評価点:65点/2019年/フランス・ベルギー/105分
監督:レジス・ロワンサル
事件を貫く世界観が好き。
世界的ベストセラーの「デダリュス」の完結編が完成した。
これまで独占出版権を獲得してきたアングストローム(ランベール・ウィルソン)は、この新作を世界同時に出版するために、3ヶ月で上梓すると記者会見した。
9人の翻訳家たちに閉鎖的空間の中で一気に翻訳させて、出版することで、漏洩を防止しようと考えたのだ。
選ばれた、英語、ロシア語、スペイン語、中国語、デンマーク語、ギリシャ語、イタリア語、ドイツ語、ポルトガル語の翻訳家たちは、その徹底した情報管理に辟易しつつも、従うことにする。
外部との接触禁止、本文は20ページずつしか公開しない、時間通りに起床し就寝する、480ページを一月で翻訳し、残りで推敲する、というものだった。
だが、一月たったエリックの元に冒頭10ページをネットに公開する、身代金を払え、というメールが届く。
9人の中に犯人がいると踏んだエリックは、執拗に彼らを調べていくが……。
アマゾンプライムにて鑑賞。
やはり、まったく予備知識無しに再生した。
いわゆる密室劇だが、実際にダン・ブラウンの作品を訳すときに同じような手法をとられていたとのことだ。
その話を聞いた人が、着想を得てこのミステリーを書き上げたとのことだ。
ストーリーからもミステリーを題材にした、ミステリーであり、メタフィクションである。
こういう作品は、当然ミステリー好きが見たがる。
そういう人にも理解される、楽しまれる作品を作るのはとても難しい。
常に観客は「だまされないぞ」「見抜いてやるぞ」と身構えているからだ。
だが、そういう【縛り】をあえてかけながら、それでも楽しませる気概があるからこそ、こういう作品が出来上がる。
ある意味では観客と制作者のだまし合い、知恵比べだ。
ある程度楽しめるようにつくってあるのは、ある種のしかけがあるからだ。
ま、完成度としてはそれなりだ。
過剰な期待をせずに、気軽に楽しむべきだろう。
▼以下はネタバレあり▼
メタフィクションとは、フィクションを作ることを描いた作品という意味だ。
ミステリー小説を翻訳する姿を映画にする、という二重のフィクションが入れ小型になっている。
その意味で、王道的なメタフィクションの作品である。
題材は文学(ミステリー小説)だが、映像的なトリックも随所にちりばめられている。
だから、映画好きな人、小説が好きな人に味わってもらいたい、という制作者の意図もうかがえる。
トレーラーを詳しく見たわけではないが、恐らくプロモーションもその流れでされていたことだろう。
さあ、ミステリー好きのみなさん、私と知恵比べをしよう、といったところか。
さて、正直ミステリーとしてはちょっと拙い部分もある。
評価としてはそれほど高くできない点が見受けられる。
それでもこの映画を酷評する気にならないのは、そうした挑戦的な題材であるにも関わらず、そこに小説好きが好きそうな倫理観が反映されているからだろう。
まずはその点から指摘しよう。
アングストローム社は、恩師である本屋の店主ジョルジュ・フォンテーヌからおもしろい小説を紹介される。
作品の素晴らしさに築いた代表のエリックは、独占出版権を買い取りベストセラーとなる。
だが、その手法は商業主義的であり、著者のオスカル・ブラックとして許せないと、両者は決別する。
オスカル・ブラックの正体をエリック以外知らなかったため、ジョルジュを殺したエリックは、独占出版すると記者会見してしまう。
しかし、本当の著者はジョルジュではなく、イギリス人のアレックスだった。
アレックスは、独占翻訳権を得たというエリックに復讐するために、エリックに近づき翻訳家として参加する。
そこで、エリックにジョルジュの殺人を告白させるために、彼を罠にはめていく。
それが大まかな真相だった。
その微妙な点はあとに回すとして、この物語にあるのは強い倫理観だ。
要するに、商業主義に陥った文学(私は文学と訳すことにも多少なりとも違和感があるが)を救うべきだという倫理観だ。
だから、すべては文章作品に対するリスペクトとその力に対して重視しようという【ルール】がある。
例えば、小説家を目指していた主婦の翻訳家は、自分が作家にはなれないことに絶望する。
そして最初の【被害者】として、死を選ぶのだ。
ここには、小説家というものが、作品を書き上げることに対する強い矜持と尊厳をもって取り組んでいるということが示唆されている。
もちろん、彼女に対して「才能がない」と言い放ち、原稿を火にくべるエリックに対する憎悪が、観客に芽生えるように仕組まれているのもそのためだ。
登場人物に同化してしまうカテリーナ(ロシア語翻訳者)の心情を丁寧に描いたことも、小説の可能性を示すものだ。
そもそも、アレックスがエリックに復讐しようとしたのは、本に溢れるあの場所を奪った事に対するものだった。
アレックスにとって本を読むこと、本に囲まれて生活することは、何よりも尊いことだった。
それを奪われたことに対する強い憤りが犯行の動機だ。
そしてアレックスに協賛する人々も、結局「書き手としての使命」に駆られてのことだった。
この作品には、トリック以上に貫く倫理観がある。
だからこそ、トリックがちょっと期待外れでも、「まあ許せるな」と思うのだ。
ミステリーや小説に対する熱量が、最大のトリックと言ってもいい。
見て損した、という気分にさせないのは、うまいと思う。
とはいえ、ちょっとアレックスのやり方はまどろっこしすぎた。
彼がエリックの犯行にどこまで気づいてたのかわからないけれども、もっとまともな復讐方法は他にいくらでもあったのではないか。
特に究極的に追い込まれた9人の翻訳家の中に、あれだけ協力者がいると、どれだけ他の協力者が同じように緘黙してくれるかどうかリスキーだ。
一人でも、「あ、こいつが犯人です!」といってしまうとそれだけで終わってしまうのだ。
(コピーを取る必要がなければ、別に仲間に引き込まなくても大丈夫だったのでは?)
また、取調室でのやりとりもかなり不自然だ。
取調室なのに、カメラを被疑者にしか付けていないし、マイクを隠されると声も拾えない。
どういう扱いの面会なのかはわからないが、被疑者に会いに来る者が協力者かもしれず、ちょっと成り立たない。
捕まっているのがエリックなのか、面会人なのかわからないという演出も、まったく無駄だ。
ただいたずらに話を混乱させただけで、特に意味はない。
(ま、それを引っぱりすぎずにすぐに明かしたのでそれほどのストレスにはならなかったが)
自死した翻訳家がいつまでもつるされているのも変だし、エリックとカテリーナが地上でやりとりしていたシークエンスもちょっと目的がわからない。
映画としての観客の目くらましにすぎず、物語世界の必然性が感じられない。
このように、話の本質を描くべきところで過剰な演出になっているところがあり、それが無駄に観客をミスリードしてしまい、オチへのカタルシスが減退することになった。
冒頭、火事に包まれる書店の演出は好きだったのだが、もったいない限りだ。
う~ん、惜しい!といったところか。
監督:レジス・ロワンサル
事件を貫く世界観が好き。
世界的ベストセラーの「デダリュス」の完結編が完成した。
これまで独占出版権を獲得してきたアングストローム(ランベール・ウィルソン)は、この新作を世界同時に出版するために、3ヶ月で上梓すると記者会見した。
9人の翻訳家たちに閉鎖的空間の中で一気に翻訳させて、出版することで、漏洩を防止しようと考えたのだ。
選ばれた、英語、ロシア語、スペイン語、中国語、デンマーク語、ギリシャ語、イタリア語、ドイツ語、ポルトガル語の翻訳家たちは、その徹底した情報管理に辟易しつつも、従うことにする。
外部との接触禁止、本文は20ページずつしか公開しない、時間通りに起床し就寝する、480ページを一月で翻訳し、残りで推敲する、というものだった。
だが、一月たったエリックの元に冒頭10ページをネットに公開する、身代金を払え、というメールが届く。
9人の中に犯人がいると踏んだエリックは、執拗に彼らを調べていくが……。
アマゾンプライムにて鑑賞。
やはり、まったく予備知識無しに再生した。
いわゆる密室劇だが、実際にダン・ブラウンの作品を訳すときに同じような手法をとられていたとのことだ。
その話を聞いた人が、着想を得てこのミステリーを書き上げたとのことだ。
ストーリーからもミステリーを題材にした、ミステリーであり、メタフィクションである。
こういう作品は、当然ミステリー好きが見たがる。
そういう人にも理解される、楽しまれる作品を作るのはとても難しい。
常に観客は「だまされないぞ」「見抜いてやるぞ」と身構えているからだ。
だが、そういう【縛り】をあえてかけながら、それでも楽しませる気概があるからこそ、こういう作品が出来上がる。
ある意味では観客と制作者のだまし合い、知恵比べだ。
ある程度楽しめるようにつくってあるのは、ある種のしかけがあるからだ。
ま、完成度としてはそれなりだ。
過剰な期待をせずに、気軽に楽しむべきだろう。
▼以下はネタバレあり▼
メタフィクションとは、フィクションを作ることを描いた作品という意味だ。
ミステリー小説を翻訳する姿を映画にする、という二重のフィクションが入れ小型になっている。
その意味で、王道的なメタフィクションの作品である。
題材は文学(ミステリー小説)だが、映像的なトリックも随所にちりばめられている。
だから、映画好きな人、小説が好きな人に味わってもらいたい、という制作者の意図もうかがえる。
トレーラーを詳しく見たわけではないが、恐らくプロモーションもその流れでされていたことだろう。
さあ、ミステリー好きのみなさん、私と知恵比べをしよう、といったところか。
さて、正直ミステリーとしてはちょっと拙い部分もある。
評価としてはそれほど高くできない点が見受けられる。
それでもこの映画を酷評する気にならないのは、そうした挑戦的な題材であるにも関わらず、そこに小説好きが好きそうな倫理観が反映されているからだろう。
まずはその点から指摘しよう。
アングストローム社は、恩師である本屋の店主ジョルジュ・フォンテーヌからおもしろい小説を紹介される。
作品の素晴らしさに築いた代表のエリックは、独占出版権を買い取りベストセラーとなる。
だが、その手法は商業主義的であり、著者のオスカル・ブラックとして許せないと、両者は決別する。
オスカル・ブラックの正体をエリック以外知らなかったため、ジョルジュを殺したエリックは、独占出版すると記者会見してしまう。
しかし、本当の著者はジョルジュではなく、イギリス人のアレックスだった。
アレックスは、独占翻訳権を得たというエリックに復讐するために、エリックに近づき翻訳家として参加する。
そこで、エリックにジョルジュの殺人を告白させるために、彼を罠にはめていく。
それが大まかな真相だった。
その微妙な点はあとに回すとして、この物語にあるのは強い倫理観だ。
要するに、商業主義に陥った文学(私は文学と訳すことにも多少なりとも違和感があるが)を救うべきだという倫理観だ。
だから、すべては文章作品に対するリスペクトとその力に対して重視しようという【ルール】がある。
例えば、小説家を目指していた主婦の翻訳家は、自分が作家にはなれないことに絶望する。
そして最初の【被害者】として、死を選ぶのだ。
ここには、小説家というものが、作品を書き上げることに対する強い矜持と尊厳をもって取り組んでいるということが示唆されている。
もちろん、彼女に対して「才能がない」と言い放ち、原稿を火にくべるエリックに対する憎悪が、観客に芽生えるように仕組まれているのもそのためだ。
登場人物に同化してしまうカテリーナ(ロシア語翻訳者)の心情を丁寧に描いたことも、小説の可能性を示すものだ。
そもそも、アレックスがエリックに復讐しようとしたのは、本に溢れるあの場所を奪った事に対するものだった。
アレックスにとって本を読むこと、本に囲まれて生活することは、何よりも尊いことだった。
それを奪われたことに対する強い憤りが犯行の動機だ。
そしてアレックスに協賛する人々も、結局「書き手としての使命」に駆られてのことだった。
この作品には、トリック以上に貫く倫理観がある。
だからこそ、トリックがちょっと期待外れでも、「まあ許せるな」と思うのだ。
ミステリーや小説に対する熱量が、最大のトリックと言ってもいい。
見て損した、という気分にさせないのは、うまいと思う。
とはいえ、ちょっとアレックスのやり方はまどろっこしすぎた。
彼がエリックの犯行にどこまで気づいてたのかわからないけれども、もっとまともな復讐方法は他にいくらでもあったのではないか。
特に究極的に追い込まれた9人の翻訳家の中に、あれだけ協力者がいると、どれだけ他の協力者が同じように緘黙してくれるかどうかリスキーだ。
一人でも、「あ、こいつが犯人です!」といってしまうとそれだけで終わってしまうのだ。
(コピーを取る必要がなければ、別に仲間に引き込まなくても大丈夫だったのでは?)
また、取調室でのやりとりもかなり不自然だ。
取調室なのに、カメラを被疑者にしか付けていないし、マイクを隠されると声も拾えない。
どういう扱いの面会なのかはわからないが、被疑者に会いに来る者が協力者かもしれず、ちょっと成り立たない。
捕まっているのがエリックなのか、面会人なのかわからないという演出も、まったく無駄だ。
ただいたずらに話を混乱させただけで、特に意味はない。
(ま、それを引っぱりすぎずにすぐに明かしたのでそれほどのストレスにはならなかったが)
自死した翻訳家がいつまでもつるされているのも変だし、エリックとカテリーナが地上でやりとりしていたシークエンスもちょっと目的がわからない。
映画としての観客の目くらましにすぎず、物語世界の必然性が感じられない。
このように、話の本質を描くべきところで過剰な演出になっているところがあり、それが無駄に観客をミスリードしてしまい、オチへのカタルシスが減退することになった。
冒頭、火事に包まれる書店の演出は好きだったのだが、もったいない限りだ。
う~ん、惜しい!といったところか。
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