評価点:85点/2017年/アメリカ/133分
監督:ジョン・ワッツ
これは、「アベンジャー」シリーズ最高傑作か。
「シヴィル・ウォー」の直後、その才能を見いだされたスパイディこと、ピーター・パーカー(トム・ホランド)は、スターク社からの「研修」と称して頻繁に世直しに出ていた。
しかし、一向にトニー(ロバート・ダウニー・Jr)から評価されない。
業を煮やしているところに、宇宙技術を応用して武器を製造、密売していた男が、ATMを襲撃しているところに遭遇する。
大きな被害を出したことに、トニーはピーターに注意をする。
この事件が大きな事件の発端であることを嗅ぎつけたピーターは、独自に調査を始める。
「エンドゲーム」から逆に辿っていってしまっているが、「スパイダーマン」の最新作のために観た。
「シヴィル・ウォー」を観ていないので、この話の前日譚が全く頭に入っていない状態で観た。
当然前評判も、ストーリーも知らない。
「アベンジャーズ」のシリーズの中での位置づけとなった、ということしか知らずに観た。
私はサム・ライミも、アンドリュー・ガーフィールドの「アメイジング」も観ている。
だから「スパイディ」については、一定の流れを知っているつもりだ。
その私からみて、この映画は「アベンジャー」シリーズの中でも屈指の出来だと言っていいと思う。
これほど自律性と連続性を兼ね備えている作品はない。
単独で観ても、連続で観てもなお、面白い。
その理由を以下で探ってみよう。
▼以下はネタバレあり▼
この映画の特徴、そして面白い理由は二つだ。
この二つにすべてを集約できると思う。
一つは、自律性と連続性が非常に危ういところで両立しているという点だ。
説明的な描写は一切ない。
だからスパイディについて知らなければ、恐らく全く理解できない。
さらに「シヴィル・ウォー」の直後ということもあり、トニーやキャプテン・アメリカについて知らなければ、ちょっとついていけない。
しかし、その一方で特に知らなくてもついて行けるほど、この映画は自律性がある。
単体としても十分面白い出来になっている。
どっちつかずではなく、一粒で二度おいしいというような、そういう両立なのだ。
ピーターがどんな境遇なのか、ほとんど説明されない。
親友のネッドにクモに噛まれたと話したり、自作ビデオにキャプテン・アメリカの盾を奪ったと語ったり、授業中に糸の開発を行ったり、そういう描写によって「なるほど今こういう状況なのか」と理解をすすめる程度だ。
だから、これまでのスパイディをある程度しらなければ、ちょっとついていけいない。
でも、これまでの5作のスパイダーマンを観ていれば、なんとなく彼の特徴や状況はつかめてしまう。
なぜこんなに不親切な映画なのか。
だって、スパイダーマンは他のどのヒーローよりも国民的に人気のあるキャラクターだから。
このバランスが非常に良い。
ソーやキャップのような丁寧な描き方はもはや蛇足なのだ。
めまぐるしく語る彼の様子の中に、彼の状況やキャラクター性は十分伝わるようにできている。
だから、自律しているようで私たちがよく知っているあのスパイディもである、という連続性、親しみももっている。
しかし、一連の作品を観ていると、さらに楽しめる。
ああ、このスーツはトニーが開発したものだからこれほど性能が良いのかとか、「シヴィル・ウォー」で追放された(詳しく知らないんだけど)キャップがことごとくヴィデオに登場して哀愁の笑いを誘ってくるとか、にやりとできる。
そして、何よりトニーとのやりとりだ。
父親を亡くしたピーターと、同じく父親の影の中で生きて来たトニーが親子のように振る舞っている。
トニーは時に冷たく見えるが、彼への愛が溢れている。
彼のためにスーツを作り、彼のために補助輪モードを用意して、会見まで準備させている。
裏切られても全く気にしない。
だってピーターは自分の息子と同じくらい、大切にしたい存在だから。
そして、それが「エンドゲーム」まで続いていくことを考えるとむしろ涙さえ出てくる(いや、出てこないけど)。
そういう連続性が、この映画をさらに魅力的にしてくれる。
けれども、それは前後を観なくても分かるように、きちんとこの映画の中で描かれるのだ。
それが最高傑作の所以だ。
もう一つ指摘したいのは、ヴィラン(敵)の設定が見事だということだ。
「ウルトロン」では何が何だかよくわからない敵が設定されたのに対して、この「ホームカミング」では明確な敵が設定されている。
それがみごとにトニー・ピーターとの対比になっている。
トニーとピーターは実際の親子ではないが、親子のようなつよいつながりがある(桎梏を意味する「絆」では決してない)。
エイドリアン・トゥームスとその娘リズは、血のつながった親子であり、父親は娘を養うために武器を売る。
この武器は、トニーが人々を巻き込んだ宇宙人による攻撃の後、残った残骸を再構築したものだ。
いわば、トニーが蔑ろにしてきた一般庶民達の象徴が、エイドリアン(ヴィラン名はバルチャー)なのだ。
そして劇中でも言われるように、トニーも武器を売り巨万の富を築き、エイドリアンもまた武器によって利を得ている。
身から出たサビ、その後始末を、大きな宇宙規模の闘いではなく、小さなニューヨークを舞台に行われる。
娘と「息子」、その闘いと交感でもある。
卒業パーティーに迎えにいったとき、エイドリアンが登場してきて私は鳥肌が立った。
うますぎる展開だ。
忘れようとしていた、スパイディの血が嫌でも騒いでしまう。
それは、トニーに認められようとしているからではない、もはやピーターは人々を守るために立ち上がるべきだと突きつけられるのだ。
ピーターの内面をよく表している、初めての尋問のシークエンスがある。
尋問しようとして逆に言いくるめられてしまうが、尋問しようとしていた相手もまた、「街が危険にさらされるのはいやだ」という至極市民的な発想で協力してくれる。
共に家族のため、目の前にいる人のために生きてきた二人が、対立してしまう。
もはやそこには宇宙レベルの戦争ではない、日常に根ざした、まさにニューヨークのヒーローであるスパイディというキャラクターが立ち上がってくる。
だからアベンジャーズの一員になる必要はない。
誰かの歓心を買うために振る舞う必要もない。
彼は、アイデンティティとして、街を守ることを決意する。
驚くべきことは、この映画の配給が、ディズニーではなくソニーピクチャーエンターテイメントという、別会社であるということだ。
同じコンセプトで、同じ世界観を、全く違う(というかむしろライバルの)配給会社が描く。
日本では考えられないコラボレーションだろう。
それにしても、MCU(マーヴェル・シネマティック・ユニヴァーシティ)は、どこから物語の連続性を意識して企画されていたのだろうか。
少なくとも「シヴィル」から「エンドゲーム」までの流れは、悪い夢を見ているかのような素晴らしい連続性だ。
その中でも、単独で映画として成立させている本作は、本当にすばらしい。
(まあ、「シヴィル・ウォー」はまだ観ていないけど。何度も言うけど。)
監督:ジョン・ワッツ
これは、「アベンジャー」シリーズ最高傑作か。
「シヴィル・ウォー」の直後、その才能を見いだされたスパイディこと、ピーター・パーカー(トム・ホランド)は、スターク社からの「研修」と称して頻繁に世直しに出ていた。
しかし、一向にトニー(ロバート・ダウニー・Jr)から評価されない。
業を煮やしているところに、宇宙技術を応用して武器を製造、密売していた男が、ATMを襲撃しているところに遭遇する。
大きな被害を出したことに、トニーはピーターに注意をする。
この事件が大きな事件の発端であることを嗅ぎつけたピーターは、独自に調査を始める。
「エンドゲーム」から逆に辿っていってしまっているが、「スパイダーマン」の最新作のために観た。
「シヴィル・ウォー」を観ていないので、この話の前日譚が全く頭に入っていない状態で観た。
当然前評判も、ストーリーも知らない。
「アベンジャーズ」のシリーズの中での位置づけとなった、ということしか知らずに観た。
私はサム・ライミも、アンドリュー・ガーフィールドの「アメイジング」も観ている。
だから「スパイディ」については、一定の流れを知っているつもりだ。
その私からみて、この映画は「アベンジャー」シリーズの中でも屈指の出来だと言っていいと思う。
これほど自律性と連続性を兼ね備えている作品はない。
単独で観ても、連続で観てもなお、面白い。
その理由を以下で探ってみよう。
▼以下はネタバレあり▼
この映画の特徴、そして面白い理由は二つだ。
この二つにすべてを集約できると思う。
一つは、自律性と連続性が非常に危ういところで両立しているという点だ。
説明的な描写は一切ない。
だからスパイディについて知らなければ、恐らく全く理解できない。
さらに「シヴィル・ウォー」の直後ということもあり、トニーやキャプテン・アメリカについて知らなければ、ちょっとついていけない。
しかし、その一方で特に知らなくてもついて行けるほど、この映画は自律性がある。
単体としても十分面白い出来になっている。
どっちつかずではなく、一粒で二度おいしいというような、そういう両立なのだ。
ピーターがどんな境遇なのか、ほとんど説明されない。
親友のネッドにクモに噛まれたと話したり、自作ビデオにキャプテン・アメリカの盾を奪ったと語ったり、授業中に糸の開発を行ったり、そういう描写によって「なるほど今こういう状況なのか」と理解をすすめる程度だ。
だから、これまでのスパイディをある程度しらなければ、ちょっとついていけいない。
でも、これまでの5作のスパイダーマンを観ていれば、なんとなく彼の特徴や状況はつかめてしまう。
なぜこんなに不親切な映画なのか。
だって、スパイダーマンは他のどのヒーローよりも国民的に人気のあるキャラクターだから。
このバランスが非常に良い。
ソーやキャップのような丁寧な描き方はもはや蛇足なのだ。
めまぐるしく語る彼の様子の中に、彼の状況やキャラクター性は十分伝わるようにできている。
だから、自律しているようで私たちがよく知っているあのスパイディもである、という連続性、親しみももっている。
しかし、一連の作品を観ていると、さらに楽しめる。
ああ、このスーツはトニーが開発したものだからこれほど性能が良いのかとか、「シヴィル・ウォー」で追放された(詳しく知らないんだけど)キャップがことごとくヴィデオに登場して哀愁の笑いを誘ってくるとか、にやりとできる。
そして、何よりトニーとのやりとりだ。
父親を亡くしたピーターと、同じく父親の影の中で生きて来たトニーが親子のように振る舞っている。
トニーは時に冷たく見えるが、彼への愛が溢れている。
彼のためにスーツを作り、彼のために補助輪モードを用意して、会見まで準備させている。
裏切られても全く気にしない。
だってピーターは自分の息子と同じくらい、大切にしたい存在だから。
そして、それが「エンドゲーム」まで続いていくことを考えるとむしろ涙さえ出てくる(いや、出てこないけど)。
そういう連続性が、この映画をさらに魅力的にしてくれる。
けれども、それは前後を観なくても分かるように、きちんとこの映画の中で描かれるのだ。
それが最高傑作の所以だ。
もう一つ指摘したいのは、ヴィラン(敵)の設定が見事だということだ。
「ウルトロン」では何が何だかよくわからない敵が設定されたのに対して、この「ホームカミング」では明確な敵が設定されている。
それがみごとにトニー・ピーターとの対比になっている。
トニーとピーターは実際の親子ではないが、親子のようなつよいつながりがある(桎梏を意味する「絆」では決してない)。
エイドリアン・トゥームスとその娘リズは、血のつながった親子であり、父親は娘を養うために武器を売る。
この武器は、トニーが人々を巻き込んだ宇宙人による攻撃の後、残った残骸を再構築したものだ。
いわば、トニーが蔑ろにしてきた一般庶民達の象徴が、エイドリアン(ヴィラン名はバルチャー)なのだ。
そして劇中でも言われるように、トニーも武器を売り巨万の富を築き、エイドリアンもまた武器によって利を得ている。
身から出たサビ、その後始末を、大きな宇宙規模の闘いではなく、小さなニューヨークを舞台に行われる。
娘と「息子」、その闘いと交感でもある。
卒業パーティーに迎えにいったとき、エイドリアンが登場してきて私は鳥肌が立った。
うますぎる展開だ。
忘れようとしていた、スパイディの血が嫌でも騒いでしまう。
それは、トニーに認められようとしているからではない、もはやピーターは人々を守るために立ち上がるべきだと突きつけられるのだ。
ピーターの内面をよく表している、初めての尋問のシークエンスがある。
尋問しようとして逆に言いくるめられてしまうが、尋問しようとしていた相手もまた、「街が危険にさらされるのはいやだ」という至極市民的な発想で協力してくれる。
共に家族のため、目の前にいる人のために生きてきた二人が、対立してしまう。
もはやそこには宇宙レベルの戦争ではない、日常に根ざした、まさにニューヨークのヒーローであるスパイディというキャラクターが立ち上がってくる。
だからアベンジャーズの一員になる必要はない。
誰かの歓心を買うために振る舞う必要もない。
彼は、アイデンティティとして、街を守ることを決意する。
驚くべきことは、この映画の配給が、ディズニーではなくソニーピクチャーエンターテイメントという、別会社であるということだ。
同じコンセプトで、同じ世界観を、全く違う(というかむしろライバルの)配給会社が描く。
日本では考えられないコラボレーションだろう。
それにしても、MCU(マーヴェル・シネマティック・ユニヴァーシティ)は、どこから物語の連続性を意識して企画されていたのだろうか。
少なくとも「シヴィル」から「エンドゲーム」までの流れは、悪い夢を見ているかのような素晴らしい連続性だ。
その中でも、単独で映画として成立させている本作は、本当にすばらしい。
(まあ、「シヴィル・ウォー」はまだ観ていないけど。何度も言うけど。)
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