梟の独り言

色々考える、しかし直ぐ忘れてしまう、書き留めておくには重過ぎる、徒然に思い付きを書いて置こうとはじめる

村には江戸時代が残っていた

2022-12-09 10:31:06 | 漂泊の記

お袋に癌が見つかったのは小学5年の夏の終わりころだったと思う、
新聞で乳癌の記事を見たお袋は自分の乳房にしこりがある事に気が付いて親しくしていた診療所の先生に見て貰ったらそのまま緊急手術となったので今考えるともう手遅れだったのだろう、
殆どあばら骨が見えるほどまで胸を切除して退院したが一年も経たずまた入院をして数か月で亡くなった、
大人になって姉から最初の手術の時から助からない事は知っていたが幼かった自分には隠していたらしい。
中学になってすぐお袋が入院すると姉は仕事を求めて浜松に出て行き掘立て小屋は親父と12歳の自分だけになった、
親父も町に働きに出ていたので帰りは6時を回る、そうしろと言われた記憶は無いが自然と夕飯の用意や風呂の用意は自分の仕事になった、
村には水道もガスもない、煮炊きは竃と七輪だ、風呂は楕円形の木の桶に鋳鉄の釜をはめ込んだ「へそ窯風呂」である、
水を大バケツで井戸から何度も運び、親父が座ると丁度肩までつかる程度まで入れると直径40cm位で奥行50cm位の竈に火を入れる、
煙突が無いので常に空気を送り込まなければすぐ消えてしまうのでその前からは動けない
冬は氷柱が垂れ下がる程水温は下がっているのでその作業は2時間近く、或いはそれ以上かかった、
ある程度沸くと竃に火を入れて味噌汁とご飯を炊く、おかずは七輪を使って干物を焼いたり、野菜を煮たりする、
ある時親父が「石油コンロ」と言う物を仕入れて来てからこの仕事は劇的に(当時としてはである)変わった、薄暗く湿った土間から食卓のある板敷になったのである
貧乏だった我が家は電気契約が「定額」と言う契約で、メーターがない代わりに電線は1本しか引かれていなくて「100wまで」しか使えないという契約だった、
部屋にワイヤーを引いてそこに電灯をぶら下げて移動して使うようにしていたのだがお勝手は土間で別になっていたのでこちらはかなり薄暗かった、
しかし「松下電器」をナショナル電気に押し上げた二股ソケットの登場で我が家の電灯は二股、三股を組み合わせて電灯が増えて、更に中古品だがラジオまでつく様になった
「100wまで」もどうやら安全器の中のヒューズを太いやつに変えれば結構使える事も学んだ、
学校から帰ると家事が待っている、風呂は三日に一度か四日に一度だが焚き付けの薪は調達しなければならないので帰ると山に入って枯れ木を集めてきて使いやすい長さにきったり割ったりして風呂釜の近くの縁の下に積む作業がある、
風呂を沸かす日には親父が戻る6時半頃には食事の用意が済んでいなければならないので3時頃からずっと作業が続く
しかし風呂焚きの2時間余りは学校で借りて来た本を読んだり予習や復習をするのでこの作業の副産物としてテストだけは結構いい成績を残していたのは効用だった、
お蔭でこの年代にやるべき遊びと言うのは略なくて全く可愛げのない少年が出来上がったのは間違いない、
60代になって村に行ったときに会った年配の方は全く覚えていなかったが相手は覚えていたらしい、
名前を聞かれたので「清一の息子です、覚えていますか?」と効いたら「あ~覚えてるよ、妙に大人びた子だったな」と言われたので(やっぱりな)と妙に感心した、
姉たちからも「あんたは嬉しいのか嬉しくないのかさっぱりわからない、可愛くないね」と言われ続けていたので自覚は十分にあった、
しかし帰る家が無くなって生きて行くには他人様に嫌われるとぐれるしかない、
他人に媚を売るのは貧乏の自覚があるだけに惨めだが人を不快にするのは無用な敵を作ってしまう
他人にされて不快になるようなことは極力避ける世渡りはこの頃がルーツかもしれない