(← その5からの続き)
【第6話 旅の終わりに――そして時は動き出す】
さて、ザ・ワールド(クリッシー)を倒すことはできなかったが、今回のプロジェクトで再び大きな体験ができたように思う。
日程も、ほとんど何も知らない場所だったが、しおりをつくったことによって、ほぼ迷うことなく行動に移すことができた。
うだうだしていた時間はなくはなかったにしても、これは僕のしおり作りが一役買ってくれたのは間違いないだろう。
あまりにタイトな組み方をしたので、おおざっぱにしか実現しなかったのは残念ではあるが。
今回は、天候に恵まれたのが一番うれしかった。
行く前までは台風が接近しているという情報もあり、また、ガイドブックには雨が多い、と書かれてもいた。
だが、一番雨が降ってほしくない時、ピークでの夜景鑑賞、マカオタワーのジャンプ、オープントップバスの夜景など、傘を差す必要がなかったのは本当に幸運だったとしか言いようがない。
テレビでは台湾の洪水被害を伝えていたが、行き先の候補に台湾もあったので、その辺りも運が良かった。
台湾の方々には申し訳ないが。
ジョセフはもっとモンコックあたりを回りたかったとも言っていたし、僕はもっと男人街をゆっくり冒険したかった。
クリッシーにも会えず終いで、アヴドゥルは軽く体調不良に見舞われていた。
欲を出せばキリはないが、成功したということは確かなようだ。
それは僕の撮った写真の枚数が550枚に達していたことからもわかる。
(いや~少ないね。もっと撮ると思っていたのに。結局プリントしたのは250枚。痛い出費だ)
今回の旅行で一番印象的だったのは、日本人はやはり井の中の蛙だということだ。
街並みの異様さに目を奪われながらも、僕が感心したのは香港人の英語力の高さだ。
どこに行ってもほぼ英語が通じるというのは、イギリス領土だったからだけではないはずだ。
日本の東京でも、おそらくそこまでは通じないだろう。
まだまだ国際化、観光文化は実現していない。
皮肉なことだが、そうした向こうでの日本人の視野の狭さよりも、日本に帰ってきたときに感じたそれのほうが印象的だった。
こんなことがあった。
日本に着陸する前後で、機内で赤ん坊が泣いていた。
といっても、僕に言わせればおとなしいほうだとは思うのだが、とにかく泣いていた。
母親はあやしていたようだが、着陸後も泣き止まなかった。
僕は特に気にしなかったが、後ろにいた男性客が、小声でつぶやいた。
「うるさいなぁ。ここは日本やぞ。」
「言うたろか。俺は言うときは言うで」
相手には聞こえない程度で、横にいた連れに訴えていたようだ。
僕らはその真前にいたので聞こえたわけだ。
ジョセフは「泣くのが仕事やから」と僕の耳元でささやいた。
彼も同じ事を思っていたようだ。
最初はその男性客が何についてぶつぶつ言っているのか、わからなかった。
だが、「うるさい」という単語で、赤ん坊のことを言っているのだと察したわけだ。
僕はその瞬間に興がそがれてしまった。
日本に帰ってきた安心感、着陸に成功した安堵感、旅行の充実感、そういった気分に酔いしれる時間帯だったはずなのに、すごく悲しくなった。
日本だからここでは赤ん坊を泣かせてはいけない、というその男の理論が全く理解できなかった。
海外でいらいらしていたのだろう。
日本に帰ってきて気が大きくなったのかも知れない。
けれど、赤ん坊が泣いている事に対して、そして、その周りには他の観光客(中年女性)があやしているのにもかかわらず、そういった悪態がすぐに出ることが、信じられないし、悲しかった。
島国根性、と日本の精神性を揶揄した言葉があるけれど、まさにそれだと思えた。
彼は海外で何を観、何を体験してきたのだろうか。
仕事かもしれない、観光かも知れない。
けれど、海外という日本から離れて体験する出来事にどんな光景を焼き付けてきたのだろう。
少しの優しさも思いやりも持てない彼は、本当に情けない。
日本はまだまだ国際化なんてほど遠い、と思ったのはそのためだ。
日本の英語教育が国際化を妨げている?
そんなのは些細なことで、日本人が本当に世界を相手にビジネスをするためには、コミュニケーションとはなんたるかを真剣に考えていかないと、成金の金持ちに成り下がってしまう。
マナーだとかモラルの低下だとか、そんなことは全くなかった世界で生きてきた多くの国々は、それでも何とか肌をすりあわせ、知恵を絞りながら、時にはけんかもしながらやってきたのだ。
日本人の、他人への配慮なんて、実はすっごくちっぽけで、国際交流にはてんで役に立たないものなのかもしれない。
さて、居残りで仕事をしていた同僚たちに、少しばかりお土産を買って帰った。
アワビのカップ麺は、味が薄く、アワビを最後まで見つけることはできなかった。
お菓子のほうは、全く日本と変わらない。
驚きもなく、おいしく食べられた。
ネクタイを着けて仕事に出かけたが、衝撃の薄さ。
シルク100%は嘘だろうと踏んでいたが、それにしてもぺらぺら。
さすが20香港ドル。
あとの2本はだれかにやるか。
白ワインはまだ飲んでいない…。
だが、本当のお土産は、僕が楽しそうに語る迷惑な土産話であることは言うまでもない。
もっとおもしろい訳のわからないものを買って帰りたかったが、思い出があるのは僕たちで、それを押しつけられる相手はかわいそうだと思って自重した。
さすがに、男人街にあったアダ○トグッズを物色していた欧米人カップルに混じる気にはなれなかったが。
さて、そろそろこの一連の記事も終わりが近づいてきた。
長々と思い出ばかり書き連ねてきたが、この辺りで閉じようと思う。
最後に、もう少しだけ書いておきたいことがある。
僕はこの旅行の中で、〈死〉を意識する体験をした。
それはマカオタワーの61階で飛ぶ準備をしていた時だ。
〈死〉と呼ぶにはあまりにも「セーフティ」な〈死〉ではあった。
ちょうど64年前に日本人が体験した戦争などとは比べものにならない〈死〉だ。
だが、僕はあのタワーの展望台で、本当に死ぬのだと意識した。
〈死〉という日頃意識しない抽象的な固まりを、僕は肌で具体的に感じていた。
飛び降りても死なないというのは、頭からの知識による情報で、五感から知覚する肉体が感じている本能的な予感は明確に〈死〉だった。
この距離で落ちて死なないはずはない、と肉体は告げていた。
僕は告白しよう。
今ではもう笑い話かも知れないが、僕はいろいろなことを思い浮かべていた。
権利放棄同意書にサインしたことを後悔しながら、今から中止にするという選択肢を思い浮かべながら、
「これを飛べば何かが変わるかも知れない。
今まで俺は何かから逃げていた。
それが変わるかも知れない。
物語のように、〈落ちる〉ことで生まれ変わるかも知れない。」
「いや、乗り越えるために、立ち向かう(スタンド)ためにここは飛ぶのだ」
そうでもしないと飛べなかった、という僕がそこにはいた。
気絶するかも知れない。
お漏らしするかもしれない。
心臓発作で本当に遺体で帰るかも知れない。
それくらい、僕の本能は「飛ぶな」と全身に信号を送っていた。
だが、飛んだ。
厳密に言えば墜ちたのだが。
その後のエキサイティングな感動は、すでに記したとおりだ。
じゃあ、その後、僕は何かわかったのだろうか。
恐怖や怠惰、憤怒、憂愁、悲哀などに打ち克つことができるようになったのか。
もちろん、答えはNOだ。
何の変化もありはしない。
また同じような日常が繰り広げられているところだ。
僕が、あのタワーで変わったことがあるとすれば、それはすべては日常にしかないということだ。
僕は何かのきっかけを欲していたのかも知れない。
タワーから飛び降りたのは、自分を変えるためだとかそういった狙いはほとんどなかった。
飛んだら英雄になれるとか、そんな大それた事を考えたわけでもなかった。
せっかくここまで来たのだから、飛んでおいてもいいだろう、という程度の考えしかなかった。
いや、それはごく普通の考えだろう。
だが、僕は飛ぶ直前、自分の〈物語〉を意識していた。
タワーから飛び降りる前の自分と後の自分。
そこに何らかの〈物語〉を意識していた自分と出会った。
それは不思議な体験で、あるいは無意識で描いていたものが現れたということなのかもしれない。
問題にしたいのは、あの極限状態の中、僕はあらゆる出来事をきっかけにして結びつけてしまおうとする自分がいたというその感覚だ。
この本を買って読めば、自分を成長させるかも知れない。
このパソコン機器を買えば、仕事ができるようになるかもしれない。
この家具を買えば、物が整理できる自分になるかもしれない。
それは広告産業の巧みな罠である一方で、平坦に見える日常への軽視に他ならない。
健康器具を買ったからといって、やせるわけではない。
車を買ったからといって、行動的な自分に変わるわけではない。
もちろん、黒人大統領になったからといって、国が劇的に好転するわけではない。
男人街では、偽物のブランド品が所狭しとならんでいた。
精巧に作られた商品の数々は、僕に物の価値じたいの無意味さを問いかけているようにさえ思える。
人が生きて、死んでいくのに、どれくらいの物が必要なのだろうか。
あるいは、その物やサービスはどれくらい人を変えるのだろうか。
それまで具体的な〈死〉を意識できかなった僕は、具体的な日常の〈生〉もまた見えなくなっていたのかもしれない。
こんな事を書いていても、日常は回り続ける。
仕事を先送りにする癖は未だに直らない。
〈死〉さえ意識したきっかけでさえ、日常の中埋もれていく。
もちろん、この文章は過去の回想という形でしか残せない。
また、この「発見」は、そのとき、その場で感じたものであるとともに、その解釈は書いている〈今〉からの「後付け」であることは間違いない。
だが、それでも、日常にしか自分の戦う場はなく、便利なきっかけなど何処にもないことには変わりはないのである。
(終わり)
【第6話 旅の終わりに――そして時は動き出す】
さて、ザ・ワールド(クリッシー)を倒すことはできなかったが、今回のプロジェクトで再び大きな体験ができたように思う。
日程も、ほとんど何も知らない場所だったが、しおりをつくったことによって、ほぼ迷うことなく行動に移すことができた。
うだうだしていた時間はなくはなかったにしても、これは僕のしおり作りが一役買ってくれたのは間違いないだろう。
あまりにタイトな組み方をしたので、おおざっぱにしか実現しなかったのは残念ではあるが。
今回は、天候に恵まれたのが一番うれしかった。
行く前までは台風が接近しているという情報もあり、また、ガイドブックには雨が多い、と書かれてもいた。
だが、一番雨が降ってほしくない時、ピークでの夜景鑑賞、マカオタワーのジャンプ、オープントップバスの夜景など、傘を差す必要がなかったのは本当に幸運だったとしか言いようがない。
テレビでは台湾の洪水被害を伝えていたが、行き先の候補に台湾もあったので、その辺りも運が良かった。
台湾の方々には申し訳ないが。
ジョセフはもっとモンコックあたりを回りたかったとも言っていたし、僕はもっと男人街をゆっくり冒険したかった。
クリッシーにも会えず終いで、アヴドゥルは軽く体調不良に見舞われていた。
欲を出せばキリはないが、成功したということは確かなようだ。
それは僕の撮った写真の枚数が550枚に達していたことからもわかる。
(いや~少ないね。もっと撮ると思っていたのに。結局プリントしたのは250枚。痛い出費だ)
今回の旅行で一番印象的だったのは、日本人はやはり井の中の蛙だということだ。
街並みの異様さに目を奪われながらも、僕が感心したのは香港人の英語力の高さだ。
どこに行ってもほぼ英語が通じるというのは、イギリス領土だったからだけではないはずだ。
日本の東京でも、おそらくそこまでは通じないだろう。
まだまだ国際化、観光文化は実現していない。
皮肉なことだが、そうした向こうでの日本人の視野の狭さよりも、日本に帰ってきたときに感じたそれのほうが印象的だった。
こんなことがあった。
日本に着陸する前後で、機内で赤ん坊が泣いていた。
といっても、僕に言わせればおとなしいほうだとは思うのだが、とにかく泣いていた。
母親はあやしていたようだが、着陸後も泣き止まなかった。
僕は特に気にしなかったが、後ろにいた男性客が、小声でつぶやいた。
「うるさいなぁ。ここは日本やぞ。」
「言うたろか。俺は言うときは言うで」
相手には聞こえない程度で、横にいた連れに訴えていたようだ。
僕らはその真前にいたので聞こえたわけだ。
ジョセフは「泣くのが仕事やから」と僕の耳元でささやいた。
彼も同じ事を思っていたようだ。
最初はその男性客が何についてぶつぶつ言っているのか、わからなかった。
だが、「うるさい」という単語で、赤ん坊のことを言っているのだと察したわけだ。
僕はその瞬間に興がそがれてしまった。
日本に帰ってきた安心感、着陸に成功した安堵感、旅行の充実感、そういった気分に酔いしれる時間帯だったはずなのに、すごく悲しくなった。
日本だからここでは赤ん坊を泣かせてはいけない、というその男の理論が全く理解できなかった。
海外でいらいらしていたのだろう。
日本に帰ってきて気が大きくなったのかも知れない。
けれど、赤ん坊が泣いている事に対して、そして、その周りには他の観光客(中年女性)があやしているのにもかかわらず、そういった悪態がすぐに出ることが、信じられないし、悲しかった。
島国根性、と日本の精神性を揶揄した言葉があるけれど、まさにそれだと思えた。
彼は海外で何を観、何を体験してきたのだろうか。
仕事かもしれない、観光かも知れない。
けれど、海外という日本から離れて体験する出来事にどんな光景を焼き付けてきたのだろう。
少しの優しさも思いやりも持てない彼は、本当に情けない。
日本はまだまだ国際化なんてほど遠い、と思ったのはそのためだ。
日本の英語教育が国際化を妨げている?
そんなのは些細なことで、日本人が本当に世界を相手にビジネスをするためには、コミュニケーションとはなんたるかを真剣に考えていかないと、成金の金持ちに成り下がってしまう。
マナーだとかモラルの低下だとか、そんなことは全くなかった世界で生きてきた多くの国々は、それでも何とか肌をすりあわせ、知恵を絞りながら、時にはけんかもしながらやってきたのだ。
日本人の、他人への配慮なんて、実はすっごくちっぽけで、国際交流にはてんで役に立たないものなのかもしれない。
さて、居残りで仕事をしていた同僚たちに、少しばかりお土産を買って帰った。
アワビのカップ麺は、味が薄く、アワビを最後まで見つけることはできなかった。
お菓子のほうは、全く日本と変わらない。
驚きもなく、おいしく食べられた。
ネクタイを着けて仕事に出かけたが、衝撃の薄さ。
シルク100%は嘘だろうと踏んでいたが、それにしてもぺらぺら。
さすが20香港ドル。
あとの2本はだれかにやるか。
白ワインはまだ飲んでいない…。
だが、本当のお土産は、僕が楽しそうに語る迷惑な土産話であることは言うまでもない。
もっとおもしろい訳のわからないものを買って帰りたかったが、思い出があるのは僕たちで、それを押しつけられる相手はかわいそうだと思って自重した。
さすがに、男人街にあったアダ○トグッズを物色していた欧米人カップルに混じる気にはなれなかったが。
さて、そろそろこの一連の記事も終わりが近づいてきた。
長々と思い出ばかり書き連ねてきたが、この辺りで閉じようと思う。
最後に、もう少しだけ書いておきたいことがある。
僕はこの旅行の中で、〈死〉を意識する体験をした。
それはマカオタワーの61階で飛ぶ準備をしていた時だ。
〈死〉と呼ぶにはあまりにも「セーフティ」な〈死〉ではあった。
ちょうど64年前に日本人が体験した戦争などとは比べものにならない〈死〉だ。
だが、僕はあのタワーの展望台で、本当に死ぬのだと意識した。
〈死〉という日頃意識しない抽象的な固まりを、僕は肌で具体的に感じていた。
飛び降りても死なないというのは、頭からの知識による情報で、五感から知覚する肉体が感じている本能的な予感は明確に〈死〉だった。
この距離で落ちて死なないはずはない、と肉体は告げていた。
僕は告白しよう。
今ではもう笑い話かも知れないが、僕はいろいろなことを思い浮かべていた。
権利放棄同意書にサインしたことを後悔しながら、今から中止にするという選択肢を思い浮かべながら、
「これを飛べば何かが変わるかも知れない。
今まで俺は何かから逃げていた。
それが変わるかも知れない。
物語のように、〈落ちる〉ことで生まれ変わるかも知れない。」
「いや、乗り越えるために、立ち向かう(スタンド)ためにここは飛ぶのだ」
そうでもしないと飛べなかった、という僕がそこにはいた。
気絶するかも知れない。
お漏らしするかもしれない。
心臓発作で本当に遺体で帰るかも知れない。
それくらい、僕の本能は「飛ぶな」と全身に信号を送っていた。
だが、飛んだ。
厳密に言えば墜ちたのだが。
その後のエキサイティングな感動は、すでに記したとおりだ。
じゃあ、その後、僕は何かわかったのだろうか。
恐怖や怠惰、憤怒、憂愁、悲哀などに打ち克つことができるようになったのか。
もちろん、答えはNOだ。
何の変化もありはしない。
また同じような日常が繰り広げられているところだ。
僕が、あのタワーで変わったことがあるとすれば、それはすべては日常にしかないということだ。
僕は何かのきっかけを欲していたのかも知れない。
タワーから飛び降りたのは、自分を変えるためだとかそういった狙いはほとんどなかった。
飛んだら英雄になれるとか、そんな大それた事を考えたわけでもなかった。
せっかくここまで来たのだから、飛んでおいてもいいだろう、という程度の考えしかなかった。
いや、それはごく普通の考えだろう。
だが、僕は飛ぶ直前、自分の〈物語〉を意識していた。
タワーから飛び降りる前の自分と後の自分。
そこに何らかの〈物語〉を意識していた自分と出会った。
それは不思議な体験で、あるいは無意識で描いていたものが現れたということなのかもしれない。
問題にしたいのは、あの極限状態の中、僕はあらゆる出来事をきっかけにして結びつけてしまおうとする自分がいたというその感覚だ。
この本を買って読めば、自分を成長させるかも知れない。
このパソコン機器を買えば、仕事ができるようになるかもしれない。
この家具を買えば、物が整理できる自分になるかもしれない。
それは広告産業の巧みな罠である一方で、平坦に見える日常への軽視に他ならない。
健康器具を買ったからといって、やせるわけではない。
車を買ったからといって、行動的な自分に変わるわけではない。
もちろん、黒人大統領になったからといって、国が劇的に好転するわけではない。
男人街では、偽物のブランド品が所狭しとならんでいた。
精巧に作られた商品の数々は、僕に物の価値じたいの無意味さを問いかけているようにさえ思える。
人が生きて、死んでいくのに、どれくらいの物が必要なのだろうか。
あるいは、その物やサービスはどれくらい人を変えるのだろうか。
それまで具体的な〈死〉を意識できかなった僕は、具体的な日常の〈生〉もまた見えなくなっていたのかもしれない。
こんな事を書いていても、日常は回り続ける。
仕事を先送りにする癖は未だに直らない。
〈死〉さえ意識したきっかけでさえ、日常の中埋もれていく。
もちろん、この文章は過去の回想という形でしか残せない。
また、この「発見」は、そのとき、その場で感じたものであるとともに、その解釈は書いている〈今〉からの「後付け」であることは間違いない。
だが、それでも、日常にしか自分の戦う場はなく、便利なきっかけなど何処にもないことには変わりはないのである。
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