「人は不平等に置かれがちだからこそ、努力で補うものである」。
このように、私は考えています。
ただし、誤解をしてほしくはありません。
人間はもともと平等でないのだから、足りない分を努力でカバーしなければならないという意味ではありません。
私が思うのは、人間は等しく尊厳をもつのに、ともすればある人間を不平等な状況に置くのだから、多くの人々が努力して不平等をなくしていくべきであるということです。
人権と聞けば、多くの人びとは自分には関係ないと思います。
人権が脅かされる人は常に少数で、多くの人は当事者にならないからです。
だから、多数派をマジョリティ(多数派)、人権を侵害される当事者をマイノリティ(少数派)と呼ぶのでしょう。
つまり、冒頭の言葉はマイノリティが努力すると言っているのではないのです。
だから、多数派をマジョリティ(多数派)、人権を侵害される当事者をマイノリティ(少数派)と呼ぶのでしょう。
つまり、冒頭の言葉はマイノリティが努力すると言っているのではないのです。
努力するのはマジョリティの人たちです。
また、人権は、ともすれば、「私には関係ない」と「多数派」は感じますので、人権啓発はさほど簡単なことではありません。
しかし、一方、人権尊重でうったえているのは「希望」です。
また、人権は、ともすれば、「私には関係ない」と「多数派」は感じますので、人権啓発はさほど簡単なことではありません。
しかし、一方、人権尊重でうったえているのは「希望」です。
苦しむ人を一人でも減らそう、安心安全な社会をつくろうという呼びかけを、悪いことと考える人はおそらくいないでしょう。
そういう意味では、人権は多くの人びとから共感を得られやすいテーマでもあるのです。
さて、学校は、もともと社会の縮図です。
そういう意味では、人権は多くの人びとから共感を得られやすいテーマでもあるのです。
さて、学校は、もともと社会の縮図です。
社会で人権を大切にするとりくみは、「人権啓発」です。学校で人権を大切にすることを学ばせるのは「人権教育」です。
学校の場合、学力不振の子は、本人の努力が足りないからと、一般的には考えられがちです。
学校の場合、学力不振の子は、本人の努力が足りないからと、一般的には考えられがちです。
たしかに、本人がさぼっていて、学力不振になっている子もいるでしょう。
しかし、たとえば家庭が「貧困」で、ひとり親家庭の子はどうでしょうか。
母子家庭で、母親の収入が少なく、学習塾に通わせる経済的余裕がない。わが子の家庭学習を見てやる時間的余裕もない。その結果、「わからない」ことが多くなり、子どもは学習に向かわない。
その積み重ねで学力不振に陥っているならば、それは「貧困」という社会のしくみの問題が、子どもを不平等にしているのです。
だから、学校では人権教育を進めなければなりません。「多数派」は社会のしくみを変えていくことにかかわらなければなりません。
再度言います。
だから、学校では人権教育を進めなければなりません。「多数派」は社会のしくみを変えていくことにかかわらなければなりません。
再度言います。
「人は不平等に置かれがちだからこそ、多数派の人は人権尊重を実現しようと努力するのです」。