そもそも、マイノリティ(多数派=通常は差別されない)とマジョリティ(少数派=通常は差別されやすい)という分け方は、固定的なものではありません。
ある問題ではマジョリティに属する人でも、問題が変わればマイノリティになることもあるのです。
たとえば、障害者問題でなら、いわゆる「健常者」はマジョリティになりますが、集団の中に外国につながる人がいれば、在日外国人問題では、その人はマイノリティになります。
また、このような○○問題という人権課題に限らずとも、「○○県人は・・・」と県民性をひとくくりにしてテーマにすると、その県以外の人はマイノリティになります。
「大阪のおばちゃん」や「スマホ世代」などが固定的な見方や偏見をもって話される場合も同様です。
つまり、マイノリティに入らない人も、あるときには偏見や社会的バリアーにさらされ,マイノリティになることもあるのです。
この状況に納得すれば、人権の課題を「他人事(ひとごと)」でなく「自分事」として考えることができるようになるのでないかと思います。
警察の取り調べ室によく「ハーフミラー」が使われていますが、取調室からは部屋の向こうが見えませんが、部屋の向こうからはガラスのように取調室の中を見ることができます。
マイノリティとマジョリティの関係は、そのようなものです。マジョリティの側からはわからなくても、マイノリティの側になってはじめて、その不合理さや理不尽さに気づくことが多いのです。
だから、マイノリティが不合理や理不尽をなくしていくべきと声をあげると、無理解・無自覚なマジョリティは、バッシングしたりするのです。
わたしたちは、どんな問題にせよ、当事者の声を傾聴し、偏見や社会的なバリアーだ存在することに気づいていくことが課題であり、それは児童生徒が学ぶ人権教育においても課題になるのです。
以上がたんに他人事で終わらず、自分に問題を引きつけ、自分事としてとらえる人権学習のポイントになると思います。
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