目的は、奈良桜井市にある聖林寺の十一面観音菩薩(国宝)に会いに。
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= 十一面観音縁起 =
第一回指定の国宝、天平時代を代表する美しい仏像として知られているこの仏さまは、大神神社の神宮寺、三輪山・大御輪寺(おおみわでら)の元の本尊です。天平神護年間前後、西暦七六二年から七六九年の間に東大寺の造仏所で造像され、その願主は智努王(ちぬのおおきみ・文室真人浄三、天武天皇の孫)とする説が有力です。造像の由縁はよく分かっておりませんが、わが国発祥の地、古代大和王権の中心地に祭られた意義は大きく、時の孝謙女帝が何らかの関与をしたでありましょう。
長く三輪の本地仏で秘仏としてまつられてきましたが、神仏分離令を受けて、高僧、大心(聖林寺再興七世)によってこの寺に運ばれました。観音はかつて四天王に守られ前立観音があり、左右に多くの仏像が並び立ち(現法隆寺の地蔵菩薩=国宝は左脇侍です。)背面には薬師如来一万体が描かれた板絵がある荘厳の中にまつられてきました。現在、奈良国立博物館に寄託している光背は大破していますが、宝相華文をちりばめた見事なもので、その復元が望まれます。長い年月を経て多くのものを失ったとはいえ、これだけ保存良く伝わったことはそれだけでも稀有なことと申すべきでしょう。
(聖林寺公式サイトより抜粋)
その後、「談山神社」へ。
後で知ったのですが、ここは紅葉が綺麗で有名だとか。
やはり、観光客が多かったです。
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― 談山神社 略記 ―
舒明・皇極二代の天皇の世、蘇我蝦夷と入鹿親子の勢力は極まって、国の政治をほしいままにしていました。この時、中臣鎌子(後の藤原鎌足公)は強い志を抱いて、国家の正しいあり方を考えていました。
たまたま飛鳥の法興寺(今の飛鳥寺)で蹴鞠会(けまりえ)があったとき、聡明な皇太子として知られていた中大兄皇子(後の天智天皇)にまみえることができ、西暦645年の5月、二人は多武峰(とうのみね)の山中に登って、「大化改新」の談合を行いました。後にこの山を「談い山」「談所ヶ森」と呼び、談山神社の社号の起こりとなりました。
ここに鎌足公は真の日本国を発想し、日本国が世界に誇る国家となるため、一生涯を国政に尽くしました。
天智天皇8年(669)10月、鎌足公の病が重いことを知った天智天皇は、みずから病床を見舞い、大織冠(たいしょくかん)を授けて内大臣に任じ、藤原の姓を賜りました。藤原の姓はここに始まります。
鎌足公の没後、長男の定慧和尚は、留学中の唐より帰国、父の由縁深い多武峰に墓を移し、十三重塔を建立しました。
大宝元年(701)には神殿が創建され、御神像をお祭りして今日に至ります。
(談山神社公式サイトより抜粋)
平日だったこともあって、渋滞にもあわずスムースに行って帰って来れ、観音さまに癒され、思いがけず綺麗な紅葉も眺めることができ、素敵な奈良への旅でした。