私は、中学校の学級担任をしていて、生徒に言ったことを思い出すことがあります。
楽しかった、よい思い出の場合もありますが、「なぜ、あんな言い方をしたのだろう」と悔いる思い出もあります。
「〇〇高校を受けたい」と言った生徒に、教職経験の浅かったわたしが「ぜったいに無理」と言ったことは、後悔の極みです。
今思い出しても、その生徒に申し訳なく、恥ずかしく思います。
進路指導で、受験校の合格可能性が低くても、「ぜったいに」という言葉はありません。
きっと、私はその生徒を言葉で傷つけたことでしょう。
申し訳なかったと今思い出しては後悔しています。
多くの人は「傷つけられた」ことはしっかりと覚えていますが、「傷つけた」ことは無自覚な場合が多いものです。
私が「傷つけた」と覚えているぐらいなので、きっと相手は、たいそう深く傷ついたのだと思うのです。
中学校の問題行動では、暴力事件が近年大きく減少しています。したがって、今という時代では、直接的な暴力よりも言葉が最大の凶器になるという認識が必要です。
ある政治家が、数年前に支持政党がらみで「そんな人は排除します」と言いました。
この「排除」という言葉は強いインパクトを持つ言葉で、世間はそれまでその政治家を支持する論調が基調でしたが、その一言で急に風向きが変わってしまいました。
ちょっと言い過ぎだったという感は否めません。
私が各中学校を回って若い教員の授業を見ていると、生徒への言葉づかいで気になることがときどきあります。
生徒と教師は対等な人間関係で教育が成立するというのが私の持論ですが、教師は指導する側であり、生徒は指導される側であることから、生徒に対して「上から目線」で発言する教員がいます。
職員室を訪ねてくる生徒に、「〇〇先生はいますか? いないなら部室のカギを貸してもらえませんか?」と言ってきた生徒に「その前に何か言うことがあるやろ? お前は誰や?」という教師がときどきいます。
30年前なら、通用したかもしれません。しかし、今ではその言葉はダメです。
たしかに、生徒には「〇年〇組の〇〇です。部室のカギを貸してほしいのですが」と言うように習慣づける指導をしています。
しかし、そうならない場合もあるのです。「部室のカギはとってきて貸すけれど、〇年〇組の誰さんだったかな。名前も言ってね」と普通に言えばいいのです。
相手を傷つける言葉を使う人は、相手だけでなく、ほんとうは自分自身をも傷つけているのです。
テレビの番組で、ゲストがはっきりと自分の意見や考えを言っていますが、相手を傷つけるようなことはまず言いません。
また、バラエティ番組で芸人や俳優をからかうような発言をしますが、その場合も、言われた人をイヤな気分にさせるどころか、楽しくさせ、同時に周りも楽しくさせる難度の高いテクニックを使っています。
ところが、評論家という人がコメントをすると、素で自分の考えを言うものだから、まわりの人を傷つけるような発言をしてしまったりします。
言葉は言い方次第です。相手が聞いた瞬間、うちのめされて、立ち上がることもできなくなることもあります。言葉は、ときには人を殺める凶器になります。
「あのとき、あんな言い方でなく、こんなふうに言えばよかった」という後悔が起こらないように言葉に気をつかいたいと思います。
ブログを読み、
コメントせざる得ない気持ちになりました。
私は
高校三年生の時の担任に、
同じことを言われました。
東京の私大四年生を希望しました。
私の学校のレベルでは受かった人はおらず、
担任の
『母子家庭なんだから、地元の短大に行く方がイイと思う』という言葉でした。
この後、
一浪し、
奨学金を受け、
その二年後編入学し目的の大学に合格しました。
担任への怒りと、偏見が、
もの凄いエネルギーを私にくれたんだと思います。
でも
先生が仰る通りで、
「絶対に無理」という言葉は
私の中で敵対語として、
いつも心にあります。
そしてあの言葉が、
『諦めず、闘うこと』を植え付けたようです。
負の言葉を受け取る側は、忘れません。
教師の未熟さは、
生徒の一生を左右するものだと、、
今も確信してます。