河口公男の絵画:元国立西洋美術館保存修復研究員の絵画への理解はどの様なものだったか?

油彩画の修復家として、専門は北方ルネッサンス絵画、特に初期フランドル絵画を学んできた経験の集大成を試みる

またまた知りませんでした。「ためしてガッテン」NHKから

2016-10-17 23:51:35 | 絵画
年を取るにしたがって人は目が悪くなり、耳も聞こえが悪くなってポンコツとなるのは仕方がなく受け止めていたが・・・。「加齢による色覚異常」になるとは思っていなかったから、高齢者になっても絵を描きたいと思っていた私には少しショックだった。
例えば、ドレスの色が何色に見えるかという出だしの質問に、ある者は青と黒、またある者は白と金と答えて、そのギャップの大きさに驚く。スタジオの参加者も半々で年齢差というわけではなかった。見え方そのものは錯覚で感じてしまうように、脳に組み込まれているという。

番組で得た情報をまとめると、特に青色に関して加齢の夜色彩の変化が起きるそうで、目の奥にある網膜上に並んだ錐体細胞(650万個ぐらい)と呼ばれる知覚細胞があって、青、赤、緑(光の三原色)を感じる細胞があるらしい。この内、青色を感じる細胞は元来数が少なく、個人差もあるのだそうだ。青色の細胞が少ないのは太古の時代に祖先が海から上がって、青色を識別する細胞があまり必要なくなったせいだと・・・。うまい話だね。
しかし全体的に20代が知覚力のピークで、加齢によって機能が低下して、薄い黄色のフィルターをかけたような状態になるらしい。つまりそれぞれの色が弱く感じるようになるということ。

修復家として失われた絵具層に新たに色を与えた頃、私の知覚はどうであったろうか。時には顕微鏡をのぞいて補彩の作業をしたこともあるが、あまりに小さな点を補彩して、自分でもわからなくなるほどであったが・・・。たまにはその作品を見に行った方が良いかもしれない。
この先も絵を描く自分としては事実を受け止めて制作しなければならなと思うが、私の青は一体どんな青なのだろうか!!??

十代から絵を描き始め、美大に進んだ。入試の他に色盲色弱検査というのがあって、カードの数字を読ませるというものだった。カードには二つのパターンがあって、あるカードは彩度の強い赤と緑の点が散らばっていて、健常者には見辛い。もう一つの方は薄いピンクは灰色の点があって、中に数字が表されている。これは点が全て同じ明度で表されて、色も弱く、色盲色弱の人には読めないようになっている。
これを私は両方を読み答えてしまった。しかも正解だ。そこで担当者はどうして分かるのかと尋ねたので、解説して見せた。普通はどちらかなのだと・・・。両方答えたのはまずかった。まあ大学入試は合格したが。
目がいつの間にか明度と彩度を区別して見ていることは実際に起きる。絵を描く者ならそのぐらいの能力は身に着いていてもおかしくはない。今から思えば絵画の修復家として多くの絵を点検調査して、処置を施すのに役に立っているのだから。失われた箇所に新たに補彩するなど、色を判別し、明度を合わせる、汚れを判断することは瞬時にできないと困る。
しかし修復家としての仕事は止めて、今は絵を描くことに専念したいから・・・。
まあ見え方の個人差は、当然誰にも当てはまることだから、私が特別良い訳でも悪い訳でもない・・・・と思えば、それもありだろう。よく考えれば絵を描いて表現するとなると技巧上の問題であり、芸術性の問題ではないので、まだ大事なことは一杯ある。

昔から、ファン・アイクの描いたブリュージュ(ベルギー)のフローニンヘン美術館にある《The Paele Madonna》の左横の教皇のマントのラピスラズリの青色を再現したいと思っているのだが・・・。無論20代の時のように見えたとしても、再現能力は絵画の描写力であって、別のものだ。
絵を描くなら日ごろの修練のほかに弱点を克服するために、照明の明るさに気を付けることになるだろう。絵画の修復アトリエでは机の上で700luxの確保を基準にしていた。色彩の判別や細かな部分を判別するのに必要な明るさだ。勿論自然光であるが、直射でなく、紫外線や赤外線を遮断するフィルターを通している。電球色は用いないし、蛍光灯は青味が強いので、照明が必要な夜間は色を使う仕事に向かない。最近はLED照明のおかげで、太陽光の明るさに近づいたが、青味が少し強いので割り引かねばならない。

そうそう見え方のことを言えば、展覧会で油絵の照明は180~200luxで、紙に書かれている、デッサン、水彩画、パステル画は厳しい保存条件で50luxで展示されるため、明るいところ来た来館者にはよく見えないこともある。正直言って色彩を判別するには不十分な明るさだ。
20分ぐらいすると目が暗さに慣れてくるが、展示経路で次第に少しずつ慣れさせる配慮が必要だ。そんなことをする学芸員はいないが。
よく来館者に怒られました。
年と共に生きること・・・ためしてガッテンです。

林先生が驚く、初耳学・・・TBSの番組から

2016-10-17 21:59:50 | 絵画

番組の中で、「浮世絵の背景に青が使われるようになったのは、プルシャンブルーという絵具が発明され、大量にに青が使われるようになったら・・・・。先生ご存知でした?林先生は「知ってました」という返事。
えー?そうなの?私は知りませんでした!!
本当ですかね?
番組では、初期の浮世絵(美人画)と広重の《東海道五十三次》の一枚の部分を紹介して、前者は背景がなく、後者は遠景に風景が描かれ、青が使われているものを比較させた。今まで使われなかった青が、プルシャンブルーが使えるようになったから・・・・というような発言で・・・進行役のアナウンサーが「先生、お見事です!」という。
いやー知りませんでした・・・。いやいや先生!青色が日本には無かったような話はいけませんよ。
この国には昔から…おそらく古代から・・・、量は少ないものの世界各地でとれる岩群青(アズライト、藍銅鉱、塩基性炭酸塩)と藍(あい、インデイゴ)が使われてきたし、青がなかったような話にしてはいけませんよ。それまでの日本画には多くの青が使われてます。
初期の浮世絵は当初は白黒の線描の版画であったものが、大衆的要望によって、手彩色で色付けするようになり、さらに百年の歴史の中で色摺り版画として庶民に愛されるようになったもので、青色がなかったから初期版画が色なしのモノクロだったわけではないのです。またプルシャンブルーが手に入ったから青が摺られたのでもありません。これは時代の中での表現様式の変化と考えるべきでしょう。

当時の青、群青は鉱石として出たものを、粉砕して水簸(すいひ)したものを粒子の細かさで分別し、それぞれ色の濃さ、粒子の大きさが異なるものを、用途に応じて使ってきた。粒子が細かいと乱反射が大きくて水色のように明るく、粒子が大きいものは青さが濃い。これは水性絵の具として用いるのは構わないが、油と混ぜて用いると屈折率のせいで、暗く濁った色になり、美しい青味は失せて適しなかったために、鉛白と混ぜて青味を際立たせて用いられた。西洋では中世期からラピスラズリという青色絵具は世界の大半がアフガニスタンで産出し、日本で使われた証拠はないが、用い方は群青と同じである。
マルチタレントの林先生ですが、TBSのプロデューサーのいうがままに従っていると、博識に傷がつきますよ。
しかしプルシャンブルーが浮世絵に使われているとは知りませんでした。誰か裏付けを採ったのでしょうか?文献などありましたら教えてください。(浮世絵が大衆的なものであるためにも、安く手に入る青が必要であった。当時、べろ藍とか言われて、鉄を多く含む染料に近い青として中国を経由して入ってきたらしい。)

そこで、取りあえず本に書かれているような知識だけは提示しておきましょう。
プルシャンブルー(プロイセン青)1704年にドイツで発明された。フェロシアン第二鉄またはそれに類似した化合物であるとか・・・この鉄の化合物は占領に近い性格を有しており、様々なバリエーションで類似した製法があって、色味も濃青色から黒青色や赤みを帯びたものまである。透明性のある染料の性格をしているが、細かな粒子で、沈殿してできる。これを用いて鉛白を染め付けると目に見えるほどの顔料になる。
この微粒子染料でプロイセン軍の軍服を青色に染めたらしい。
光や空気にかなりの耐久性があるとされているが、アルカリには鋭敏に反応して弱く、褐色に変色する。アルカリの石灰で地を作るフレスコ画には用いられなかった。酸には強いらしい。油に混ぜると褐色に変色することがあるらしい。今日ではペイントや印刷用インクとして用いられる。

そこで発明は1704年でも、詳細な製法が公表されたのは1724年でヨーロッパ全体で生産されるようになったのは1750年頃だそうだ。最初に絵に用いられたのは1770年で、その後ありふれたものになったらしい。
私が画学生であった1970年頃にプルシャンブルーの油絵の具があったように思うが・・・いつの間にか無くなった(実際にはある。画材屋に行けば見つかる、ただ修復のような厳しい材料指定があるものには向かないから、排除されている)。私の正直な感想は「汚い青色」であった。ボールペンの青色と同じで美しくはなかった。

そこで最初に戻って、時代のことを言えば、広重の浮世絵は1835年頃の版である。空の青は地平線から薄青い色から濃い青になるが、プルシャンブルーの色味ではなかった。当時はまだ完全な開国はされておらず、中国を経由して輸入していたとは・・・知りませんでした。
勿論日本での生産はあり得ない話だ。
しかし林先生がプルシャンブルーだとおっしゃるなら、ぜひ文献などを紹介していただきたく思います。
河口公男の初耳学です。