセージを発見する。
これは七つの大罪を意味していると察したサマセットは、この事件の連続性を読み解くが。
この映画は映画史上でも、その後のクライムホラー映画の傾向を決定づけたという意味において、衝撃的な映画である。
おそらく、この映画を見ないでホラー映画を撮ることはもはやできないだろう。
「エイリアン3」で酷評されたフィンチャーだが、この映画でその存在感を人々に、文字通り刻み込んだ。
この衝撃は「SAW」なんてメじゃない。
今思えば、「SAW」はこの「セブン」を発展させたに過ぎない同工異曲の作品だ。
人間のイマジネーションのすごさ、そしてそれは単なる猟奇的な犯罪をモティーフにしているというだけではない、完成度の高さに舌を巻くはずだ。
若い役者たちの奮闘ぶりにも注目される。
特にケヴィン・スペイシーの徹底した演技は、「ダークナイト」のヒース・レジャーを彷彿とさせる。
この映画で一気に彼の名前が知れ渡ったのは、必然のことだろう。
え? まだみたことがない? それを人に言う前に、早急に観ておこう。
じゃないと恥ずかしいですよ。
観たことがある人は、懐かしさを感じながら読んでください。
▼以下はネタバレあり▼
「大食」「強欲」「怠惰」「色欲」「傲慢」「嫉妬」「憤怒」
これらはキリスト教の聖書に記された七つの大罪と呼ばれる人間の根源的な罪を示している。
この映画はその大罪になぞらえられた犯罪にまつわる映画だ。
この映画を観たあと、僕は呆然としてしまったことを、今でも覚えている。
確か初めて観たのは十年くらい前だったはずだ。
以降、この映画を観るたびに、ラストの嫌悪感とこの映画の完璧さに胸をえぐられるような思いを抱く。
この映画が観たあと、ひどい嫌悪感にさいなまれるのは、この映画が残酷だからではない。
この映画があまりにも完璧なシナリオであるのに、描いているのが完全な「悪」だからだ。
「すごい映画だが、でも許せない。」
「いやな感じがするが、反論できない」という観客にとっては最も苦しい心理に突き落とされる。
ある街で起こる事件、それは固有名詞を剥奪された普遍的なアメリカの都市、という設定だ。
ニューヨークであるような、けれどロスかもしれない(ごめん実際にどこなのか知らない)という街に絶望したジョン・ドゥ(ケヴィン・スペイシー)は、七つの大罪という人間の罪を知らしめるために、この犯罪を実行する。
彼は単なる涼気殺人鬼ではなく、明確な目的と、明確な対象を選んで用意周到に殺人を行う。
おそらく、最後の「嫉妬」と「憤怒」以外は、すべて計画のうちだったはずだ。
これが変更されるのは、FBIのつてでジョンに行きつき、追い詰めた時点だろう。
彼が銃を突きつけられながらも希望を捨てていないまなざしに、彼をターゲットにしようとしたに違いない。
ともかく、彼はアメリカという世界に絶望し、世界のすべてを否定するためにこの事件を完結させる。
その結末は、ミルズが抱いているはずの希望を否定し、その「憤怒」から自分を殺させることで、彼のシナリオを書き換えられないようにすることだった。
殺してしまえばジョンを肯定することになり、自ら七つの大罪「憤怒」に関わることになる。
そして、彼の心理や動機は完全に闇の中に葬り去られ、神話化してしまう。
ミルズが「憤怒」を押さえ込み、何とか殺さなければ、それはジョンの負けということになる。
だが、妊娠していたことを知らず、命乞いをしていた妻を、無残にも殺し、なおかつその首を宅配便で送りつけるという「嫉妬」に、拳銃を持った男が「憤怒」を抑えられるか。
ジョンの絶望が、ミルズの希望を壊してしまう瞬間なのだ。
ミルズは、その意味で物語の象徴的な人物として描かれている。
彼には大きな希望があった。
それは初めて犯罪を実質的に取り締まる刑事になり、悪意がはびこる街で、戦うという希望。
そして、彼には、――彼自身は知らなかったが――子供ができたという誕生の希望。
物語上、彼の希望を否定することは、この世界を絶望のまま静止させることに他ならない。
結末が重たいのはそれだけが理由ではない。
ジョン・ドゥの悪が満ちる世界観というのは、それを捜査する側のサマセットにも共通しているからだ。
これまで感情移入してきたはずのサマセット(特に妊娠を告白されてからはデヴィッドよりもサマセットになるだろう)は、劇中繰り返しこの街の悪について語ってきた。
観客としては、ジョンの言う世界への絶望は、理解しがたい詭弁でも、強弁でもない。
それはサマセットの考えと、そして観客の考えと全く同じなのだ。
だから、ジョンの計画通りの結末であることが、こんなにも重たいのだ。
(僕はこの映画を改めて観て、「サマセットが犯人ではないか」と錯覚を起こしたくらいだ
それは過言ではなく、おそらくそのように仕組まれているからなのだ)
それはジョンが繰り返し引用する聖書や偉人たちの言葉にも示されている。
彼は本当に教養ある人物として描かれている。
どんな職業だったのか、どんな人物だったのか、ほとんど劇中では明らかにされないが、それまでの人生が単なる異常者でないことは確かだ。
七つの大罪になぞられる犯罪の彼の哲学には、世界の状況を、人々の退廃を忌み嫌う遁世ぶりが流れている。
彼の苦悩が、個人的な性向によるものではないことが、エンディングをより重くする。
しかし、この映画を観ても、後味の悪さだけではない。
それでも未来を信じたいという気持ちにも同時に持つはずだ。
なぜだろう。
それはラストのサマセットの台詞にある。
「ヘミングウェイは“この世はすばらしい この世界は戦う価値がある”と言った。私は後半は賛成だ。」
彼はこの悲惨な事件を体験しながらも、それでも希望を失ってはない。
ジョンとサマセット、全く同じ考えにさいなまれた両者の違いは何か。
それは世に絶望した男と、世を忌み嫌いながらも希望を見いだそうとせずにはいられない男という違いだ。
ジョンは七つの大罪に、世界の終わりを示した。
だが、彼にあるもっと根源的な罪は、「絶望」という罪である。
あきらめることほど人間の大罪はない。
それを示しているからこそ、この映画は単なるサイコスリラーやホラーという枠組みを超えて、人々の心に突き刺さるのだ。
監督:デヴィッド・フィンチャー(「ベンジャミン・バトン」、「ゾディアック」他)
あと七日で定年退職となるサマセット(モーガン・フリーマン)のもとへ、一人の男(ブラッド・ピット)と一つの事件が舞い込む。
刑事になったばかりの新米ミルズと、ベテラン刑事は、拘束帯をつけながら、スパゲティに顔を突っ込んでいる男の死体を捜査し始める。
翌日の火曜日、今度は敏腕弁護士が「強欲」と血で書かれた自室で殺されているのが発見される。
同じ日、スパゲティ男の体から出てきたプラスティック片から、「大食」と書かれた犯人のメッセージを発見する。
これは七つの大罪を意味していると察したサマセットは、この事件の連続性を読み解くが。
この映画は映画史上でも、その後のクライムホラー映画の傾向を決定づけたという意味において、衝撃的な映画である。
おそらく、この映画を見ないでホラー映画を撮ることはもはやできないだろう。
「エイリアン3」で酷評されたフィンチャーだが、この映画でその存在感を人々に、文字通り刻み込んだ。
この衝撃は「SAW」なんてメじゃない。
今思えば、「SAW」はこの「セブン」を発展させたに過ぎない同工異曲の作品だ。
人間のイマジネーションのすごさ、そしてそれは単なる猟奇的な犯罪をモティーフにしているというだけではない、完成度の高さに舌を巻くはずだ。
若い役者たちの奮闘ぶりにも注目される。
特にケヴィン・スペイシーの徹底した演技は、「ダークナイト」のヒース・レジャーを彷彿とさせる。
この映画で一気に彼の名前が知れ渡ったのは、必然のことだろう。
え? まだみたことがない? それを人に言う前に、早急に観ておこう。
じゃないと恥ずかしいですよ。
観たことがある人は、懐かしさを感じながら読んでください。
▼以下はネタバレあり▼
「大食」「強欲」「怠惰」「色欲」「傲慢」「嫉妬」「憤怒」
これらはキリスト教の聖書に記された七つの大罪と呼ばれる人間の根源的な罪を示している。
この映画はその大罪になぞらえられた犯罪にまつわる映画だ。
この映画を観たあと、僕は呆然としてしまったことを、今でも覚えている。
確か初めて観たのは十年くらい前だったはずだ。
以降、この映画を観るたびに、ラストの嫌悪感とこの映画の完璧さに胸をえぐられるような思いを抱く。
この映画が観たあと、ひどい嫌悪感にさいなまれるのは、この映画が残酷だからではない。
この映画があまりにも完璧なシナリオであるのに、描いているのが完全な「悪」だからだ。
「すごい映画だが、でも許せない。」
「いやな感じがするが、反論できない」という観客にとっては最も苦しい心理に突き落とされる。
ある街で起こる事件、それは固有名詞を剥奪された普遍的なアメリカの都市、という設定だ。
ニューヨークであるような、けれどロスかもしれない(ごめん実際にどこなのか知らない)という街に絶望したジョン・ドゥ(ケヴィン・スペイシー)は、七つの大罪という人間の罪を知らしめるために、この犯罪を実行する。
彼は単なる涼気殺人鬼ではなく、明確な目的と、明確な対象を選んで用意周到に殺人を行う。
おそらく、最後の「嫉妬」と「憤怒」以外は、すべて計画のうちだったはずだ。
これが変更されるのは、FBIのつてでジョンに行きつき、追い詰めた時点だろう。
彼が銃を突きつけられながらも希望を捨てていないまなざしに、彼をターゲットにしようとしたに違いない。
ともかく、彼はアメリカという世界に絶望し、世界のすべてを否定するためにこの事件を完結させる。
その結末は、ミルズが抱いているはずの希望を否定し、その「憤怒」から自分を殺させることで、彼のシナリオを書き換えられないようにすることだった。
殺してしまえばジョンを肯定することになり、自ら七つの大罪「憤怒」に関わることになる。
そして、彼の心理や動機は完全に闇の中に葬り去られ、神話化してしまう。
ミルズが「憤怒」を押さえ込み、何とか殺さなければ、それはジョンの負けということになる。
だが、妊娠していたことを知らず、命乞いをしていた妻を、無残にも殺し、なおかつその首を宅配便で送りつけるという「嫉妬」に、拳銃を持った男が「憤怒」を抑えられるか。
ジョンの絶望が、ミルズの希望を壊してしまう瞬間なのだ。
ミルズは、その意味で物語の象徴的な人物として描かれている。
彼には大きな希望があった。
それは初めて犯罪を実質的に取り締まる刑事になり、悪意がはびこる街で、戦うという希望。
そして、彼には、――彼自身は知らなかったが――子供ができたという誕生の希望。
物語上、彼の希望を否定することは、この世界を絶望のまま静止させることに他ならない。
結末が重たいのはそれだけが理由ではない。
ジョン・ドゥの悪が満ちる世界観というのは、それを捜査する側のサマセットにも共通しているからだ。
これまで感情移入してきたはずのサマセット(特に妊娠を告白されてからはデヴィッドよりもサマセットになるだろう)は、劇中繰り返しこの街の悪について語ってきた。
観客としては、ジョンの言う世界への絶望は、理解しがたい詭弁でも、強弁でもない。
それはサマセットの考えと、そして観客の考えと全く同じなのだ。
だから、ジョンの計画通りの結末であることが、こんなにも重たいのだ。
(僕はこの映画を改めて観て、「サマセットが犯人ではないか」と錯覚を起こしたくらいだ
それは過言ではなく、おそらくそのように仕組まれているからなのだ)
それはジョンが繰り返し引用する聖書や偉人たちの言葉にも示されている。
彼は本当に教養ある人物として描かれている。
どんな職業だったのか、どんな人物だったのか、ほとんど劇中では明らかにされないが、それまでの人生が単なる異常者でないことは確かだ。
七つの大罪になぞられる犯罪の彼の哲学には、世界の状況を、人々の退廃を忌み嫌う遁世ぶりが流れている。
彼の苦悩が、個人的な性向によるものではないことが、エンディングをより重くする。
しかし、この映画を観ても、後味の悪さだけではない。
それでも未来を信じたいという気持ちにも同時に持つはずだ。
なぜだろう。
それはラストのサマセットの台詞にある。
「ヘミングウェイは“この世はすばらしい この世界は戦う価値がある”と言った。私は後半は賛成だ。」
彼はこの悲惨な事件を体験しながらも、それでも希望を失ってはない。
ジョンとサマセット、全く同じ考えにさいなまれた両者の違いは何か。
それは世に絶望した男と、世を忌み嫌いながらも希望を見いだそうとせずにはいられない男という違いだ。
ジョンは七つの大罪に、世界の終わりを示した。
だが、彼にあるもっと根源的な罪は、「絶望」という罪である。
あきらめることほど人間の大罪はない。
それを示しているからこそ、この映画は単なるサイコスリラーやホラーという枠組みを超えて、人々の心に突き刺さるのだ。
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