河口公男の絵画:元国立西洋美術館保存修復研究員の絵画への理解はどの様なものだったか?

油彩画の修復家として、専門は北方ルネッサンス絵画、特に初期フランドル絵画を学んできた経験の集大成を試みる

近現代美術について

2017-03-28 13:11:36 | 絵画

私は近現代美術が好きではない。嫌いと言った方が良いかもしれない。メディアで取り上げられる作品たちは、どれもこれも、皆アイデアで勝負しているとしか感じない。観念的というべきで、他のものがやっていないことが、独自の表現だと思っているように感じる。

特に若い時は誰も、自分の在り方に基準がないから、何も分からないうちに飛びつく。いろんな経験をすればよいと言えるが、将来性のない方向を選択していることも多々ある。私も反戦活動、宗教、哲学などふらふらと歩んでいた。とにかく生き方に疑問を持っていたのは救いだったと思う。

その後の、当の私は具象絵画の宿命を感じてしまって、偏執的に縛られているのかもしれないが。

〇坂崎乙郎氏の著書「イメージの変革(当初、幻想芸術と誤認した。許してください)」を久しぶりに読んだ。彼は私が東京造形大学に在籍していた時(1972年頃)の講師で、自著の幻想芸術について講義し、学生達にこの本を買わせた。彼は既に亡くなっていて、個人を批判するようで、少し気が引けるのではあるが、読んでいて頭の痛くなるような文章で、わつぃの青春時代はこんなものだったかと、今更ながらだが・・・・当時分からなことだらけだったのだ。この頃、流行った幻想絵画に魅了されていた学生時代には坂崎先生の話すことは「天の声」のようなものだった。

今になって読み返すと、彼は文章を自分の文学のような評論にして、様々な作家の表現について述べていた。一方で最後の「編集後記」ではごく普通の分かり易い表現の「普通の文体」で感想を述べているのに驚いた。本文では、彼が自分の評論を「彼の芸術作品」のように扱う、当世流行の知的表現法というか、気取った表し方が、当時の若者たちに、また後続の近現代美術関係者に受け継がれているのは罪だなと思う。

しかし事の発端は、フランスの詩人ボードレールの言葉に始まる「私は最良の批評とは、読んで面白く、しかも詩的なものだと深く信じています・・・・良き批評とは知的で感受性豊かな精神によって捉えられた作品であるべき・・・・」(高階秀爾著《世紀末美術》より)であろう。

 当時のサロンの批評は退屈で、存在意義が無かったのだろうけれど、ボードレールの意見は個人的なものとしてあるべきだったが、これに刺激された者が多かったために、おかしなことになったと思う。そもそも批評というものは、作者の表現意図に注目させるために、解説や紹介を行うためのものだろう。しかしボードレールは、それではつまらないと思ったのか、「詩的であり、自分の作品のように扱うべき」と言っている。これを文芸批評としてであれば、言葉で表したものを「言葉で汚されたくない」と文学者は起こるであろう。しかし美術のように視覚表現を言葉に置き換えても、作者は「注目されているからイイカ」程度のことであっただろう。

元来美術作品は視覚表現で世界を作ろうとしているのであって、言葉の威力を借りなくても、いや借りてはならないものだ。美術館の会場でよく見かける「解説」でさえ、鑑賞の邪魔をしている。

ボードレールは美術史研究者ではなかったので、少しは言い訳の余地ががあるが、「批評は詩的で・・・作品であるべき・・・」と言えば、芸術作品そのものは、元より虚構であって、更に虚構を重ねるという意味だ。他人の作品を出汁に使って、自分のものにしようという訳だ。

近現代美術史の批評は文学的とよく言われるが、そういうところに起因する。我々の歴史が今に近ければ近いほど、評価は明確に出来ないものだ。そのせいか、これらの美術史では学術的であるより、非科学的な「虚構」に陥る。古典美術を研究する者と、近現代美術を研究する者ではメンタリティも異なる。某国立近代美術館の学芸員が担当した美術展のカタログは意味不明の表現が大半で、これを英訳するのは不可能だろう。他の者がよく言わなくても、仲間の学芸員どうしで、「今回は良くできたのではないか」とか褒めあっていると聞いた。彼らはガラパゴス化しているのだ。

話を坂崎先生の本の話に戻すと、「幻想芸術」という言葉を使う以上、その意味を明確に示す必要がある。「何が幻想なのか?」。芸術そのものが虚構であり、非現実であるという理解は基本でなければならない。しかし先生は「幻想は空想や夢とは違う」と書かれている。その先の説明はない。近現代美術には、これまでと違う基準があると詐欺師みたいなことは言わないで、広く人類が試みてきた創造の歴史を鑑みて述べてほしかった。そうすれば自身が学んできた図像学的美術史ではない範疇の美術史があったかもしれない。

幻想の意味を絵画作品に求めれば、写真が正確に現状を写すのと違って、写実に描いても、すべて架空の状態に描いているのであるから、写実を否定して「内面の表出」を目指した画家や、その方向性を焚きつけた評論家たちの、観念的で実際がどうであるかの評価が出来ない、あるいは認識できない集団心理の方が問題であり、若い者に影響させて、今日に至るまでの絵画性を円熟させる労力や時間を失わせていることは不幸である。

美術評論家は物を創らないにもかかわらず、言葉で創ること誘導する。物を創らないものが、どうして作り手の心が分かるであろうか。

このことは過去にいつも問われたことであろうが、作り手でない彼らが、常に存在する理由は、彼らの方が「主観的な作り手より客観的で知的で理解にたけている」と信じ込んでいるからに他ならない。そして現代美術を見れば、実際から離れ、観念的な思いを扇動暴走させて、自分の思いを作ってしまうのである。

最近、ミニマルアート(最小限の要素で表現するという主張)について評論している者が居て、評論される画家の作品は「横長のカンヴァスを白黒で半分に区切ったもの」だったが、評論家曰く、「芸術表現として認められなくてもよい・・・」とか。私には詐欺を働いているとしか感じなかった。これは「画面を半分にするアイデア」でしかない。

自分を否定されることを拒む者はコンプレックスを持つことになる。そして最後にはコンプレックスを優越感に換えようとする。そして自分を支えようとするのだ。観念的な世界では、これが起きるのだ。視覚芸術の行く先は表現のアイデアではない。発明品ではないのだ。

現代においてもっとも軽んじられた「感性」こそ、いま必要な実体を感じ取る手段だと思う。