2004年10月に入り、涼しくなり、治療のための通院、子供との生活、友人とのランチなど、
バランスの取れた過ごし方が少しはできてきていた。
11月には一通りの検査を受けた。採血、腹部エコー、胸部レントゲン。
まあ、大丈夫でしょう、とあまり緊張せず診察室へ・・入って椅子に座るなり、中堅女医が
パソコンの画面を変えた。なんか嫌な感じ。エコー、レントゲンの結果は問題ないとのこと。
採血の結果は・・・ここでパソコンの画面を先ほどの画面に戻した。やはり。腫瘍マーカー
CEAの数値が赤色になっている。良く見ると、基準値を超えていた。さらによく見ると、ここ
数か月で少しづつ上がっていたではないか。
ついに、ついにこの時が来たのか。そういうことなのか。
私「再発・・・てことですよね。」
中堅女医「うーん、マーカー値だけでは何とも言えないねえ。検査してみないと・・・。」
いつかは来ると思っていたが、今日来るとは想定していなかったので、心の準備が全くできていなかった。
でも大丈夫、こういうことは判っていたから。うんうん、落ち着こう。
だが、パソコン画面の赤い数値を眺めているうちに、なんかクラクラしてきた。
うっ、気持ち悪い、ズルっ、椅子から落ちてしまった。
私「す、すいません、トイレ行きたいです。」
先生、「え、うんち?」 私「いやあ、なんか気持ち悪くて・・・。」
車椅子でトイレへ。うんちではない。とりあえず頭低くしてじーっとしていた。脳貧血かな。
やっぱりショックだったのかな。まだわからないのに。私ってダメだ。
診察室に戻って、少し落ち着いた。必然的に詳しい検査のオーダーが入った。
CT、脳MRI、骨シンチ。年明けにはPET/CTも。
実は細かいところはよく覚えていないのだが、結果は、CTはグレーのようだった。
グレー、って何がどう怪しいのかわからないが、そんなあいまいな結果のまま、お正月を迎えた気がする。
私「検査の結果ははっきりしないのですが、年末は大阪に帰ります。」と義母に伝えたことは覚えている。
かといって憂鬱なお正月を過ごしたというわけでもなく、恐らく検査疲れでもうどうでもよくなっていた
のかもしれない。
何しろ、1年前は、突然の乳がん告知、年明け手術でドタバタだったから、今年こそはゆっくり
帰省して、孫の顔を義両親にも見せたい、と思っていたのだ。
義母は、私の事をとても心配していたが、私はもう転移覚悟で、あまり深く考えていなかった。
そして年が明けて2005年。
骨シンチでひとつクロが出た。
ベテラン女医 「骨のここ、一箇所だけホントに一箇所だけ(胸椎3)黒くなっているのね。
ここを薬で治療して行きましょう。・・・・」
え・・・つまり骨に転移したっていうことよね。そんな明るくさらりと。
脳はシロ、転移なし。
1月下旬のPET/CTでとどめがさされるのか。
・・・手帳を見ると、具合が悪かったのか、結果が心配だったのか、主治医受診日の前に病院に行き、
別の医師を受診している。そこで覚えているのは、しつこくPET/CTの結果を聞いていたことだ。
医師「・・・、主治医の先生から聞いてもらわないと。・・・まだはっきりとはわかりませんが、
肝臓に集積が見られますね。」
か・ん・ぞ・う・・・。来たか。肝臓。早くも重要臓器。
翌週のベテラン女医受診日に、改めて、肝臓転移を告げられた。ダンナも同席していた。
ここ数カ月の検査検査で、既に再発転移の心づもりはある程度できていたのか、ショックはあまり
なく、「やっぱり」という感想。
治療については、意外な提案があった。
肝臓をさらにMRIで詳しく調べ、可能ならラジオ波で焼くという治療をやってみましょう」
ということだった。
抗がん剤は、ハーセプチンとウィークリータキソール、アレディアに決まった。
最初は入院で行う。
再発転移確定。術後1年。普通に考えれば早いのだろうが、私の場合は想定の範囲内。
当然家族は相当ショックを受けていた。でも両親や義父母は「がんは転移したら治らない」
ということはよくわかっていなかったかもしれない。いやそう考えたくなかったということだろう。
私は・・・。転移かも、と思った時は衝撃が走ったが、検査を繰り返して転移が確定した頃には、
だいぶ落ち着いていて、正直ホッとした部分もあった。
つまり私が恐れていたのは、“いつどういう形で転移するのか”であって、再発転移することは
ほぼわかっていたので、今回ケリがついて、治療方針も告げられて、ある意味気持ちが休まった
のかもしれない。
もう転移してしまったのだから恐れることはない。
「ひょっとしたら治るかもしれない」とかすかな希望を抱く必要もない。
周りから「治ると信じればきっと大丈夫よ。」と気休めにもならないことを言われることもなくなる。
「ほーら、もう転移したのだから、私治らないんだよ。」
と開き直れる。ホントにどういう性格じゃ。
転移して安心する、ってかなり変。だけど、不思議な事に、よーし、抗がん剤ガンガンやって
まだまだ頑張るぜい、というような戦闘モードになっていたのも事実。
恐らく私の場合は、最初の乳がん告知の時に、再発転移も含めてすべての不安・恐怖を
感じてしまったので、再発告知の時は衝撃が少なくて済んだのかもしれない。
まあ、とにかく乳がん生活第2ラウンドが早くもスタートするのだ。
つづく・・・。
今回で、「8年前シリーズ」は終わりです。次回から、「転移後シリーズ」を引き続き書いていきますので、
どうぞお付き合いください。
転移後どうなったかも気になるから読んでやろうか、と思って頂いた方、クリックお願い致します。励みになります。
バランスの取れた過ごし方が少しはできてきていた。
11月には一通りの検査を受けた。採血、腹部エコー、胸部レントゲン。
まあ、大丈夫でしょう、とあまり緊張せず診察室へ・・入って椅子に座るなり、中堅女医が
パソコンの画面を変えた。なんか嫌な感じ。エコー、レントゲンの結果は問題ないとのこと。
採血の結果は・・・ここでパソコンの画面を先ほどの画面に戻した。やはり。腫瘍マーカー
CEAの数値が赤色になっている。良く見ると、基準値を超えていた。さらによく見ると、ここ
数か月で少しづつ上がっていたではないか。
ついに、ついにこの時が来たのか。そういうことなのか。
私「再発・・・てことですよね。」
中堅女医「うーん、マーカー値だけでは何とも言えないねえ。検査してみないと・・・。」
いつかは来ると思っていたが、今日来るとは想定していなかったので、心の準備が全くできていなかった。
でも大丈夫、こういうことは判っていたから。うんうん、落ち着こう。
だが、パソコン画面の赤い数値を眺めているうちに、なんかクラクラしてきた。
うっ、気持ち悪い、ズルっ、椅子から落ちてしまった。
私「す、すいません、トイレ行きたいです。」
先生、「え、うんち?」 私「いやあ、なんか気持ち悪くて・・・。」
車椅子でトイレへ。うんちではない。とりあえず頭低くしてじーっとしていた。脳貧血かな。
やっぱりショックだったのかな。まだわからないのに。私ってダメだ。
診察室に戻って、少し落ち着いた。必然的に詳しい検査のオーダーが入った。
CT、脳MRI、骨シンチ。年明けにはPET/CTも。
実は細かいところはよく覚えていないのだが、結果は、CTはグレーのようだった。
グレー、って何がどう怪しいのかわからないが、そんなあいまいな結果のまま、お正月を迎えた気がする。
私「検査の結果ははっきりしないのですが、年末は大阪に帰ります。」と義母に伝えたことは覚えている。
かといって憂鬱なお正月を過ごしたというわけでもなく、恐らく検査疲れでもうどうでもよくなっていた
のかもしれない。
何しろ、1年前は、突然の乳がん告知、年明け手術でドタバタだったから、今年こそはゆっくり
帰省して、孫の顔を義両親にも見せたい、と思っていたのだ。
義母は、私の事をとても心配していたが、私はもう転移覚悟で、あまり深く考えていなかった。
そして年が明けて2005年。
骨シンチでひとつクロが出た。
ベテラン女医 「骨のここ、一箇所だけホントに一箇所だけ(胸椎3)黒くなっているのね。
ここを薬で治療して行きましょう。・・・・」
え・・・つまり骨に転移したっていうことよね。そんな明るくさらりと。
脳はシロ、転移なし。
1月下旬のPET/CTでとどめがさされるのか。
・・・手帳を見ると、具合が悪かったのか、結果が心配だったのか、主治医受診日の前に病院に行き、
別の医師を受診している。そこで覚えているのは、しつこくPET/CTの結果を聞いていたことだ。
医師「・・・、主治医の先生から聞いてもらわないと。・・・まだはっきりとはわかりませんが、
肝臓に集積が見られますね。」
か・ん・ぞ・う・・・。来たか。肝臓。早くも重要臓器。
翌週のベテラン女医受診日に、改めて、肝臓転移を告げられた。ダンナも同席していた。
ここ数カ月の検査検査で、既に再発転移の心づもりはある程度できていたのか、ショックはあまり
なく、「やっぱり」という感想。
治療については、意外な提案があった。
肝臓をさらにMRIで詳しく調べ、可能ならラジオ波で焼くという治療をやってみましょう」
ということだった。
抗がん剤は、ハーセプチンとウィークリータキソール、アレディアに決まった。
最初は入院で行う。
再発転移確定。術後1年。普通に考えれば早いのだろうが、私の場合は想定の範囲内。
当然家族は相当ショックを受けていた。でも両親や義父母は「がんは転移したら治らない」
ということはよくわかっていなかったかもしれない。いやそう考えたくなかったということだろう。
私は・・・。転移かも、と思った時は衝撃が走ったが、検査を繰り返して転移が確定した頃には、
だいぶ落ち着いていて、正直ホッとした部分もあった。
つまり私が恐れていたのは、“いつどういう形で転移するのか”であって、再発転移することは
ほぼわかっていたので、今回ケリがついて、治療方針も告げられて、ある意味気持ちが休まった
のかもしれない。
もう転移してしまったのだから恐れることはない。
「ひょっとしたら治るかもしれない」とかすかな希望を抱く必要もない。
周りから「治ると信じればきっと大丈夫よ。」と気休めにもならないことを言われることもなくなる。
「ほーら、もう転移したのだから、私治らないんだよ。」
と開き直れる。ホントにどういう性格じゃ。
転移して安心する、ってかなり変。だけど、不思議な事に、よーし、抗がん剤ガンガンやって
まだまだ頑張るぜい、というような戦闘モードになっていたのも事実。
恐らく私の場合は、最初の乳がん告知の時に、再発転移も含めてすべての不安・恐怖を
感じてしまったので、再発告知の時は衝撃が少なくて済んだのかもしれない。
まあ、とにかく乳がん生活第2ラウンドが早くもスタートするのだ。
つづく・・・。
今回で、「8年前シリーズ」は終わりです。次回から、「転移後シリーズ」を引き続き書いていきますので、
どうぞお付き合いください。
転移後どうなったかも気になるから読んでやろうか、と思って頂いた方、クリックお願い致します。励みになります。
私の場合は、全摘でリンパ節転移ゼロ、ホルモン陽性、でホルモン剤とリュープリン開始・・主治医も転移確率は低いですね。
って言っていたのに、術後半年で、肝臓と鎖骨上のリンパ節に転移なんて。。
寝耳に水状態の再発告知でした。
でも、受け入れるしかないのです。
悪い方にばかり考えても一日が過ぎていくなら、楽しく暮らそうって思って、考えないようにして生活しています。
乳癌の転移の完治は難しいと思いますが、そうなる奇跡を信じて治療に専念しないとやってられません。
まだ一番下のチビが2歳なので、この子が嫁に行く日まで頑張りたいです。
アッピアさんの、ブログ読んでいると、とても鮮明に書かれていて、私の参考になります。
まあ、月日は流れていくので、薬などはだんだんと新薬が登場していて複雑に嬉しいですが。
これからも末永くお互いに頑張りましょうね。
余計なことは考えずに今を生きる、今を充実させる。
それが悔いのない生き方かなと 思います。
アッピアさんのブログも楽しみの一つです。
あなたのように冷静でいたいです。
主治医も私も気軽に行った採血で腫瘍マーカーの数字がとんでもないことになっていたのです。
その後の骨シンチで多発性骨転移が確定し、心の準備をしてなかった私はとてもショックを受けました。
今は勉強して前向きに生活ができるようになりました。
アッピアさんのブログを読ませていただいて、色々勉強させていただいたり、元気をもらったりしています。
転移後シリーズも参考にさせていただきたいと思います。
子供の成人式までは、結婚式までは、という気持ちも痛いほどわかりますよ。
私も息子の成人式の姿を想像して、切なくなったりしています。
でも、10数年後の子供より、今の子供との時間を大切にしようと思っています。
新しい治療を期待しながら、子供との生活、自分の楽しみを満喫していきたいです。
きっと大家族さんも大丈夫ですよ!
また情報交換しましょう。
言うだけは簡単なのだけど、私もできているいのかな。でもほどほど、ゆるゆるでいいのかもしれません。
毎日は心地良ければ、それが充実かもしれないし、ね!
でも転移しても、QOLと心の健康が保てれば、転移前と、いや病気前と変わらず、普段通りの生活が送れるし、旅行や楽しいことも制限せずにできるんです。
だからきっと大丈夫ですよ!
いっしょに頑張りましょ!
でも不安や恐怖は、自分の心、正確に言うと脳みそが作りだしている”お化け”なんですって。
是非、”お化け”を追い払って、穏やかな毎日を送って欲しいです。
これは、再発しても同じ。”お化け”追い払えれば、自分らしい生活が送れますよ。
大丈夫!また遊びに来てください!
治療の恩恵を受けられないタイプ。
うちも下は小3だから…
お化けを退治しながら、毎日平穏に過ごしたい。アッピアさんも免疫アップして頑張ってください。応援しています。
楽しみにしてますよ~