昭和40年頃
16歳と6ヵ月の時に「無条件で自分を受け入れてくれる所」は無くなった、もっともそんなところがあったかどうかもかなり怪しいものだったのだが
「九尺二間が振り出しで」だが「俺が二十歳でお前が一九」などと言う色っぽい話ではない、赤の他人と同居住まいが自分の居所になった、それも借家人でもない、日立製作所の居候の様なものである、
当時は何にも考えいなかったのだが今考えると16歳で保護者が居ないという事はまったく法的な権限がない状態だったのだから宙ぶらりんの「漂泊者」だったわけだ
あの頃の日記を開いてみると何カ所か「幸せになりたい」と出ていたので「幸せではない」と言う意識はあったのだろうが「不幸だ」と言う意識は無かった気がする、
言ってみれば(幸せではない=不幸だ)と言う図式ではなかったのだろう、
両親は再婚同士で両方とも子供がいたらしいがお袋の方はその子(女の子だったそうだ)を里子に出して親父の3人の男の子の親になり、その後女子2人と私が生まれた、
腹違いの兄達と自分は歳が大きく離れていて実際に同居した事もなかったので8歳と6歳違う姉が生活を共にした家族だった、
しかし二人の姉は生まれつき病弱で上の姉は膵臓炎、下の姉は腎盂炎を生まれつき持っていた、
その為「運の悪さ・不幸の度合い」をいったら至極健康に生まれた自分より姉たちの方が明らかに不幸だったと言える、
下の姉は15歳で紡績に就職して半年もしないで結核にかかり天竜のサナトリュームに入り、退院して実家(掘っ立て小屋の)に帰ったら17歳でお袋が癌で手術をし、
口減らしでパチンコ屋に住み込みで働いていた18歳でお袋が死んで、21歳で同居していた親父が死んだ、
その後子供が出来て浜北で始めた餃子店が軌道に乗り始めた時に亭主がやはり脳溢血でたおれ1週間もしないで亡くなった、
心労からか腎盂炎が悪化して子供を施設に預けて数年入院することになったりで不幸の連鎖を絵にかいたような正直小説にしたら嘘のような半生なのである
そのせいで「私は不幸だ、だからみんな私に同情し、支えるのが当たり前だ」と言う様な性格になってしまい段々兄弟友人を遠ざけることになってしまった、
そのころ「姉ちゃんの不幸は本当に気の毒だと思う、しかしそれは誰のせいでもない、酷いかもしれないが巡り合わせと言う事だ、現実を受け入れて行かないと誰も相手をしなくなる」と言ったら「あんたは健康な体を持っているからそんな事をいえるんだ!」と激しく言い返された事があって(そうか、健康である事を感謝しなければな)と本当に思った事がある、
私の人生は「貧乏」がデフォルトだったので「不幸である」と言うより今よりは幸せにと言う程度で有り、病気と怪我以外はこれ以上不幸になる要素がないという感覚で生きていたので「不幸」だと言う自覚は略なかった、
生き乍ら「そうか、普通の人はこうなのか」と言う感覚に襲われても「まあ普通じゃなかったからな」とあっさりと思う事が出来た、
不幸自慢をするという話があるが元来不幸だと思っていなかったのでそれもない、生き続けていられれば万々歳だったのでである。