教育雑誌に以下の記事がのっていました。
紹介します。
「背中を押す教師のひと言」
「背中を押す教師のひと言」
細谷レックスマーク賢治さんは、来日1年くらいで日本語が話せるようになりましたが、日本社会の常識とブラジル人の両親の常識の狭間でずっと苦しんできました。
賢治は小学生の日本人と仲良くなるにつれて、日本の常識に染まっていきました。日本の冗談をおもしろがり、Jポップを好きになり、日本のファッションに魅了されました。
だが、家に帰って親にそうしたことを話すと、きまっていやな顔をされました。
原因は親が日本にとけ込めていないことでした。彼らはブラジルの常識で生きているので、日本の冗談を聞いても「何がおもしろいのかわからない」と言うし、日本の歌が流れれば「消せ」と言いました。
賢治が日本に染まれば染まるほど、溝は大きくなっていきました。印象的なのは先輩・後輩の関係でした。
ある日、賢治が学校の先輩に敬語で話をしていたら、親が怪訝そうに言いました。
「おまえ、なんであんな日本人にペコぺコしているんだ。いったいなんのつもりなんだ?」
賢治は日本の慣習で先輩を敬っていました。だが、ブラジルには先輩・後輩の上下関係がないため、両親の目には息子が過剰なまでに他人にこびへつらっているように映ったのです。
賢治は当時をこう振り返ります。
「学校での常識と家での常識が違うっていうのは子どもにはきついんです。日本に寄れば親から文句を言われ、親に寄れば友だちから笑われます。何を基準にして生きていけばいいのかわかりませんでした。
僕は小学校高学年くらいから、そのギャップに苦しんで迷走しはじめました。両親のするハグやキスといった習慣を嫌ったり、家でわざと難しい日本語をしゃべってみたりした。
でも、小学校では僕はあくまでブラジル人として見なされ、からかわれることもある。自分がどっち側の人間なのかわからなくなりました」
そんな迷いのなかで、賢治はインターナショナルスクールへ通うことを選びました。外国人ばかりのなかで生きていったほうがいいのではないかと考えたのでした。
だが、そこでは別の壁にぶつかりました。ほとんどの外国人生徒が一流企業に勤めるエリートの子どもたちでした。賢治のような日系ブラジル人の出稼ぎ労働者は稀で、それが原因で嫌な思いをすることもありました。
日本の学校、ブラジル人家庭、インターナショナルスクール。いずれにも溶け込むことができず、高校1年から1年ほど不登校になりました。自分はこのままドロップアウトしていくのだろうと思いました。
幸運だったのは、高校2年の担任の先生が、賢治に歩み寄ってくれたことでした。その先生は言いました。
「きみの不安はわかる。僕が支えられるところは支えるから、信頼して学校に来てみないか。今を乗り越えれば、将来何だってできる。がんばっていこう」。
賢治は初めて自分を理解してくれる大人と出会ったことで心の支柱ができました。無理に何かに合わせるのではなく、揺らいでいる状態こそ自分のアイデンティティなのだと考えられるようになりました。
そして再びインターナショナルスクールに通いはじめ、高校卒業後はカナダに留学。そこで本格的に英語を学んで、ポルトガル語、日本語、英語を自在に操れるようになり、帰国してIT企業に就職しました。
〈月刊『教職研修』2021年4月号(教育開発研究所発行)の「ルポ 学校からこぼれ落ちた、外国人の子どもたち 第13回」(ノンフイクション作家 石井光太)より〉
このように、外国につながる子どものアイデンティティは、自分のルーツのある国と日本という国の間で、揺れ動き、悩みをかかえていることが多いのです。
このように、外国につながる子どものアイデンティティは、自分のルーツのある国と日本という国の間で、揺れ動き、悩みをかかえていることが多いのです。
教師が、どういうまなざしでその子たちを見ているかが問われるのです。教師の側から、その子たちに働きかけることが不可欠です。
とくに教職経験の少ない教師には、自分は多数派・マジョリティとしての特権を持っていることを自覚してほしい。
日本という「社会」が「外国人」をつくりだし、その子たちをどういう位置に置いているかを見つめてください。
学校で「みんなが」というとき、その中に少数派・マイノリティになる外国につながる子が含まれているかを考えてほしいのです。
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