駅から村の一番奥のトンネルまで「4里ある」と言っていたので少し手前にあった我が家までは恐らく15km位だろう、
トンネルの少し手前に「眞砂屋」と言う万事屋があってこの村の唯一の店である、
酒と煙草、味噌醤油などの調味料と石鹸などの生活雑貨、若干のパンとお菓子類がある
因みにこの時代の洗剤は粉も液体もない、固形の洗濯石鹸で風呂や洗顔に使う石鹸は「化粧石鹸」と呼ばれていて洗濯用は「洗濯石鹸」と言われていた、
固形石鹸と洗濯板と盥が洗濯のスタイルである、洗濯機も冷蔵庫も家庭用には普及していない、
店にある冷蔵庫も上の扉を開けて氷柱を入れるいわば保温装置であり、現在の冷蔵庫が発売されたときはわざわざ“電気”を付けた「電気冷蔵庫」、
洗濯機も「電気洗濯機」と言われていたが其れも未だ先の話である、
したがって村には「肉屋」も「魚屋」もない、「八百屋」もあるわけもないがこれは季節ごとではあるが手に入るので問題は無いが魚と肉は中々手に入らない、
肉は冬になると村の猟師が捕ってくる兎、山鳥と猪位だ、隣の家では卵を取るために鶏を100羽以上育てていて年老いて卵を産まなくなった鶏を潰して調理する、
その時に分けてもらう鶏肉か獣肉、今風に言えば「ジビエ」だがそんなしゃれたものではない、獲物の分け前である(無論買うのだが)
魚の方はすべて干物か味噌漬けで生の魚はまず手に入らない、秋刀魚の味醂干しか鯖の味噌漬け、後は目刺し、
当時は未だ焼津にも秋刀魚が上がった、大漁になると捌けない分をトラックの荷台にそのまま裸積みで山間の村を廻って売り捌く、
何匹と言う売り方ではなく「バケツ一杯」と言う単位で持って行った入れ物にスコップで山盛りにして「はい!〇円」と言う売り方である
冷蔵庫が無いので買った秋刀魚はバットに塩を敷き詰めて数段重ねの塩漬けにする
買った当初は脂ののった秋刀魚が夕飯にも弁当にも出て喜んで食べるのだがなにしろ数十匹だからしまいに飽きてくる上にやたらに塩辛くなって閉口してくるが贅沢は言っていられない、
何しろ魚を喰えるのはそんな時と偶に自転車で廻ってくる行商から手に入れる味噌漬けだけだ。
貧しいと自覚するのは相対的な環境である、貧村では殆どこんな程度なので自分が貧しいという自覚は東京に出るまで無かった、
一部の友人は今考たらごく普通程度の生活レベルだったが子供社会からするとあっちが特別で「御大尽 」でその他大勢は「普通の生活」だったのである
15歳で東京の日立製作所に務めるとそこには大きな食堂があって日替わりで定食券とうどんかパン2個の副食券と言うのが支給される(無論給料から天引きされる)
白米のご飯とおかず、味噌汁と漬物(取り放題だった)の定食は他の工員たちには大不評で「豚の餌か!」と言われていたが自分にとっては今までの食事からすると実に美味しかったがそんな事はおくびにも出せないが実はハムカツだのクジラの竜田揚げだの竹輪の磯部揚げだのにお目にかかったのだ。
第一家での食事が銀シャリになったのは中学2年ころでそれまでは押し麦が3割ほど入った麦飯だったのだ、
もっとも村で麦飯を喰っていたのは恐らく我が家位だろう、いくら貧農だと言っても農村だから自家米である、
東京に出て敗戦で戻って来た親父には田畑が無いので村で唯一の「配給米受給者」だった
多分米券が足らなかったのだろう、いつも押し麦の入ったご飯か、それも無くなると薩摩芋を炊き込んだ芋飯、更に足らないと水団になった、
それでも「家は貧乏なんだ」と言う意識は皆無で、「田圃が無いからしょうがない」程度の認識だったので全く惨めと言う感覚は無かった
要するに“ぼ~っと”しているのであるがその性格は人生において実に有用であった。