箕面三中もと校長から〜教育関係者のつぶやき〜

2015年度から2018年度に大阪府の箕面三中の校長を務めました。おもに学校教育と子育てに関する情報をのせています。

避難所になった中学校 阪神大震災から30年

2025年01月17日 09時52分00秒 | 教育・子育てあれこれ
 30年前の今日、1995年1月17日午前5時46分ごろ、阪神大震災が起きました。
 わたしは、そのときも大阪府北部に住んでいましたが、猛烈な揺れは今でもハッキリと覚えています。
 最初に下からドーンと突き上げがあり、そのあとはガタガタガタガタと激しい横揺れがきました。家が潰れると思いました。
 あれほど激しい揺れを体感したのは生まれて初めてあり、それ以下も今までにありません。
 そのあと出勤したのですが、道には落石というか大きな岩が落ちていました。信号は消えていました。
 そのあと、神戸方面がとんでもないことになっていることをテレビのニュースで知りました。
 今日は30年にちなみ、神戸市須磨区の神戸市立鷹取中学校の震災当時校長だった人から聞いた講演をお伝えします。少し長いですが、ご一読ください。

 私は大地震のとき、神戸市の鷹取中学校の校長だった。1995117日午前546分、神戸市で大地震が起きた。わずか20秒の揺れで、神戸の町がなくなり、人の生き方が変えられた。神戸市の学校の約65%は避難所になり、残り82校は倒壊して避難所にもならなかった。

 学校に駆けつけた私は市教委へ何度も電話をしようとした。①鷹取中学校が避難所になったこと②救済の窓口はどこか③指示系統を確認したい。しかし電話は通じなかった。そのため、すべて私が指揮をとることになった。

 鷹取中学校には統計上は2000人の避難者だったが、実際はいちばん多いときで4689名の避難者がいた。117日から831日まで避難所となった。その間、教師と生徒で避難所を運営した。開設当初は「先生、何をしたらいいんですか」などと聞く余裕などいっさいなかった。すべてがその場、その時期での判断だった。

 鷹取中学校は須磨区にあるが須磨区のいちばん東端であるので、避難者は長田区から来た人がほとんどだった。須磨区の住民のほとんどは西へ逃げたのでした。

 震災当日は午前730分、教師6名が学校に到着、4カ所の校門周辺に約300人の避難者が集まっていた。北門を開き、避難者を校内に誘導した。停電のためシャッターは開かず、2名の教師がこじ開け、けが人・老人を優先して校舎内に誘導した。学校の被災状況を確認後、校長室・事務室・職員室・保健室以外のすべての施設を提供した。

 水がなかった。中2のある男子生徒が突然倉庫を壊し始めた。受水槽を壊し、避難者に水を配ろうとしたのだった。これもシャッターをこじ開けた教職員の姿を見ていた生徒が生徒が自主的に水をくみ上げ、配ってくれたのだった。

 鷹取中学校の避難所は日本人をはじめ、ケミカルシューズの工場に勤務していたベトナム人130人、韓国朝鮮人300人、ペルー人、ギリシャ人からなる多民族の避難所でもあった。

 ある日、倒壊した家屋の中に生存している夫婦がいると聞きつけ、教職員で救助に向かった。老夫婦が鉄瓶に入った一杯の水を分け合って飲みながら生存していた。このような人たちを大切にしたい。被災した人たちに思いを寄せ、かかわりきる。これが避難者と学校の関係をよくして、学校再開につなげることができた。 

 社会福祉協議会から支援隊を出してくれる申し出があった。鷹取中学校は1週間以上いてくれることができる支援隊のみをコーディネートすることになった。そのとき私は物資の奪い合いで暴動が起きそうな気配を感じていた。そこで、今避難している人が将来、同窓会ができるような避難所にしようと提案した。(実際、避難所解消後も同窓会を毎年できた)

 次に避難所の中で外国人差別が見えてきた。「外国人を放り出せ」という発言や無視をするという言動があらわれてきた。差別いじめのない学校づくりを人権教育として進めてきたし、行政が人権啓発を進めてきた。しかし非常時になると差別があらわれる。関東大震災のときの朝鮮人虐殺を繰り返してはならない。N教師が敢然として差別に対抗した。「同じ地震である関東大震災のときに起こった朝鮮人虐殺。あなたたちはそれと同じことをしようとしているのですよ」と訴えた。その後、避難所が助け合う場になった。

  2のある男子生徒は、よく授業をサボり、学校を飛び出す子だった。子どもたちは班をつくり、水を担当する班、トイレを担当する班(縦割り)などに分かれた。彼は班長になっていた。物資を運んだりするとき、「がんばってください」と言う声かけをはじめた。やがて声かけが避難所に広がるようになった。

 赤ちゃんを抱いた母親は、元気な声をかけてもらって心が安らぎます。ある日、校長室におじいちゃんが子どもを連れてやってきた。「この子はわしの知らん子やねん。でもおじいちゃん寒ないか。背中さすろか」というてくれるんですわ。・・・・・

 子どもがみずから学習していった。生きていくためのかかわりを通して、差別が解消していった。一つのものを分けて食べる、一つのものをともにつくるという行動が差別をなくしていった。

 最初に日赤から500枚の毛布と500人前の食糧が届いた。しかし鷹取中学校の避難所は震災3日後には3000人を超えていた。その後、折り詰め弁当や缶詰も届いた。しかし一人1個もあたらない。弁当が届いたとはなかなか言えなかった。奪い合いが起こるかもしれない。

 子どもたちは弁当はすべて自分たちが受け取り、避難者に分けると言ってきた。その後弁当が届くと、1個の弁当を何人で分けるかを決め、「~人で分けてください」と1個ずつ弁当を手渡していった。

 1日に1回の食べ物。中1の女子生徒はおばあさんに「今日の弁当は3人で分けてください」といって渡そうとした。あばあさんは「お嬢ちゃん、わたしは昨日ももらっていない。一昨日ももらっていないんや」と言った。でもその生徒は泣きながら「今日の弁当は3人で分けないと足りなくなるのです。この人とこの人との3人で分けてください」と言って分けていた。

 子どもに「食べもんをとってこい!」とすごむ人もいた。しかし、子どもは泣きながらも弁当を渡さなかった。子どもたちは弁当を守り抜いたのだった。ある日、弁当が悪くなっているときがあった。私はすべて捨てるように指示をした。中学生はわかってくれたが、小学生が悲しそうな顔をした。そこである中学生の男子が怒り出した。「何か腐っているのか調べたんか」 と。調べてみるとスパゲッティだけが腐っていることがわかった。そこで、スパゲッティだけを捨てて、弁当をすべて配ることになった。その後、その男子生徒は、のちに隣保館の大鍋を借りてきた。そして炊き出しが始まった。

 このようにして、19日後には鷹取中学校の18クラスすべてが授業再開にこぎ着けることができた。すべての年齢の子が 、それぞれの思いで、自分のできることをやり、避難者にかかわっていった。子どもは等しく同じ力をもっているのだと実感した。

 生徒の安否を確認したかった。しかし避難者がいるので探しに行けなかった。その一方で、必死になって安否確認をしてくれていた3人の女性教師と女子生徒がいた。避難所をまわり、道を通る人に尋ねた。しかし最後まで4名だけはどうしてもわからなかった。民放に安否確認を流してほしいと頼むと、もう今は一般番組にかわっているので流せないという回答だった。私は怒鳴った。「人の命と番組とどっちが大事やねん!」。その後大阪のNHKが流してくれた。その結果二人が見つかった。

 授業を再開するためには教室が必要だった。教室には避難者が生活していた。企業で部屋を貸してくれるところがないかと交渉に行ったが、どこも貸してくれなかった。教頭先生と須磨の陸橋の上で座り込んで、がっかりしてため息をついていると、目の前に須磨の水族園が見えた。二人で顔をあわせ「行こか」といい行ってみた。「うちのレストランを使われたらどうですか」と言ってくれた。「黒板がないなあ。」とつぶやいていたら、次の日には黒板も用意してくれた。

 大震災はかけがえのない命を奪った。亡くなった命は6434人の命。そのうち児童生徒は179名である。毎年「1.17希望の灯り」のセレモニーのときには、6700本の竹筒に灯りをともし、霊をとむらう。灯りの下には「この灯りは奪われたすべての祈りと生き残った私たちの思いをつなぐ」と書かれている。

 あるときおじいさんに出会った。年老いたおじいさんは80歳ぐらい。おさなごを背に背負い「わしの孫や」と言ってくれる。しかし、その子はおじいさんの背中ですでに息絶えていた。もう一度、このおじいさんに会いたい。「あのとき十分なことができずに」と伝えたい。

 中2の子が瓦礫の下敷きになっていた。余震で残った建物がまた崩れ、瓦礫が高くなる。「待っとれよ」と言って学校に行き、みんなで瓦礫をのけはじめた。そのとき、避難者が「火が来るぞ」と言った。しばらくして火が広がり、その子は友人の前で、先生の前で亡くなっていった。

 女性の先生がこんなメモを見せてくれた。「とても悲しい。あんなに優しかった父が地震でこわい父にかわった」と書いてあった。住んでいる賃貸のマンションが崩れ落ち、働 いている町工場がなくなり、父はパニックになった。地震は人を変えた。

 子どもと教師が本当の思いでかかわった。また、午前546分といえば、ほとんどの家族が家に揃っている時間。父が血を流しながら家族を助けた。母が髪の毛を振り乱し、おじいちゃんおばあちゃんを助けた。子どもたちはそれを見て親を再発見した。命がけで家族を救い、地域の人が助けあって大震災を切り抜けた。絆が生まれた。

 ある母親の手記がある。「あの子は天使です」というもの。母一人、娘一人の家族が被

災した。瓦礫の下から5時間後に救出された。娘の足には重い柱が長い時間のったままだった。「もうあの子の足はあきらめよう。命が残ったのだから」と母はつぶやいた。娘は元気に手術室に入った。

 クラシュシンドロームだった。その後、ICUに入った娘は目を決して閉じようとしなかった。20日後、意識がなくなっていった。その後、いったん止まった心臓が動き出した。そして娘は両手を上げて、渾身の力をこめてつぶやいた。「母さん、生きてね」。そして息絶えた。

 学校を休みがちだったある2年生の女子生徒K子がいた。震災後、毎日ボランティアで学校に来るようになった。なぜ学校に来るようになったのか。自分の家が崩れ、自分が下敷きになったとき命をかけて家族を救おうとする両親を見たのです。このことを誰かに伝えたい。だから私は学校へ来てボランティアをするのです。こういった。

 その後、2年生の女子生徒は、ある体の衰弱したおばあちゃんに、手に入れたお弁当を毎日毎日運んだ。200日間、体の動かないおばあちゃんの世話をしつづけた。おばあちゃんはその後、亡くなった。亡くなった日、その女子生徒が校長先生のところへやってきた。 

「先生、おばあちゃんがきょう「ありがとう」と言って、私の手を握ってくれたんですよ。そしてその後おばあちゃんは亡くなったんです」 

「おばあちゃんは私に感動をくれた。私に勇気と希望をくれたんよ。」 

 また別の話もある。断水が3ヶ月続いていた。男子トイレの大便器は数が少ない。3日間ぐらいで流せない大便は山盛りになる。すると大人の男性はどこへ行くか。女子トイレで用を足そうとする。

 「ここは使わないでください」と女子生徒と女性教師が頼んだ。「何ゆうとんじゃ」と突き飛ばされた。ある日トイレの戸が蹴破られた。それを見た男子が怒って、盛り上がった大便を木片でとり、バケツに入れ地面に穴を掘って埋めた。そしてプールから水をくんできて、トイレを流した。その後は、手で便をとる子もあらわれた。

 それを見ていた避難者が立ち上がった。「なんで子どもがせなあかんねん。自分らがやったものは自分らがかたづけるんや」。その後、避難者の自治組織ができた。

 震災が学校を地域に開いてくれた。生徒は卒業しても多くが地域で暮らしていく。この避難所でいっしょに生きた人たちが、また地域で暮らしていく。

  K子の話をはじめとして、かかわった人と避難者の間に感動が生まれた。感動は生きる勇気と生きる力に発展していく。教師と子どもの間でいかにして感動を生み出していくか。これが子どもに生きる勇気と生きる力を与えていくものと、鷹取中学校の避難所が私に教えてくれた。

(講演は一部省略してのせています)


 

 


 

 



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